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マニキュアのかわりに、歌を 妊娠日記 [妊娠初期〜中期編]
こどもが好きかと訊かれると、「どちらかといえばYES」と答える。より正確にいえば、「ひと(こども)による」というのがもっとも近い答えだと思う。
小さい頃の夢は保母さんになることだった(中学のときに職場体験でこどもたちに翻弄され、夢は途切れた)。心理カウンセラーを目指して大学に入ったときは、中学生を支えるスクールカウンセラーになりたいと思っていた。
大学院に進み、神経発達症を持つこどもたちの支援にたずさわるようになったわたしは、いつしか「こども」の専門家として親と子に関わるようになっていった。こうして社会に出てからの10年と少しのあいだ、たくさんのこどもと親のための支援に奔走した。少なくともこどもが嫌いではできなかった仕事だと思う。
わたしにとってこどもは、「ひとりの人間」だ。だから、こどもだからといって自動的に可愛いと思えるわけではないし、誰でも彼でも受け入れられるわけでもない。というか、何百人、何千人と会っても気の合う子のほうがうんと少ないし、彼ら彼女らのずるさに腹を立たり、自分勝手さにむかついたりするところは、大人と接するときと何ら変わらない。わたしにとっては大人もこどもも、おなじ「ただの人間」なのだ。
だからなのか、まるで本能のように内から湧き上がる欲求としてこどもが欲しいと思ったことは、なかったような気がする。
いちばん「こどもが欲しい」と思ったのは、大学生の頃だった。当時わりと勤勉な心理学徒だったわたしは、日々新しく出会う「こども」にまつわる机上の情報や技法を、実際に試してみたくてうずうずしていた。
余談になるが、心理カウンセラー(特に臨床心理士養成課程)の実践的な学び(たとえば、カウンセリングの練習や臨床実習など)は、大学院からスタートすることが多い。このため、学部時代はどちらかというと「机に向かうお勉強」が中心で、結果、専門分野に関してはイメージばかりが先行して膨らんでいくことになる。教えてくれるのは百戦錬磨のベテラン教授たち、書籍で出会う事例は綺麗なものばかりだ。こうして、上手な治療や技法ばかりが頭でっかちな知識として積み重なり、憧れがばかりが募るのだった。ああ、わたしが実際にカウンセリングを実践したら、どんなに素敵で魅力的な治療ができるのだろう!
この頃すでにお付き合いしていた夫とわたしは、この先大きな問題がなければ結婚するだろうとお互いに思っていた。今も昔も変わらず平穏な夫のことを、万が一にもわたしから嫌いになって離れる未来は想像できなかったし、だったらいっそ学生結婚でもしたらいいのではないかと、実際に学生結婚をした教授と半分冗談、半分本気で笑い合った。だって今、この「素敵な治療」ができそうなわたしが、こどもを育てるなんてことができたらどんなに上手な子育てができるだろう!と、これはこどもが欲しいというよりも、心理カウンセラーになりたいわたしの職業的な憧れからの二次的な欲求だった。
次にこどもが欲しいと思ったのは、31歳のときだった。きっかけは覚えていないが、ハタチから付き合っていた夫と結婚して3年が経っていたし、帰省のたびに親の老いを感じるようになった頃でもあった。だんだん白髪が増える父を見て、「お父さんに孫の顔を見せてあげなければ」と思っていたような気がする。
当時つとめていた職場(わたしは夢を叶え、小児科の心理カウンセラーになっていた)の先輩たちは、みな不妊治療を経て30代でこどもを授かっていた。そのうちのひとりから、「卵子の残りの数を計測できる検査があるよ」と教えられた。本格的な不妊治療に踏み込む前に、現時点での妊娠できる余力について調べてみたらどうだろう。不妊治療がかならずしも幸福を確約しない以上、それを知ったうえで不妊治療をする、しないを話し合ってもいいんじゃない?
