【美術展2024#21】ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?@国立西洋美術館
会期:2024年3月12日(火)~5月12日(日)
国立西洋美術館の歴史上、初めて現代美術が扱われる。
事件だと思った。
今後の日本の現代美術のひとつの分岐点になるのではないか。
後世で振り返った時に西洋美術館の歴史のみならず日本の展覧会史に残るものになるのではないか。
開会前からそんな予感を感じ、期待しながら足を運んだ。
さて、私はここで何を目撃するのか。
中林 忠良
最初のブースには中林忠良の見慣れた銅版画が並ぶ。
なぜここで中林?と思ったが中林氏は西洋美術館作品収集委員会の第三者委員としても関わっているとのことなので半分中の人間とも言える。
東京藝大名誉教授であり日本美術家連盟理事長も務めており日本の美術文化人の権威のような人物だ。
展覧会の導入として西洋銅版画史から駒井哲郎や中林忠良をからめて日本における近代西洋美術史の文脈を簡潔に整理して鑑賞者にこれから始まる体験の心構えをさせる。
そして日本近代西洋美術史そのものに見立てた中林氏のブースを通して西洋美術館の深部へと、鑑賞者の意識下へと少しづつ迫る。
そんなタイムトンネルをくぐり抜けるような仕掛けだろうか。
版の腐食過程を表している18枚の作品が展覧会の深部へじわじわと沈みこんでいく装置のように感じた。
次のブースは絵画中心の展示だが徐々に西洋と日本が、近代と現代が、表現の形態そのものと共に交錯していく。
まるで村上春樹の小説のように。
そして次の章へ。
小沢 剛
帰ってきたシリーズの《ペインターF》を西洋美術館所蔵の藤田嗣治の自画像と共に展開する。
戦後藤田嗣治が帰った場所がパリではなくバリだったとしたら。
歴史のifをもとに繰り広げられるストーリー。
実際の藤田嗣治の自画像が隣にあることで小沢氏の作品の強度が増し、お互いの存在感と必然性を引き立てつつ新たなストーリーのもと西洋美術館のスタンスを問う。
元ネタをリスペクトしつつ、すでに発表済みの自らの作品に組み込んで再構築し、作家のフィルターを経て新たな作品へと昇華させる。
とても良くできたスマートな作品だと思った。
小田原 のどか
小沢剛の作品に関心しつつ奥のスペースへ進む。
そこには赤い床の上にロダン彫刻が横たわっていた。
不敬だと思った。
本来人目に触れる状態ではない作品を公衆の面前へ引きずり出して転がす。
自分の作品だったり承諾を得た現存作家の作品ならばいざ知らず、西洋美術館を象徴する(引いては日本近代西洋美術史を象徴する)ロダン彫刻を無様な姿で見せ物にする。
世界各地で見られる権力者の像が革命により民衆に倒され落書きをされ破壊される光景に重なった。
地震による転倒を意味しているとされていたが、だとしたら(さすがにそこまでは美術館側も許可できなかっただろうが)緩衝材など用いずに直に床に転がすべきだし、なんなら作家人生をかけて本当に破壊するくらいのことをしてほしかった。(本人も彫刻は破壊されるときに最も輝く旨の発言をしているようだし)
結局、まずロダンを転がしたかったのだと思った。
転倒に転向などの意味を重ねていたが全て後付けの理由に思えた。
大袈裟に言えばロダンへの冒涜、そして今まで西洋美術館神話を盲目的に信じていた日本人への冒涜だと思った。
作家は自らのこの言葉をどのように回収するのだろうか。
とはいえ通常では見ることのできない台座との連結の仕組みや構造を至近距離で見ることができるのは貴重な機会だ。
喰らいつくようにまじまじと観察しているうちに結局興味を持ってしまっている自分自身のゲスい感覚があらわになる。
安全地帯から他人事のように海外の戦争報道を見聞きし、さもわかったように偉そうなことを言ってしまうような感覚。
ゴシップ誌の記事なんか興味ないはずなのに結局コンビニで立ち読みしてページを開いてしまうような感覚。
場末のストリップ劇場で誘惑に誘われ欲望のまま最前列でかぶりついている油ぎったオヤジのような感覚。
