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共産党員の修養を論ず 第一章 共産党員はなぜ修養を進めなければならないか 【日本語訳】

この日本語訳は筆者による拙訳であり、正確性を保証するものではありません。ご理解の上でご覧になってください。

劉少奇 1939年7月、延安マルクス・レーニン学院での講演。陝甘寧辺区延安市にて。


まえがき

同志諸君!
私がこれから話すのは、共産党員の修養の問題である。現在この問題を講ずるのは、党を建設し、強固にするものであり、無益なことではない。

一、共産党員はなぜ修養を進めなければならないか

  共産党員はなぜ修養を進めなければならないのか?

  人は生活のため、自然界との闘争が必須であり、自然界を利用して物質、資料を生産しなければならない。人の物質生産は、いついかなる時も、いついかなる条件下でも、すべて社会的生産である。だから、人は社会発展で、いかなる階級が生産を行う時も、すべて一定的な生産関係を建立する必要がある。人類の自然界における不断の闘争の中、自然界を不断に改造し、同時に人類自己を不断に改造し、人のかれこれの関係を改造する。人自身も、人の社会関係も、社会組織の形式も、思想意識も、社会の人と自然界の長い年月の闘争によって、不断に改造され、進歩している。古代、人の生活様式、社会組織、思想意識等は、現在人のそれとは全く異なっていた。而して、将来、人の生活様式、社会組織、思想意識等は、現代人のそれとは異なるであろう。

  人類自身、人類社会は、一種の歴史発展の過程である。当人類社会が一定の歴史的段階の発展に到ると、階級と階級闘争が産まれる。階級社会の中で、すべての社会成員は一定の階級の人、存在となり、必ず一定の階級闘争の条件下で生活する。人の社会存在は、人の思想意識を決定する。階級社会における異なる階級の人の思想意識は、異なる階級の地位と利益を反映する。このような異なる地位、異なる利益、異なる思想意識の階級の間では、絶え間のない階級闘争が行われる。このように、人は自然界との闘争のみならず、さらに社会階級的な闘争の中で、自然界を改造し、社会を改造し、同時に人そのものを改造する。

 マルクス、エンゲルスは、「この種の共産主義意識が普遍的に発生するためにも、また目的そのものを達成するためにも、人に普遍的な変化を発生させることが必須である。この種の変化は実際の運動の中で、革命の中でのみ実現可能である。したがって、革命が必要である所以は、統治階級を打倒する方法が他にないからだけでなく、統治階級を打倒した階級が、革命の中でのみ、自己の身の上の中の一切の陳腐で、汚いものを捨て、社会の新たな基礎となれるからである。」 これはすなわち、無産階級は自覚して長期的社会革命闘争を耐えなければならず、またこの種の闘争において社会を改造し、自己を改造すべきであるということである。

  したがって、我々は自己を改造する必要があり、または改造の可能性があるものだと看做すべきである。自己が不変で、完美で、神聖で、改造の必要がなく、改造の可能性がないものだと考えてはならない。我々は、社会闘争中に自己を改造する任務を、自己への侮辱としてではなく、社会発展の客観的規律の要件として提出する。もしこれをやらないのであれば、我々は進歩できず、社会改造の任務を実現できない。
  我々共産党員は、近代歴上最も先進的な革命者であり、社会改造、世界改造の現代の担当者にして推進者である。共産党員は反革命との不断の闘争の中で、社会を改造し、世界を改造し、同時に自己を改造する。

  我々が云う、共産党員は各方面における反革命との闘争の中で自己を改造するというのは、すなわち、この闘争の中にあって自己の進歩を求め、自己の革命の品質と能力を高めなければならないということである。幼稚な革命者が、成熟した、老練な、「自らの如く運用する」革命規律を掌握する革命家になるには、長い革命の鍛錬と修養の過程、長期改造の過程を要す。比較的幼稚な革命者、彼は、(一) 旧社会の中で成長し教育され、常に古い思想の名残(偏見、旧習慣、旧伝統を含む)が残余し、(二) 長期の革命的実践の経験がないため、敵、自己、社会発展と革命闘争の規律性を真に深く理解することがまだできていない。この種の状況を改変するためには、歴史上の革命経験(先人の実践)を学ぶだけではなく、当時の革命的実践に自ら参加し、革命的実践の中で、各種反革命との闘争の中で、主観的能動性を発揮し、学習と修養を強化することが必須である。このようにあってのみ、彼は体験と社会発展と革命闘争の規律性の認識を次第に深め、敵と自己の認識を正しく深め、自己が元来もっていた不正確な思想、習慣、偏見を発見し、修正することをもって、自己の覚悟を高め、革命的品質を培養し、革命的方法等を改善することができるようになる。