予約をしても2時間待ちのクリニックに二度通い、1年放置していたONEPIECEを読み切った(この時点で休載が増えていたので1年くらいの遅れを取り戻すのは容易だった)。化粧っ気のない女性の医師から、わたしには20代後半程度の卵子の数が残っていること、ただし不妊症であるかどうかは精査しないとわからないこと、もし治療をはじめるならなるべく早めがいいということを告げられる。結果を持ち帰り、夫と話し合った。こうしてわたしたち夫婦は、医療的な不妊治療を「しない」ことに決めたのだった。
それでも、子宮筋腫の治療を産科病床のある病院ではじめたのは、いずれこどもが欲しいと思っていたからではあった。その後、現在までのかかりつけとなる産婦人科の最初の診察で、のちに主治医となる女性医師から「こどもは欲しいですか?」と尋ねられた。そうですね、急いではいませんが、いずれは欲しいです。そう答えると、主治医がカルテ(当時わたしが病院で使っていたものと同じシステムだ)に『挙子希望』と打ち込む。挙子希望。そうかわたしは、こどもが欲しい女としてここに通うんだ。
その後、いつもは淡々としている主治医に「あなたの貧血の値はHb7.4。7.0を切ると輸血レベルです」と(文字通り)血相を変えて告げられ、リュープリン注射、月経の停止、あらゆる更年期症状を経てあれよあれよと手術まで終わると、わたしはこどものいない35歳になっていて、世の中はコロナ禍に突入していたのだった。
妊娠0週~5週|開業、ベトナム、陽性
2024年7月。夢だったワインバーを六本木に開業し、わたしの日々は乗りに乗っていた。
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2020年から続いたコロナ禍は、誰にとってもそうであったように、わたしにとっても人生の角度が少しだけ変わった時期だった。
コロナ禍に突入した当時、心理士としての生活は9年目を迎えていた。日々の仕事はひととおりこなせ、周囲との人間関係は良好で、専門分野に対する自信もついていた。白衣を着て院内を颯爽と歩く自分の姿を想像すると、思わず『あたし、かっこいい…』と笑みがこぼれる。かつて夢見た仕事に就いているという、紛れもない自負もあった。
それでもなぜか、毎日が憂鬱だった。朝の苦手なわたしはいつもギリギリまで寝ていたくて、冬になるとますます起床がつらくなった。憂鬱な気持ちを引きずりながら足取り重く職場に向かい、なんとか1日1日をこなす日々。火曜の夜からすでに週末を指折り数えて待ち、楽しかった週末の終わりに、また憂鬱のループを思い描いた。
あたしの人生、これでいいんだっけ。
そこに、コロナ感染症対策による医療従事者への規制がクリーンヒットをかました。目に見える形での「行動制限のお達し」から、目に見えない村八分まで。あのひと、東京に遊びに行ったらしいよ?やだ、飲み会なんかやってる場合じゃないのに。患者さんの命をなんだと思ってるんだろう!え、旅に出る?海外?!そんなの、もってのほか!
――いやいや、だってわたしたちは、いつかかならず死ぬのに?
そう思い始めると、もうそこには居られなかった。当時勤めていた国立病院はのんびりした雰囲気で、理解のあるドクターや同僚に囲まれ、福利厚生も充実していて、こどもを育てるには間違いのない環境だった。でも、わたしにはこどもがいなかったし、いつまでたっても身分は非常勤のままだった。いつか来るかもしれない、いや、来ないかもしれない仮想のこどものために、組織に大事にされるわけでもない非常勤という身分のまま、憂鬱と束縛でがんじがらめになりながらそこに残り続けるのはもはや限界だった。
1年後、都内のワイナリーに転職した。当時ハマりにハマっていたワインがわたしを次のステージに運んでくれた形だった。そこでは、真っ白な医療現場では見えなかった就業環境と市場原理に戸惑い、体力を削り、筋力を育て、ひと知れずパニック障害を発症しかけながらも(ストレスを感じると過呼吸が出る、というわかりやすい症状だった)、なんとか歯を食いしばって耐えた。それでも仕事は驚くほど楽しかったし、いい出会いもたくさんあった。資本主義におけるものづくりの価値について考えたし、少なくとも店頭販売における接客は、わたしが生まれてはじめて感じたわたしの「天職」だと思った。
そうこうするうちに、ワインを介したサービスを自分で提供したい想いが募り、独立開業する道を選んだ。最初は単発のイベントからスタートし、次第に週1のバー営業、そして六本木に間借り店舗を構えての毎日営業へ。それが、冒頭の2024年7月だった。よーしこれからワインで食っていくぞ!と、こぶしを掲げたちょうどおなじ時期。
わたしのお腹に、こどもが宿った。
発覚したのは駅のトイレという平凡な、いや、むしろ一般的な「妊娠発覚」のイメージからするとだいぶ雑多な(なんならちょっとアングラな)場所だった。
その日は、夫が2週間のベトナム出張に旅立つ日だった。お昼に富士そばのうどんをすすったあと、わたしはお店の営業のため六本木に、夫は空港へと向かうことになっていた。出張の日はいつも寂しい。だからこの日も、なんとなくだらだらご飯を食べた。