初めは野次馬の如く遠巻きに見ていただけのはずなのに、いつの間にか(内心では正義ではないと思いつつも)自分もその輪にしっかり取り込まれて不敬の当事者になってしまっている。
結局作家の術中にはまってしまっているようでなんだかとても悔しかった。
鷹野 隆大
IKEAの大衆家具でしつらえた庶民の生活空間に西洋美術館の誇る名画や彫刻たちを並べる。
そこに作家自らの作品が等価に混在している。
権威のある美術館に仰々しく展示されているから価値がある作品なのだろうか。
もし一般家庭の壁に掛けられたときに作品はその価値を変わらず維持できるのだろうか。
果たして幼い子供は恐竜のぬいぐるみとブールデルの像のどちらに価値を見出すだろうか。
私たちは盲目的に権威を肯定しているのではないか。
権威に対して疑問を感じえないようなシステムに飲み込まれているのではないか。
権威を否定するのではなく、権威のあり方そのものが問われているように感じた。
弓指 寛治
西洋美術館の周辺で生活していた人々に焦点を当て、西洋美術館と周辺環境を描き出す膨大な作品群。
私が初めて西洋美術館を訪れた30年前(1994年のバーンズコレクション展だった)には確かに上野公園には大量の路上生活者がいた。
格式高い建築群のすぐ脇に広がるダンボールやブルーシートでの路上生活者の暮らし。
テント村はちょっとした町内会の様相を呈しており、戦後とは言わないまでも昭和の残り香が随分と漂っていたように思う。
あの頃、新宿にも渋谷にもそのような路上生活者は多くいたと思うが、上野公園はその中でも特に際立っていた。
その後幾度となく上野公園を訪れることになるが、昨今ずいぶん小綺麗になったとは感じていた。
今回の展示は美術館側(新藤氏)からのオファーだったようだが、弓指氏は自らのフィルターを通してその歪なコントラストに丁寧なリサーチを行い一つの壮大な物語を紡いだ。
それは新藤氏が描きたかった世界でもあるに違いない。
展覧会の看板が煌々と輝く中、路上生活者たちの夜が始まる。
すごく切ない光景。
私自身が30年前に見た上野公園が蘇る。
そしてこの絵を通してこの光景の傍観者だった30年前の私と、今でも変わらず傍観者でしかない私が交錯する。
物語には新藤氏も登場する。
自身の体験を自身のフィルターを通してありのままに繊細に、そして優しく提示する。
そのリアリティがすごかった。
物語を追っているうちに私もその物語に入り込んで登場人物の一人になっているような気分になってきた。
映画や最新のアトラクションでもないのにすっかり物語にのめり込んで感情移入をしている自分がいた。
こんなアナログな表現にそれほどの力があることに驚き、改めて表現の未知の可能性を感じた。
そして社会を変えるのは否定や抗議や告発でなく、一人ひとりの前向きな意識の変化なのだと改めて思った。
結果、今回の展覧会で一番心に残る物語となった。
竹村 京
この作品も印象に残っている。
優しく繊細な表現。
この作品も新藤氏が表現したかった一つの形のような気がした。
最後のブースでは西洋美術館の見慣れた名画と現代作家の平面作品が並列で壁面に展示される。
慣れ親しんだ展示方法に安心するもなんだか少し物足りなくも感じる。
中林作品のタイムトンネルをくぐって「西洋美術館ランド」という不思議なテーマパークに迷い込み、魔法をかけられて次々と新しいアトラクションを体験し、夢と現実の境界線を揺さぶられながら、徐々に魔法が解けて現実世界へ戻されるように展示は終了する。
企画展を出た後、時間があったので常設展にも足を運んでみた。
西洋美術館が誇る名画たちが虫ピンに刺されて博物館に展示されている昆虫の標本のように見えた。
私はここで何を見せられているのだろう。
そしてここにいる人たちは何を見ているのだろう。
そう思った。
どうやら西洋美術館(新藤氏)にかけられた魔法はまだ解けていないようだ。
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