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25歳になって1人語り『四半世紀のエントランスをくぐる』

 こんばんは、蒼日向真澄です。

 最近は涼しい日が続いております。外に出れば爽快な風が身体に吹きつけ、何か疲れを癒してくれるような、憑き物を剥がしてくれるような、そんな気分にさせてくれます。

 さて、私は昨日25歳になりました。四半世紀。1997年から2022年。長いようなあっという間のような、そんな25年でした。

 精神的な面を言うなら、やはり昨年適応障害になったことで一度社会から外れたことで一気に年老いてしまった感じがあります。周りと比べてしまうからでしょうけど、周りの25歳はキラキラしていて、活気があって、きちんと社会に貢献して、多くの人と交わって。しかし、自分はそのどれもに当てはまらず、ひっそりと生きている現状があります。まるで隠居しているように。

 これまでは気軽に行けた東京も、どこか構えてしまうようになり、何かをすることに対して覚悟を抱くようになりました。言い換えるなら、若さゆえの身軽さが失われてしまったような気がします。流行にも乗れず、気がつくとビートルズとか聞いていますね(笑)。

 今は静寂が好きで、一人で読書したり、自然の中を散歩したり、別世界へワープする気持ちで執筆活動をしたり。もちろん、家族や数少ない友人と関わることも大好きです。ただ、昔よりも一人が好きになりましたね。無理して人と関わらないように生きることを覚えてしまいました。たとえ精神的な面が回復してきても、傷つくことが怖いと思う感情は消えることがないですね。

 25歳になったから生まれ変わろうとか、一切思えないのは残念かもしれないですね。もっとアクティブに、もっと元気よく、もっとこの世界とコミュニケーションを取って、立派な社会人を目指そう! なんて微塵も思えないのは、随分と愚かだなと感じます。

 ただ、私の場合は25年も生きていると軸が固まってしまい、自分のできること、自分がいたい場所、自分が信じていられるもの、自分が愛せる人、それらがガチリと動かなくなり、それ以外の世界で挑戦することが億劫になったりします。現状維持。そう言うと、未来に希望を持てずじまいの人間だと思えますが、私はそれでいいやと諦めています。そういう人間がこの世界に一人くらいいても、大丈夫な気がしています。周りは周り、自分は自分。

 今は週5でバイトをしつつ、執筆活動をしています。私が執筆活動をする意味はいくつかありまして、一つは『生きた証を残すため』です。せっかくこの時代に生まれてきたのなら、この地球に生まれてきたのなら、そしてこの国で生まれ、日本語を扱う人間として生まれてきたのなら、日本語を使った感情表現をして、物語を創作して、唯一無二の作品をこの世界に残してみたい。そんな気持ちで執筆をしています。

 あとは、『何かを生み出したい』という自己承認欲求もありますし、『アウトプットしたい』といった欲もあります。極限を言えば、『趣味』的な意味もあって、とにかく何もしないまま人生を終えてしまうのなら、せめてできることをやっておこうと思うわけです。それが好きなことならば、幸せだろうと信じています。

 25歳。区切りのいい一年です。特別夢もなく、それほど希望に満ち溢れているわけでもなく、社会に大きな貢献をしているわけでもなく、埼玉の端っこで自分のために生きている人間ですが、せっかく与えられた生命です。この先どんなことでも起こりうるでしょう。もしかしたら、明日死ぬかもしれません。だからこそ、私は一日一日を悔いのないように、できることなら楽しく生きていけたらいいなと思っています。そして、もし心に余裕が生まれたのならば、そのときは誰かを助ける存在になりたいです。

 それでは、今回はこの辺で失礼します。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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