実はその頃、わたしの体調があまり良くなかった。日々ふんわり気持ち悪いことがあり、営業中にワインを飲んで誤魔化すこともあった。お客さんと話していると忘れられるのだが、ひとりになるとなんとなく気が重い。くわえて、突然お腹を下したり、鼻血が止まらなかったりしたこともあった。でも、「お腹が痛い」なんて言うとお客さまから不審に思われてしまうかもしれない(医療現場で染み込んだ感染症への忌避がなかなか抜けない)し、まあ、事実ただ疲れているだけだろうと思って、特に誰にも言わなかった。
ある意味一番の変化だったのは、それまで欠かすことのなかった夫とのワインでの晩酌がビールになったことだった。なんとなく、家でワインが飲みたくなかったのだ。でも、それも「ワインを仕事にしたからだ」と思えばプロフェッショナルの証にも思えたし、実際にそういうことを言う先輩もいたのであまり深刻にとらえていなかった。こうして今思えばいつもと違うことがいくつもあったのだけれど、それにも増して毎日が異常に忙しかった。昼間はワイナリーと児童精神科のクリニック(心理の仕事も完全に辞めたわけではなかった)の掛け持ち、そして夜はバー営業。休みも睡眠時間も削っていたし、とにかくハイテンションで乗り越えるしかなかった。
あるときふと、「そういえば生理が来てないな」と思った。でも、わたしの月経はもともとよく遅れる。それがストレスの指標になっているといっても過言ではないくらい、無理がかかると丁寧に遅れてくる仕様になっていた。だから特に不思議ではなかったし、むしろ激務の日々から考えるとそのほうが通常運転だった。それでも妊娠検査薬を買いに行ったのは、「さすがに病院に行こうかな」と思うくらいにはやはり調子が悪かったからだった。お店を開いて1ヶ月、はじめて夫のいない2週間だった。ここをひとりで乗り切るためには、微妙な体調不良にかまっているわけにはいかない。原因があるならつぶしておきたいし、ないならないで対策を考えねばならない。そのためにも、「まずは妊娠だけは否定しておこう」、そのくらいの気持ちだった。
先にうどんを食べ終わったわたしは、「ちょっとここで待ってて」と夫を待たせて目の前の薬局で検査薬を入手した。そして、「じゃあ、気を付けて行ってきてね」と夫と別れた。どこかその辺のトイレで検査だけしてからお店に向かおう。それがたまたま、駅のトイレだったというわけだ。
体温計のような検査薬の先に尿をかけ、ふたを閉める。これまでも何度か見た光景だった。こどもが欲しいと、今よりは真剣に思っていた時期もあった。でも、数か月で心が折れた。先の見えないこの繰り返しを、わたしほどにはこどもに執着していない夫と続けていくことが、今のわたしたちを幸せにするとは思えなかったからだ。
窓にくっきり、二本のラインが浮かび上がる。
・・・・・・・・二本?
慌てて、ゴミ箱に捨てかけていた説明文を読む。目がすべり、指がわずかに震える。二本のラインは、陽性のしるし。
「・・・あ、もしもし?ごめん、まだ電車乗ってない?あのさあ、もう1回会えるかな。なんかさあ……アハハ、妊娠してんだけど」
『え?』
お店の開店時間を1時間遅らせるとSNSに投稿して、夫と再度落ち合った。ここは、夫婦になったわたしたちがふたりきりで過ごした大好きな街。わたしをワイン好きに育てたお店の跡地に、行きつけの美容院、ネパール人が働くインドカレー屋。そんな街の商業施設の階段の踊り場で、使用済みの検査薬を取り出す。夫はそれを見て「おお」といったあと、「いちおう…」と言いながら写真を撮った(それ、尿がかかってますけど…)。そして、しばらくなにかを考えてから、わたしの目を見て「でも、俺は、嬉しいよ」と言ってわたしの頭を不器用に撫でた。
どうやら、こどもができたらしい。わたしたち、ふたりの。
妊娠6週~10週|小さい魚、うなぎ、ラーメン
「妊娠してますね。6週に入るところです」
これが胎児です。説明されたそれはただの影で、どこからどう見ても人間には見えない。しいていえば小さな魚がぶら下がっているような形状で、感動するかといわれると微妙な気持ちだった。いちおう生きているという報告にほっとしながらもまだ自分の気持ちを決めかねていると、急にドクドクという音が聞こえてくる。主治医が淡々と「これが心臓の音です」と告げる。あまりに淡々としているから、わたしはひとりで「おお…」と答えるしかない。
その日の午後、近所の寿司屋にソムリエの先輩を呼び出した。つわりがひどくなる前に会いたいとわたしが誘ったのだ。ついさっき妊娠確定を診断されたばかりの女が、仕事を抜けて来た風情のスーツ姿の男と寿司屋で落ち合う。傍から見たらただの修羅場だ。
「ねえ、こどもができたんだけど」
「そっか。今どのくらいの週数なの?」
「まだ7週に入るところ」
店内には常連のようなおじさんがひとりいて、話好きそうな親父さんと奥さんがカウンターのなかからテレビを見ていた。わたしは(これから食べられなくなるだろうからと)うな重を食べ、ソムリエは「うなぎは来週、奥さんと食べに行くんだよ。え?こどもなんかと行かないよ」と軽く惚気てからちらし寿司を頼んだ。そうか、こどもができたんだ。でも、前から欲しいって言ってたじゃん。で、ギロッポンのお店はどうするの?
