カワイイ
見覚えのある景色、聞き覚えのある騒音。そして、懐かしい香り。かつて自分の住居であった建物には、当たり前のように、新しい住民がいた。私が住んでいたのはどれぐらい前だろうか? ハッキリとした時間の長さをきちんと数えると、それ程前ではないのかもしれない。その証拠に、街は相変わらず平和な姿のままだった。
懐かしいと言えば確かにそう。しかしながら、何故か寂しい。その理由は、私が憶えている存在は誰もいなくて、誰も私の事を憶えていない事が原因だった。その事で、私の胸は空洞になり、やりきれなくなる。
あの頃。
何も知らなかった少女時代。
私は、自分の住んでいる世界が小さいと、思っていなかった。そこしか知らない私は、そこで、それなりに友達とはしゃいでいた。それに妙に温かい雰囲気に、私は守られている感じがした。
ただ、ある時に私は気がついた。
そこの景色にはいつも人がいた。
私が見ているのではなくて、私が見られているという事に私は気がついた。そして、その時から、私は外の世界に憧れるようになった。
私を見ていた人達は、私が夢を見ているなんて想像もしていなかったと思う。
私の夢。
それは、街にはなかった。
外の世界の事など知らないのに、私は単に、外に出る事を夢見るようになった。
自分では何もしないのに、ただ、誰かが私を迎えに来てくれる事を望んでいた。
抱きあげられて、誰かの腕の中に入る事に私は慣れていたつもりだった。
いつもの事のように、その誰かと同じように、その人は私に言葉をかけてくれた。私は必死に愛される努力をした。
「カワイイ」
もしかすると、私がはじめに憶えた言葉がそれかもしれない。
その言葉が私を外の世界に連れて行ってくれる気がしていた。
遅い事はなかった。早すぎる事もなかった。
私は、その人に連れられて、平和な街を出た。
そして、同じ人に連れられて、私はこの街にもどってきた。
「この子を飼う事ができなくなりました」
私には理解できない言葉だった。しかしながら、私はその意味はわかっていた。
あの時、同じ時間過ごした友達は誰もいなかった。
代わりに、知らない犬達が、私と私を連れてきた人を見て吠えていた。或いは「連れていってくれ!」という叫びかもしれない。
私は、居場所を失くした。
ここに戻るには遅すぎた。もう少女ではない自分には価値がない。かといって、あの人の家に私は戻れない。
母の記憶なんか何の役にも立たない。
母に愛される事よりも、人に愛される事を私は望んでいたのだから。
私の意思では何もできない。
アクリル板の向こう側。売られなかった犬達と同じ末路を私は歩むのかもしれない。
カワイイと言われる為に産まれてきた。
一度は、その言葉のおかげで外の世界に出られた。
そう自分に言い聞かせて、私は納得するしかない。
それだけでも、私は幸せだったと。
再び売られる事はないかもしれない。
ほんの僅かな時間でも、私は愛された。
その事で寂しさを乗り越えようと思う。
この街(店)にいる犬達へ。
どうか、幸せになって欲しい。
望まれて産まれてきた命達。
愛されるだけでなく、自分を愛する事に幸せを感じて欲しい。
愛は距離だと思う。
触れられる事、触れる事、近い距離はもちろん愛だと言える。しかしながら、離れる事で愛せる事もある。
そう考えれば、どんな裏切りにあっても、人を憎まなくてすむ。
人と触れ合う事も、人と離れる事も、人を愛する為の距離だと思えばいい。少し遠くにいる時は、遠くにいるやり方で愛せばいい。近くにいる事だけが愛じゃない。離れるからわかる事もある。
私達は犬だから、人間ではないのだから、人間にはなれないのだから、犬として生きなければならないと思う。
私はそう思っている。
たとえ、この先、人と触れ合う事がなくても、私は人を憎まない。
人がいなくても、私は犬として生きていきたい。
ただ、寂しさはいつだって私の中にある。
失ったと思うから寂しい。
その事で、人間を嫌いになるかもしれない。
しかし、私はやっぱり幸せになりたいから、いろんな屁理屈を考える。
どんな境遇でも、私は犬でいたい。
人間に愛された。
人間を愛した。
嘘でもいい。その記憶だけで生きていく。
何もなくてもいい。
だから、犬達。
生まれてきた事に、疑問を持った時、
こう考えて欲しい。
生まれてきた事に意味などない。意味などないけれど、
どんな状況でも、私は幸せになれる。
そう、呟けば、誰も嫌いにならなくてもすむかもしれない。
嫌いになったこと自体が、バカげたことだと気がつくかもしれない。
私はこれから、どうなるかわからない。
私はどこへ行くのかわからないけれど、私が思っている事が伝わらなくても、私は想い続ける。
私達はカワイイ。
私達は、カワイイと思われるために生まれた。
人間なんか関係ない。
私達は意味のある存在。
だから、私はみんなの幸せを祈る。
そんな事を私は思った。
案の定、あの人はこの街(店)から出て行った。
私を残して出て行った。
おわり
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