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「道は屎尿にあり」 幼児教育の未来を問う
子どもたちの好きな言葉。「うんち」や「おしっこ」。「道は屎尿にあり」という教えは、禅の教えの一つです。悟りの境地は高尚な場所にあるのではなく、むしろ最も卑近で俗なるものの中にこそ宿る、という意味を持ちます。幼児教育においてもまた、私たちが目を向けるべき本質は、決して整えられた教室や洗練されたカリキュラムの中だけにあるわけではありません。
子どもが泥にまみれ、虫を追いかけ、木の葉をちぎって「これ、なんだ?」と問いかける瞬間にこそ、学びの本質があります。そして、その極致は「うんち」や「おしっこ」といった、生の根源的な営みの中にも潜んでいます。乳児は排泄を通じて自己と環境の関係を知り、自分の身体を意識し、他者とのつながりを学んでいきます。このように、子どもたちは「生きることとは何か」を身体を通じて理解していくのです。
「大地は我らを育み、我らの営みは大地に還る」。このような考え方は、東洋哲学や仏教、道教、さらにはネイティブ・アメリカンの思想など、さまざまな伝統に見られます。たとえば、道教では「人は自然の一部であり、自然と調和して生きることが重要である」とされ、子どもの遊びもまた、この大いなる循環の中にあります。大人が忌み嫌う泥や屎尿ですら、幼児にとっては発見の場であり、「生と死」「食と排泄」「自然と人間」といったあらゆる命題が含まれています。
しかし、現代の幼児教育は、清潔で管理された環境を追い求めるあまり、子どもの「生」の本質を遠ざけてはいないでしょうか。都市化が進み、人工的な遊具が並ぶ園庭では、土に触れ、風に吹かれ、生命の循環を五感で感じる機会が減っています。けれども、「道」が屎尿にあるのならば、私たちはどこに子どもを導くべきでしょうか。
自然の中で遊ぶこと、五感で学ぶこと、そして「汚い」とされるものの中にも学びの芽を見出すこと。その先にこそ、未来の幼児教育の道があるのではないでしょうか。