『飯炊き女と金づる男』 #7 給料日
忙しいかどうかは疑問だけれど、毎月20日が金づる男の益次郎にとって、重要な日であることは間違いがない。給料が、口座に、振り込まれるのだ。益次郎は、やにわにクローゼットを開けてスーツを取り出した。チャコールグレーのスリーピース。ボルドーのネクタイと合わせるのが気に入っていた。給料日に、スーツを着て、銀行に行く。そう決めていた。
毎日キングサイズのベッドの上で、YouTubeにレコメンドされるがままに動画を視て、Twitterに流れるタイムラインを眺める。2時間に1回メールを読み込み、誰からも連絡が無いことを確認する。朝と夕方に散歩をし、コンビニスイーツを買って食べる。それで1日は過ぎてくれた。
辞める勇気もない、他に逃げる術もない、会社にしがみつくより他がない。そんな益次郎を金づる男たらしめているのが、会社からもらう給料であった。
繰り返しの日々は、自分がサラリーマンだということを忘れさせる。UberEatsのドライバーを始めてしまいそうだった。UberEatsでもマクドナルドのアルバイトでも始めて良さそうなものだけれど、副業禁止の規則を守るという建前があった。本音の所で言ってしまえば、そんな行動を起こす勇気が、この男にはなかった。
もっと本能的な部分では、受動的で単調なリズムが無限に続くことに危険を感じていた。どこかで自分の心が折れることが分かっていた。
何かの本で読んだ、中国の水拷問を思い出させた。拘束された人間の額に、ゆっくりと、一定の間隔で、長い時間、水滴を垂らす。精神に異常を来たし、自我が崩壊する。結果、どのような症状になったのかは分からない。
益次郎もパニック障害の症状がさらに進行するのか、鬱の領域に入るのか、もっと別の何かが起こるのかは分からなかった。リズムを断ち切る必要があった。
「今まで忙しかったからね、いいんじゃない。ゆっくりできると思えば。スーツ、もう着ないんだったら、捨てちゃえば。捨てるのが嫌なら、リサイクルに出すって方法もあるよ」
と、千魚(ちか)の残酷な言葉が突き刺さった。益次郎が、アーカイブス管理室という閑職に異動したと話した時のことだ。
益次郎から話を聞いて、千魚は内心「ひどい」と憤慨していた。益次郎が口に出さない会社への批判や愚痴がこみ上げてきては飲み込んでいた。ただ、それよりも、益次郎の病気がひどくならないかという心配の方が大きかった。
パニック障害を発症した当時のことは忘れていない。何の病気かも分からず、不安で、この人はこのまま死んでしまうのだろうかと、眠っている間に心音や呼吸を何度も確認した。
一因は会社にあると千魚は思っていた。そして、自分と結婚したせいで苦しい思いをさせてまで働かせてしまっていると罪悪感も覚えていた。自分が動揺や不安を表に出せば、益次郎がもっと落ち込むだろうと、あっけらかんと振る舞った。
そんな千魚の思いは伝わらず、益次郎は
「何を呑気な…」
「いい加減なことを…」
と受け取った。
「自分が会社を辞めたら、どうやって生活を維持するのか」
と苛立った。自分のことを分かってくれていないとも思った。
この時の益次郎には、励ましの言葉をかければ良かったのか?一緒に落ち込めば良かったのか?ただ黙って聞いていれば良かったのか?どれも正解では無かった。何を言っても、マイナスに捉えたに違いなかった。
フリーランスの千魚にとって、スーツとは会社を想起させる象徴だった。その象徴を捨ててしまえば、益次郎の背負っている荷物が軽くなるのではないかと思ったのだけれど
「スーツは捨てないし、リサイクルにも出さない」
と、冷めた表情で冷めた返事が戻ってきた。
ワイシャツのボタンを噛み締めるように1つ1つ丁寧に留めていき、スーツのパンツに足を通した。ネクタイを首に巻き付け、結び目を作ろうとしたところで『ピンポーン』とチャイムが鳴った。誰だと思い、ネクタイをぶら下げたまま、リビングに行き、インターホンのカメラを見た。台車に山積みされた荷物の配達であった。
「ご注文の品、お届けでーす」
益次郎には思い当たる節が無かった。千魚だろうか。
「届け先、合ってますか?」
「えーと…303号室の市川さんですね」
…ウチだ。
「あ、じゃあ開けますね」
益次郎は給料日の儀式を続けたかったけれど、観念したようにマンションのエントランスのオートロックを解除し、ネクタイをほどいて、首元を滑らせてスルリと外した。
「えー、なんで自分がいないのに、時間指定するかなー。こっちも用事があるんだけどなー」
エントランスのオートロックを解除してから、家のチャイムが鳴るまでの過ごし方がいつも分からなかった。リビングにいた方が良いのか、玄関で待っていた方が良いのか。
1階から3階に上がるだけなのに、時間が長く感じられる。文句を言いつつも、受け取りのハンコが必要だろうとシャチハタを探してうろうろした。
『ピポーン、ピポーン』とさっきとは違うチャイムが鳴った。「はい、はい、はい」と声を出しながら、短い廊下をゆっくり走ってドアを開けた。
「お待たせしました!あ、ハンコは必要ありませんので。じゃあ、まずは冷蔵からですね」
残念ながら、益次郎には、同じ荷物の受け取りでも、ネットスーパーと宅配便や郵便との区別が付いていなかった。印鑑をポケットにしまう間もなく、荷物が渡される。
ネットスーパーは配送料がかかる。もったいないので、一度にたくさんの買い物をする。千魚は仕事もあるし、重いものを持って歩きたくないし、洋服や文房具にも使えるポイントが貯まるのが嬉しくて、ネットスーパーをよく利用していた。
冷蔵の生鮮食品、常温の調味料や日用品を配達員が1品ずつ手に取り、益次郎に手渡す。益次郎は受け取ると、廊下の奥から並べていく。受け取って、置いて、受け取って、置いて、受け取って…バケツリレーのようだ。
「はい、これで以上ですね。ありがとうございました!」
配達員は最後に食器用洗剤を渡し終わると、益次郎が廊下に置く前にさっさとドアを閉めた。
益次郎は食器用洗剤を持ったまま、廊下に敷き詰められた食材と日用品をほんの寸刻眺めると、ワイシャツを腕まくりして、キッチンや洗面所に運び込む作業に取り掛かった。
1年前だったら、どこに何を入れれば良いのか分からず、怒りも含めてすべてを廊下に置いたままにしたはずだった。千魚が自分のことを飯炊き女と言うのが嫌だった。自分も家事をすれば、その言葉は口に出せまいと思って、洗い物や後片付けをやってきた。千魚やヤマメやイワナから「それは、そこじゃない」「これは、あっち」と間違えては注意され、少しずつ覚えていった。
「よいしょ、よいしょ」と声を出しながら、食材や日用品を決められた場所に決められた通りに収めて回った。洗い物の後の片付けもそうだけれど、空いている場所に過不足無くものを埋めていくのは、パズルを完成させるようで悪くなかった。
パズルを完成させることができると、少しの充足感も得ることができた。益次郎が気が付いていないだけで、すでに単調なリズムは断ち切られていた。
腕まくりを戻して、袖のボタンを留めた。ボルドーのネクタイを丁寧に結び直した。ベストは1番下のボタンを外したままにして、ジャケットを羽織った。鍵のついた引き出しから通帳の束を取り出して、カバンに入れた。「よし、行くか」と、また声を出した。
"やること"がある。益次郎には、ただそれが嬉しかった。
<続く>