このソムリエこそ、わたしがワインに傾倒するようになったきっかけの人だった。自宅から徒歩圏内のワインショップに、文字通り毎週通ったコロナ禍の3年間。まだ「おうち時間」を楽しむ気概があった最初の頃(その後、7月にはすでに旅に出るようになるのだけれど)、ちょっと手の込んだ料理と合わせるためにワインを購入するようになったのが始まりだった。
わたしがワインにハマったのはたまたまで、もしそこに日本酒のお店があれば日本酒にハマったのかもしれないと今でも思う。つまり、わたしはワインよりも先に「そのお店」が好きになったのであって、ワイン単体をシンプルに好きになったわけではなかった。最初はただの店員と客だった関係性が、次第に名前を知り、好みを覚えてもらい、軽い冗談を交わし合い、「なんだ、来ないなと思って待ってたよ」と笑い合うようになっていった日々。あの頃、不信感をベースとした殺伐とした空気が覆う日常のなかで、そのお店に通うことはわたしにとって、まるで日常の灯火のようだった。
「でも、仕事が忙しくて…正直このままだと体がもたないから、できればどれかを調整したいんですよ」
「調整するなら昼のほうでしょ。今後は夜の仕事を続けたいんじゃないの?だったら昼間の仕事を減らして、夜を続けなさいよ。バーはあなたがやりたかったことなんだから」
ソムリエの言うことはもっともだった。お店を開くときも、その前に週1で間借りのバーを開いたときも、なんならワイン業界人になったときにも、このひとには一番に報告していた。普段は軽率な悪口ばかり言ってゲラゲラ笑っているだけなのに、意図理解のはやさと会話の記憶がずば抜けて高い人だった。これは、わたしが「聴くこと」を専門とする職業人だから余計に感じることだが、「前からの続き」で会話ができるひとは、実はめったにいない。スキルの問題もあるが、ふつうひとは他者への興味なんてそんなにない。だからみんな、知らず知らずのうちにこころが乾いていくのだ。そういう意味で、ちゃんと話を聴いてもらえるこの人との時間はわたしにとって貴重な時間だった。ひとの夢を笑わず、決して誤魔化さず、真正面から意見をくれるこのソムリエには、特に業界人となってからは事あるごとに支えられてきた。
しかし、気づいていなかったがこのときわたしは、おそらくすでに体調を崩しかけていた。この日、ソムリエからの的確なアドバイスの数々に、わたしはなぜだかほんのりショックを受けていた。それは、あらゆる言葉が「もっと頑張るべき」という主張に聞こえたからで、すでに具合が悪くなり始めていたわたしは本当は誰かに「いったん休んだら?」と言われたかったのだと思う。
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いや、それでいうと誰もがわたしに「無理しないで」と進言してきた。日常的にお酒を飲む(飲ませていただく)という仕事柄、妊娠7週という非常に微妙な(一般的にはまだ公表するような段階ではない)時期だったが、やむをえず妊娠を公表するという判断にいたった。結果、周囲からは「おめでとう」の祝福と、「無理せず休んで」という言葉をたくさんもらうことになった。なかには「わたしも小さいこどもがいるから、なにかあったら相談して!」という、心強い(そして本来ならばありがたいはずの)母親・父親目線のお声もたくさんいただいた。
でもこのとき、実はわたしにはまったく余裕がなかった。まだ妊娠の実感もなく、おめでとうと言われても不安のほうが断然優勢の頃だった。エコーでは胎芽のそばに新たな子宮筋腫も見えていたし、37歳の流産リスクがそれなりであることも知っていた。そもそも、こぶしを振り上げて開業した直後の急ブレーキに、わたしはまだまだ全然、戸惑っていた。なんたって本来ならばこのあと半年ほど営業しながら物件を探し、間借りから抜け出して新規開業を目指すつもりだったのだ。今となっては果たして本当にそんなことができたのだろうかと思うのだが、でもそのときは勢いづいていたし、気持ちは紛れもなく本気だった。
