自律神経が乱れるだけで人は怖くなる
2023年4月26日(水)🌒5.9 ☔4:56-18:23
24:穀雨 72:霜止出苗(しもやんでなえいづる)
前回「どうしよう、治るかも」なんてことを書いたが、案の定、天気も悪く気温も低いこの3日間、調子は悪かった。少し電車が速度を弱めるだけでバクバクする。
これまで、そんな時は手帳のメモや、これまでのことを思い出し、呼吸や呪文など、さまざまな小技によって乗り越えようとしてきた。見るとほっとする画像もスマホにはいっぱい入っている。
が、最近「大丈夫」という感覚がわかるようになってきたので、ダメな時は何をやってもたいがいダメだということもまたわかってきた。いろいろと理由をつけて大丈夫だと自分に言い聞かせたところで、大丈夫な時は「理由のない大丈夫」なのだから。
これはよいことなのか、どうなのか。以前私と似た恐怖症を持っていた年下の友人が、「ごくたまに、なぜか大丈夫なことってないですか。それがヒントやきっかけになるかも」と言っていて、その時は「いやあ、私はいつでも特定の条件では怖いから…」と思っていたが、こういうことなのかもしれない。
週末から帰省することもあり、ばたばたしていた。今のねこたちの、初めてのお留守番準備と、半年ぶりに車の練習の機会があるということで、下調べなどをしていた。
私はどれだけがんばっても車の運転ができない。ペーパードライバー講習に大枚をはたき、その後何度レンタカーを借りても、「生まれて初めて路上に出た人」より下手だし、信号の仕組みがわからない。なぜこんな命懸けの行為を「普通の人が普通の精神状態でできる」のかまったく理解できない。
私は、急かされながら複数のことを同時にしようとすると、パニックになってしまい(これは障害ではないパニックである)、普段ならなんなくできることができなくなる。よって、忙しい店でバイトをして褒められたことは今まで一度もないし、総合病院の受付も一日中パニックになるばかりだった。恐怖と緊張で体が動かなくなる。静止してしまう。これは運転においては致命的である。そして軽い左右盲でもある。発達障害なのかもしれない。
にもかかわらず、私はまだ運転を諦めきれない。目的と目標がぼんやりしているから上手くならないのだと思いたい。道を知らないまま、人に言われるがままの目的地を目指して練習しているからできないのだ。ということで、今回は実家から近く、今後も行く可能性の高い道を、何度もgoogle mapやストリートビューで見て、道を頭にたたきこんで走ってみる予定だ。
とはいえ気が重い。「そんなに悪くなかったね」という感想を手に入れて、一刻も早く終わらせたい。
さらに、そろそろ本気で父に補聴器を勧める説得をしなければと思っている。頑固な父は、普段離れて住んでいる私の言うことなら聞く可能性がある(と思う)。しかしもともと好きだった父を、さも老害であるかのように説得するのはとても気が重い。
昨日は久しぶりに瞑想がまったくできなかった。今日も1日ほぼ休みだが、まったくもって順序立ててものごとが進まない。最低限の家事や用事も、ひとつの意思も計画もなく思い付いた順にただこなしている。きれいな音楽など聴く気が起こらず、なんとなくpodcastやNHKプラスの音声を聞いている。そうしているうちに夕方。ミシンを出して作りかけのものに手をつけるなどまったくもって無理。
そうしているうちに、休みのたびに出かけたりモノ作りをしたりしている人たちがみんな憎らしくなっていく。体力のある人や鈍感な人がみんな嫌いだ。自分で言ったことや私が言ったことを何にも覚えていない人も嫌いだ。運転できる人も、英語が話せる人も、実家が東京の人も、そのありがたみがわかっていないやつらはみんなみんな嫌いだ。ら抜き言葉やい抜き言葉や、ケージのことをゲージと書くやつも嫌いだ。私と違うやつはみんな嫌いだ。やさぐれている。が、これがすべての本音のような気もしている。
「らんまん」は素晴らしい。