  したがって、革命者は改造し自己を高めなければならず、必ず革命的実践に参加しなければならず、絶対に革命的実践から離れられない。同時に、実践の中の自己の主観的努力、実践の中の自我の修養と学習とも不可分である。もしこの後者の側面がないのなら、革命者が要求する自己の進歩は、依然不可能である。

  例を挙げてみよう。いくつかの共産党員が一緒に、とある群衆の革命闘争に行ったとして、大体同じような環境と条件のもと、革命実践へ参加し、この種の革命闘争はこれらの党員に対して、おそらく、完全に同じ影響を与えるわけではない。ある党員は進歩が速く、立ち遅れていた党員も追いつき、ある党員は進歩が遅く、ある党員は闘争の中にあって動揺し、革命的実践は彼に対して前進的な影響を与えず、革命的実践の中で落伍する。これは何が原因か?更に例を挙げると、我々共産党員のうち、許多の人間は万里の長征を経験し、これは彼らにとって厳重な鍛錬であったが、その中で絶対多数の党員は大きな進歩を得た。しかし、長征の、一部の党員に対する影響は相反するもので、彼らは長征を経験した後、このような困難に満ちた闘争に怯えるようになり、中には退却や逃亡を企図するものまで現れ、後に彼らが外界から革命隊伍からの逃亡を誘惑された時には、果然その通りになった。許多の党員が共に長征を行ったのに、而して影響と結果はこのように異なる。これもまた何が原因か?

  これらの現象の発生は、根本的には、革命隊伍の中における社会階級闘争の反映である。我々の党員はもともとの社会出身が異なり、受けてきた社会の影響も異なり、ゆえに異なる資質を持っている。彼らは、革命実践に各々の異なる態度、立場および認識で対峙しており、ゆえに革命実践の中でも各々が異なる発展方向を有する。君達の学校の中でも、この状況をはっきりと見ることができる。君達は学校で同様の教育と訓練を受けるが、君達は各々異なる品質、異なる経験、異なる主観努力と修養を持ち、その結果、異なる、あるいは正反対の結果を獲得することができるかもしれない。これにより、革命者は革命闘争の中の主観努力と修養は、革命家自身の改造と向上のために完全に必要であり、決して欠くことができないものである。
  無論、革命に参加して長くない党員であろうと、あるいは革命に長いこと参加している党員であろうと、良い政治の上で成熟した革命家になるために、長期革命闘争の鍛錬が必須であり、広大な群衆の革命闘争の中にあって、各種の苦難の境遇の中で、自己を鍛錬し、実践の経験を総括し、自己の修養を強化し、自己の思想能力を高め、自己が新たな事物に対する知覚を失わないこと、このようにあってこそ、自己を品質的に優良で、政治的に堅強な革命家へと変成させることができる。

  孔子曰く、「吾十有五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳したがう、七十にして心欲する所に従えども、矩をえず。」と。この封建思想家がここにいうのは、彼自身の修養の過程であり、彼は自己が天性の「聖人」であると認めたものではない。

  もう一人の封建思想家孟子も、歴史上「大いなる任」を担ってきた人物は、すべて困難な鍛錬の過程を経ている、曰く、「必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓えしめ、其の身を空乏し、其の為す所を仏乱せしむ、心を動かし性に忍び、其の能くせざりし所を増益せしめんが所以なり。」と述べている。

  共産党員は歴史上空前、未曾有の世界改造の「大いなる任」を担っているのだから、革命闘争の中にある鍛錬と修養に更に注意する必要がある。我々共産党員の修養は、プロレタリア階級革命家に必要な修養である。我々の修養は革命的実践から脱離できず、広大な労働群集から、特にプロレタリア階級群衆の実際の革命運動から脱離できない。

  毛沢東同志は以下のように述べている。「実践を通じて真理を発見し、また実践を通じて真理を実証し、真理を発展させる。感性認識から理性認識へと能動的に発展させ、また理性認識から革命実践の能動的な指導へ、主観世界と客観世界を改造する。実践、認識、再実践、再認識、このような形式は、無窮に往復、循環し、すべての実践と認識の循環の内容は、より高度な次元へと達する。これは、すなわち弁証唯物論的全部認識論であり、これは、すなわち弁証唯物論的知行統一観である。」

  我々党員は、苦難な、困難な、結果的には失敗した革命実践の中で自己を鍛錬し、自己の修養を強化するだけでなく、円滑な、成功した、勝利した革命実践においても、自己を鍛錬し、自己の修養を強化する必要がある。