だからこそ、おめでとうにも、無理しないでにも、うまく返事ができないでいた。おめでとうと言われても素直に喜べず、かといって無理しないでと言われると『じゃあ、家賃はあなたが払ってくれるんですか?!』と心のなかで噛みついた。うちも開業時に妻が妊娠して…といった話を聞くたび、「でもそれって妻の話であって、経営者であるあなたのことではないですよね?!」と反射的に思ったりした。最低だ。とにかく誰にもわかってもらえる気がしなくて苦しかった。「情報をしばらく遮断したほうがいい」という知人からのアドバイスに、なるほど今のあたしにひとの相手は無理だと悟り、そこからしばらくほとんどの連絡を絶った。
そして、妊娠7週頃から本格的なつわりがはじまった。わたしのつわりは主に終始気持ちが悪いというもので、ずっと二日酔いが続いているような身体感覚に、空腹になるとさらに気持ち悪くなるという食べづわりがオプションで追加されていた。食べられるものも限定され、しかもそれが日ごとに変わった。昨日は食べられたものが今日は食べられない。食べられないものに関しては、想像するだけでもう気持ち悪くなった。
ちなみに、最初の頃に食べられたのが塩おにぎりだった。あるとき食事のタイミングを逃して六本木のお店で立ち上がれなくなったことがあった。「塩おにぎり買って来て…」と友人にSOSを送ると、駆けつけた友人から「なに?お腹に裸の大将でもいるの?」と笑われた。これが初期の胎児ネーム、「大将」誕生の瞬間だった。大将はそれからも、毎日ころころと好みが変わった。
ベトナムにいる夫は忙しかった。電話はおろか、ラインもあまり返って来ない。ある朝、どうしようもなく涙が止まらなくなって、10分だけ電話をかけた。ぼろぼろ泣き続けるわたしの情緒不安定は完全にホルモンバランスのなせる技だったが、わかっていても悲しいものは悲しい。夫はわたしの泣きじゃくる声をひたすら聴いて、「きみは何もしてないんじゃない。毎日、お腹のなかでこどもを育ててるんだよ。ありがとう」と言った。
この頃の夫は、妊婦の実録漫画でも読んだのか?と思えるほど(読んで正解を覚えるのでも、わたしはまったくかまわない)、かなり正確にわたしの励ましポイントを押さえていた。正直、これにはちょっと驚いた。「本当にわたしのこと好きなの?」と聞いても、「失礼だな、世界中の女性のなかでいちばん興味はあるよ!」と答える夫が(もちろんわたしの質問が面倒くさい女のそれだとわかっているし、わたしは夫のこの発言を後生大事にしているのだけれど、おそらく一般的にはあまり評判はよくないはずだ)、まさかわたしの妊娠に際して、こんな才能を発揮するなんて思ってもみなかった。これには本当に支えらたし、夫を配偶者に選んだわたし、グッジョブと思った。なにより、どうやら夫はわたしよりも先に、わたしが妊婦になったことを受け入れたようだった。
暑い夏だった。外ではギラギラに太陽が照り付け、アスファルトからの照り返しで日傘はもはや意味をなさなかった。8週頃からはついに家から出られなくなり、ご飯はUber頼み、昼の仕事も極力縮小し、六本木のお店もいったん休業を決めた。この頃、周囲から言われるささいな言葉――たとえば「私なら無理にでも頑張るけど」とか、「妊娠は病気じゃないからね」とか、「あたしのときは臨月まで働いてたよ」とか――に、わたしはいちいち小さく傷ついていた。相手に悪意がないことも、多少あったとしてもわたしのことはわたしが決めればいいこともわかっていた。でも、派手に嘔吐するでもなく、点滴が必要なほど食べられないわけでもないわたしは、「病気じゃない」んだからもっと頑張れるはずと思うと、日に日に罪悪感がつのるのだった。
一方、病院では母子手帳をもらってくるよう指示があり、主治医からはじめて「おめでとうございます」と告げられた。なるほど、8週を超えると「おめでとう」になるらしい。エコーでは頭らしき影と、尻らしき影が見えるようになっていた。あの魚からたった2週間しか経ってないのに!吐き気を押して母子手帳を申請しに行くと、丁寧な物腰の保健師さんが「旦那さんもきっと喜んでますね」とにこにこ言った。わたしは突然の祝福に面食らって、「ああ、そう…ですかね…?」と曖昧に返事をした。本当にまだ、なにも実感がない。その後、「失礼ですが、ご高齢の出産となりますので…」と何度も繰り返されることとなり、あまりに「高齢」の部分で恐縮されるので、それは逆に失礼やぞ、とちょっと笑った。
