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【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第18話 アフガニスタン
2004年10月29日 旅立ちから、現在 300 日目
パキスタンとインドの国境近くの町ラホールで数日過ごしたある日のこと。
いつもと同じように町を散策していたが、その日は昨日までののんびりした雰囲気が一変して皆慌ただしく動いていた。
人々は大量の食料を買い込み、商店はいつもより早く店じまいの準備をしていた。
聞くと、今年のラマダンがいよいよ明日から始まるとのことだった。
ラマダンとはイスラム暦の9月のことで、イスラム教徒はこの月に断食を行う。
期間中、飲食はもちろんのこと、喫煙や性行為なども禁止される。
ただ、断食といっても1ヶ月間昼夜丸々完全に絶食するのではなく、断食は日中に行い、夕方日没後から翌日朝日が昇るまでの間に一日分の食事を大量に摂るそうだ。
私のような外国人の旅人については強制されることはないとのことだったが、日本にいたらこんなことはまず無いので、いい機会だと思い私もできるかぎり断食を行ってみることにした。
結果、最初の数日は頑張ってみたものの、根性無しの私は10日程でリタイアしてしまった。
それでも彼らの文化をできるだけ尊重して、日中の人前での飲食は避け、宿の部屋で人目に付かないように一人でひっそりと食事をした。
パキスタン北西部の町ペシャワールからカイバル峠を越えてアフガニスタンへ向かうバスが出ていた。
当初私はそのバスに乗ってアフガニスタンに入国する予定だった。
けれどもその数日前にアフガニスタンの首都カブールで欧米人旅行者が何者かに殺害された。
確かに当時アフガニスタンはまだ治安が安定せずに危険だと言われていたが、細心の注意を払って常識的な行動をとれば十分に旅が可能な程度の秩序は保たれていることもまた事実だった。
だが、私は国境まで行ってはみたものの、結局そこで悩んだ末にアフガニスタン入国を諦めた。
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同時期にアフガニスタンへ入国し、後日再会した旅人から「砂漠の真珠」とも呼ばれるバンデ・アミール湖や、バーミヤン等の遺跡がいかに素晴らしかったかを聞く度に自分の判断を悔いたが、今冷静に振り返ってみても、当時の状況下でのアフガニスタンを避けるためのルート変更はやはり仕方のない選択だったと思う。
その代わりにパキスタン国内にあるアフガニスタン難民キャンプに行った。
ペシャワールから国境行きのバスに乗り、国境手前の終点で降りると、そこには内戦状態のアフガニスタンから逃れてきた人たちの難民キャンプがあった。
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足を踏み入れると、広大な敷地内にレンガ造りの家が立ち並び、簡素ながらも八百屋、肉屋、雑貨屋、散髪屋などの商店も軒を連ね一見普通の町のようにも見えた。
しかし細部に目をやると、下水が機能していなかったり、ゴミが散乱して不衛生だったり、怪我人が多く目に付いたりして、やはりここは世界最貧困地域の最前線なのだと気を引き締め直した。
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「私たちは平和を愛する」と彼らは言っていた。
そして、欧米諸国から誤解されていることも知っていた。文化・伝統・誇り・宗教・価値観・主張…。
何を護り、何を歩み寄るべきなのかを、ぎりぎりのバランスで彼らは模索しているように感じた。
そんな彼らと接して、私は日本人としてどう生きていくべきなのか考えさせられることがたくさんあった。
イスラム文化は日本や欧米の価値観と大きく異なることが多々あり、日本の感覚で物事を考えると理解できないこともあった。
だが、違いを受け入れて彼らを尊重し理解しようとすれば、彼らは暖かく受け入れてくれた。
一日に5回の祈りを捧げる彼らの敬虔な信仰心には本当に感心し、真摯に祈る姿は美しくさえ思えた。
彼らの祈る姿を見るために、私は何回もモスクへ足を運んだ。
ペシャワールから長距離列車に乗り、アフガニスタンを南に迂回するようにモヘンジョダロを経由してクエッタへ向かった。
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翌朝クエッタ到着後、駅を出てSUZUKIに乗り替えて市街地に向かった。
SUZUKIとはその名の通り、日本のSUZUKI製の軽トラックの荷台に乗客用のイスを取り付け、ギラギラに装飾を施した乗り合いタクシーのことである。
トヨタ車やホンダのバイク同様、ここでも日本製品が愛されていた。
私はただの一介の旅人でしかないが、それでも一人の日本人として誇らしかった。
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宿に着いたら皆がはしゃいでいた。ラマダンが明けたようだ。
これでようやく日中堂々と食事ができるのだ。
外では爆竹が鳴り、人々が通りに繰り出していた。皆笑顔だった。
私にもラマダン明けを祝う食事が振舞われた。
その日は心ゆくまで食事をし、彼らに混じって共にラマダン明けを祝った。
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続く ↓