  いくらかの党員は、成功や勝利の鼓励を受け入れられず、勝利の中でぼんやりとして、奔放になり、傲慢になり、官僚化し、結果的動揺し、腐敗し、堕落し、彼のもともとの有していた革命性を完全に失ってしまう。これは我々共産党員の中では、個別的な、ありふれた事だ。党内のこの種の現象の存在は、おそらくは我々党員の厳しい警戒によって引き起こされている。

  プロレタリア階級革命家の出現以前、歴代の革命者は、一旦彼らの進めてきた事業が勝利と成功を得ると、腐敗し、堕落しないものは少ない。彼らがもともと有していた革命性を失うのは、革命を成し、発展、進行させることに対する障碍物である。中国の最近百年歴史の中で、あるいはもっと最近、五十年の歴史の中で、我々は許多のブルジョワ階級と小ブルジョワ階級革命者が、何らかの事を成就させ、今の権力の座まで上り詰めて以後、腐敗し堕落していった様子を見てきた。これは、歴代の革命者の階級の基礎や、過去の革命の性質が決定してきた。ロシアの偉大なる十月社会主義革命以前の世界歴史上の一切の革命は、結果総じて一つの搾取階級の統治が別の搾取階級の統治に代替されるものである。したがって、歴代の革命者は、彼らが統治階級になってからは、彼らの革命性を失い、搾取される群衆の方を振り向き、圧迫する、これは一種の必然的な規律である。

  しかし、プロレタリア階級革命から言わせれば、我々共産党から言わせれば、無論如何にしてもこのようになってはならない。プロレタリア階級革命は一切の搾取を、一切の圧迫を、一切の階級を消滅させる革命である。共産党の代表する所は、搾取され、別の誰かを搾取しないプロレタリア階級であり、革命を終結させ、人類社会の中から、最終的に一切の搾取を消滅させ、一切の腐敗と堕落を取り除く。厳格な組織規律を持つ党を建て、集中があり、民主がある国家機構を建て、このような党と国家機構によって、広大な人民群衆を領導し、一切の腐敗や堕落の現象と不倶戴天の闘争を進め、絶えず党と国家機構の中からかのような腐敗した、堕落した分子(その分子が例えどんなに大きな「官」であっても)を洗い出し、かつ党と国家機構の純潔を保持することができる。

  プロレタリア階級革命の、プロレタリア階級革命党の、この特筆すべき点は、歴代革命と歴代革命党にはない所であり、またありえない所である。我々党員はこの点を正確に了解しなければならず、革命が勝利し、成功したとき、群衆に対する自己の信仰と擁護を不断に高めるとき、更に警戒を高め、更に自己のプロレタリア階級意識の修養を強化し、常に自己の純潔なプロレタリア階級革命の資質を保持し、歴代革命者が成功したときと同じ轍を踏むことのないよう、特別に注意すべきである。


  革命実践の鍛錬と修養、プロレタリア階級意識の鍛錬と修養は、すべての党員にとって重要であり、政権を取得した後は更に重要となる。我々共産党は天から落ちてきたものではなく、中国社会の中で産み出されたものである。すべての党員は中国社会から来たのであり、なおかつ今日もこの社会で生活し、そして常にこの社会の中で一切の悪いものと接触している。プロレタリア階級出身の党員か、あるいは非プロレタリア階級出身の党員かに関わらず、また古参党員か新参党員かに関わらず、彼らは多かれ少なかれ旧社会の思想意識と習慣を帯びており、これはおかしなことではない。我々のプロレタリア階級の先鋒戦士の純潔を保持し、我々の革命品質と工作能力を高めるため、すべての党員が各方面から自己の鍛錬と修養を強化しなければならない。

  以上が、共産党員はなぜ修養を進めなければならないかの理由である。次に、共産党員の修養の共産党員の修養の標準について講ずる。

(「第二章 マルクスとレーニンのよき学生となろう」 につづく)

訳者あとがき

『共産党員の修養を論ず』は、のちに第2代中華人民共和国主席となる劉少奇が、1939年7月に延安マルクス・レーニン学院で行った名演説である。中華人民共和国成立後には出版もされた、劉少奇の最も有名な著書である。日本でも左翼のテクストとして使用されていたらしい。新日本出版社からかつて出版されていたらしく、そっちの方が翻訳が正しいと思うので買って読んだらいいと思う。全部で第九章まであるので、また時間があるときに翻訳を進められたらと思う。


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