夫がいなかった2週間のことはほとんど覚えていない。実際、1日の半分以上を眠りながら過ごしていたのだと思う。朝起きてご飯を食べ、ベッドに戻ってまどろみ、昼ご飯を食べてまた眠って、夜起きて食べたらまた朝まで眠った。まさに、ひとを作るためだけに生きていた。8月中旬に夫が帰国してきた頃には、そんな調子の悪さもすっかり板についていた。ただ、夫の帰国で安心したのかそこから少しだけ調子が上向いた。家で味噌ラーメンをゆでてふたりで食べ、週末には近所のイオンにでかけて今度はとんこつラーメンを食べた。
ふと、「きみとこんな週末を過ごすなんて、ひさしぶりだね」と夫が言った。
ああ、わたしは大切な家族との時間をこんなにも犠牲にしていたのだ、と思った。
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妊娠11週~15週|広島、福岡、あともどり
9月に入った。8月下旬には再開できると思っていたお店だったが、自分の想定よりは時間がかかっていた。とにかくワインを飲みたい気持ちにならないので、バーのカウンターに立つ自分の姿を想像できないのだ。
「再開はゆっくりでいいよ」夫は、何度もわたしに言った。きみは本質的に体調が悪くなったわけじゃないのだから、いつか必ず復活できる。できなければそれはそれだし、人生のステージが変わったんだから考え方も変えたらいいよ、と。それから、「できる範囲で再開したら?」とも言った。でもその「できる範囲で」という言葉でさえ、わたしにとってはプレッシャーだった。「できる範囲でいいから再開すべき」という風にどうしても聞こえてしまうのだ。それで、意を決して六本木に行ってみるのだが、やはり体調を崩してしまう。誰ひとりとしてわたしに無理をしろなんていうひとはいなかったのに、いや、むしろ「とにかく休め」と言われてたのにも関わらず、わたしはこの頃まだまだ「妊娠前の自分」に諦めがついていなかった。
そんな折、広島と福岡に帰省することになった。わたしの実家のある広島にはその年の2月から、夫の地元である福岡にはもう1年ほど帰っていなかったし、これからお店を再開するとまた戻りにくくなるだろうと思ったからだ。それに、お腹が大きくなって動けなくなる前に、わたしの両親と義理の両親に直接会ったほうがいいだろうという思いもあった。ぎりぎりまで体調と相談し、帰省予定の前日に新幹線を取った。夫は仕事があったので先にわたしだけがひとりで帰る予定にしていて、最悪具合が悪くなっても途中下車ができるよう、飛行機ではなく新幹線を選んだ。
相変わらず調子は万全ではなかった。頭痛と便秘も続いていたし、食べられる量は普段の半分くらいになっていた。それでも8月と比べると気分はずいぶんマシになっていて、食べられるものの幅も広がっていた。少し前からノンアルコール飲料が飲めるようになっていたので、冷やして新幹線に持ち込んだ。するめのげそは「いま、食べられるもの」のひとつだった。隣のサラリーマンよ、ごめんなさい。妊婦は今ほんの少しでも、つかの間の旅気分を味わいたいのである。
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広島の実家に帰省すると、とにかく何もせずに毎日を過ごした。それは自宅にいるときと何ら変わらない生活のはずなのだが、実家にはいつも誰かがいたり、テレビの音が鳴っていたり、ねこが歩き回ったりしていた。なにより違ったのは、「あしたから六本木のお店をオープンします!」というわけにはいかないことだった。結果的にそれが良かったのかもしれない。滞在は数日だったが、ここで完全に頭を休めたこと、そしてたぶん、ちょうど安定期に入り始めたことが重なって、日に日に調子のいい時間が増えていった。「最近、あんまり食べられないんだよね…」と零した娘(わたし)に、母は「なに言うとるん。そんだけ食べりゃあ十分じゃわ」と言い放った。気づけばいつのまにか、ひとり分のご飯が食べられるようになっていた。
夫も合流して福岡に向かい、ここでさらに調子が上向いた。できるだけ旅らしい気分を味わいたくて、福岡では「ザ・福岡名物」を食べることに決めた。夫の両親と一緒にもつ鍋、鉄鍋餃子を食べると、夜は小倉の商店街に繰り出してとんこつラーメンをたいらげた。あいまに三日月屋のソフトクリームを挟むことも忘れない。おお、なんということでしょう。これは確かに「そんだけ食べりゃあ十分じゃわ」、じゃわ!
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ラーメンを食べたあと、腹ごなしに小倉城まで歩いた。このあたりは学生時代、何度もデートに来ていたエリアだ。当時わたしたちはろくにバイトもせず、サークル活動にばかりいそしんでいたのでいつもお金がなかった。懐かしい街を歩きながら、夫が何度も「大丈夫?」と聞く。それが、大丈夫なんですよ。「ずいぶん調子がいいね」と夫が言う。わたしもそう思う。ライトアップされた小倉城がドーンと目の前にあらわれる。調子がいいと、世界はこんなにも美しいのかと思った。
ところが、実家から帰った途端にまた具合が悪くなった。旅の疲れでつわりがぶり返したのかとも思ったが、どうもそれとは微妙に調子の悪さが違う。「食べたあとすぐに横になるからじゃない?」という夫からのコメントに半信半疑でからだを起こしておくと、なるほど確かにわずかにマシだ。どうやら、食べたものが胃から逆流しているようだった。たぶん胎盤が完成に近づいて、内臓の位置と喧嘩しているのだろう。からだがしんどいから横になりたいのに、横になると食べものが逆流してしんどくなる。仕方なくソファに座り続けながら、さすがに絶望して泣いた。これからもっと元気になるんじゃなかったの。妊婦って、妊婦って、もうほんとに最悪だ!
こうして結局9月いっぱいを休養にあてることになった。わたしはここに来てようやく、自分を信用しないという境地にたどり着いた。100%の調子なんてもう求めない。この先ある程度体調が回復しても、きっとずっと具合は悪いのだ。なんたって、腹のなかでひとを作ってるんだから。妊娠前の自分に戻ろうとするなんて、そもそもはなから無理な話だったのだ。
妊娠16週〜21週│戌の日、フレンチ、ドヴォルザーク
一般的に、安定期を迎える5ヶ月目の戌の日に神社にお参りするらしい、と知ったのは、妊娠がわかってしばらく経ったあとだった。妊娠してわかったことは、この世には知らないことがまだまだたくさんあるということだった。たとえば、妊婦が電車で座りたいのはお腹の重くなる後期だけではないし、妊娠するだけでは自動的に母性など湧いてこない。にこにこ笑ってお腹を抱くしあわせな妊婦像は幻想だと思ったし、「無理しないで」という言葉の背景には、それぞれの人生があるのだった(こうなってみてはじめて、実はむかし妻が、こどもが、という話を本当によく聞いた)。
長年、こどもの専門職として、大げさでなく数千組を超える母子や父子に出会ってきた。それでもそのすぐ隣に、こんなにも見えない世界が広がっていたのだということにわたしは静かに衝撃を受けていた。癌を経験しなくても医者にはなれるし、母でなくとも心理士はできる。でも、見えていないことへの自覚は、見えてはじめてできることもあるのだ、と思い知った。
そのうちのひとつが、妊娠にまつわるひととおりの行事だった。こんなの、誰がいつ教えてくれるんだろう。たぶんかつては同居の家族から、もしくは近所のおじさんおばさんから、はたまた会社の同僚からいつの間にか伝達されていた文化なのだろう。妊娠後に一度引きこもりになったわたしは、社会から隔絶されるとこうも情報が入らないのか、ということを知った。きっと、なかには知らずに通り過ぎてるひともいるのだろうと思う。まあ、それでもこどもは関係なくすくすく育つわけだけど。
9月末の絶不調を超えると、あきらかに体調が良くなった。食の好みが戻って来て、夜もよく眠れるようになった。10月からはそろりそろりと六本木のお店も再開し(ただし、1週間ごとにスケジュールを出す「リハビリスタート」とした。もう妊婦の自分のことは信用しない)、ひとと会うことを楽しみにできるようになった。
それで、今のうちに神社に行っておこうということになった。調べてみると、どうやら神様によって初穂料の最低金額が違うらしい。知人からは安産祈願で有名な東京の水天宮を勧められたけれど、対応人数の少ない神様のほうがアフターケアが丁寧なのではないかと、そんなことを言いながらもう少し初穂料の優しい近所の神社へ向かった。神様の世界もなかなか世知辛いのだ。
当日はお宮参りや七五三のこどもたちに混ざってご祈祷を受けた。秋晴れの午後。戌の日から少しずらしたこともあって、静かな空気だった。祈祷中、こどもたちが順番に「やまだたろう 5歳」などと名前と年齢を言われていくので、てっきりわたしも「37歳」と発表されるかと身構えたら、さらっと名前だけ呼ばれて終わった。おとなに配慮のある神様だった。
本当にすがすがしい快晴だった。絵の具をこぼしたような青空に、真っ赤な鳥居がよく映えている。神社の境内を歩きながら、そういえば、とくちを開く。
「たぶんこれ、胎動だと思う」
「え、そうなの?」
夫が手を当てると、お腹の動きはすぐに止まった。確かにここ数日気になっていたのだ。寝る前にぽこ、起きた直後にぽこ。最初はガスが動いているのかと思った。でも、その後おならが出るわけでもない。妊娠17週。わたしが手をあてるとお腹はそっと静かになってしまう。でも、わたしはこの日確信した。「まちがいない、これが胎動だ」。戌の日のお参りは、わたしたちの胎動記念日となった。
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お参りのあと銀座まで出かけてフレンチを食べた。毎年結婚記念日には、ちょっと背伸びをしてグラン・メゾンを訪れることにしていた。1泊の旅に出られるほどのお金を払い、ほんの数時間で終わる料理とワインを楽しむ贅沢。それでも確かに心は満たされて、また1年頑張って働こうと思うのだ。コースの終わりにはいつも思う。来年もまた、こうやってふたりで平和にワインが飲めますように。
「ワインが飲めるようになったら、ぜひまたいらしてください」
扉を開けながらソムリエが微笑んだ。絶対に来ます、とわたしも笑う。わたしはノンアルコールを頼んだけれど、ワインが好きなおふたりにと、たくさんサービスをしていただいた。ふと、次に来るときは3人になっているんだな、と思った。結婚して9回目の記念日。9回目にしてはじめて描く未来図だった。
17週からスタートした胎動には、思わぬ効用があった。「胎児が生きているかわからない」という不安から、ほんの少し解放されることになったのだ。それまでは「おめでとう」と言われても、『まあ、まだ何があるかわかりませんし』と、情緒にかっこ書きの注釈がついていた。健診から次の健診までの1ヶ月、本当にお腹のひとの消息の知りようがなかったのだ。それが胎動によって、「確かにいる」ことが分かるようになった。ここに来てようやく、「本当に生まれて来るっぽい」という前提に立ってひとと話ができるようになった。
ひとりで家にいるときに、お腹に手をあてて「おーい」と呼びかけてみる。お腹は動かない。でも、確かに今わたしは「この子」と一緒にいる。それは不思議な感覚だった。ねこが家にいるとひとりごとが増える、あれに近い。ひとりごとのような、ふたりごとのような。トントン、とお腹を叩いてみる。偶然だろうけれど、お腹が「ぽこ」と動く。
「お父さんとお母さんが見れない未来を、これからわたしたちが見るように、わたしたちがこの先見れない未来を、この子が見るんだねぇ」
ある夜、自分で言った言葉にぐっと来て、急にぼろぼろと泣き出したことがあった。それは唐突に訪れた「実感」だった。わたしもびっくりしたけど、夫もびっくりしていた。夫は首をかしげながら、「ホモサピエンスだねぇ」と言った。夫よ、やはりきみは一般女性にはウケないと思う。
体力もすこし回復し、多少の外出もできるようになった。20週頃、ピアニストの友人に誘われて室内楽のコンサートに出かけた。代官山の小さな教会で開催される、0歳から入場できるクラシックコンサートだ。会場にはちびっこがたくさんいて、自由に泣いたり、怒ったりしている。いい雰囲気だった。友人からは、「今日いちばん小さなお客さまだね。お腹の子にも楽しんでもらえるよう、頑張るね」と温かいメッセージが入った。
メインはドヴォルザークの五重奏曲。その4楽章分をフル演奏する、贅沢な構成だった。
「ドヴォルザークは故郷を思いながらたくさんの曲を書きました。わたしは来年、故郷の山口県に帰ることが決まっています。その前に、この曲を演奏できることが本当に嬉しいです」
友人が薔薇色の素敵なドレスの裾を揺らし、小さく礼をする。しなやかなピアノのメロディに、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの音色が重なっていく。これまでになく、お腹がぽこぽこと動いていた。ああ、音楽が聴こえてるんだ、と思った。楽しいね、嬉しいね。
お腹の子は、女の子だった。がさつなわたしはカワイイ髪型も、素敵なマニキュアも、イケてるお洋服も教えてあげられないや。そう言ったわたしに夫は「だったら、歌を歌えばいいよ」と言った。きみは、たくさんの歌を知っているじゃないか。
4楽章が終わるまで、無性に涙があふれて止まらなかった。お腹のひとはそのあいだ、ずっとぽこぽこと上機嫌だった。
――だったら、歌を歌えばいいよ。
お腹にそっと手を当ててみる。ここには確かに、ちいさな命が宿っている。ドヴォルザークが故郷を思いながら描いたメロディが流れる。生まれて来たらこの子と一緒に、きっとたくさんの歌を歌おうと思った。
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妊娠後期編へ続く(鋭意妊娠中です)
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