お金や利益のために、安易な過ちを犯さない思考法/そして心構え
僕は、利潤追求型の民間企業ではなく、利潤を主目的としないNPO法人という枠組みで、子どもたちと関わっている。
だから僕は、「誤っている」と思われる親御さんからの要望に応えることはない。
だって“間違っている”から。
科学的な知見と実証的な立場から、現時点で誤りとみなされているものを受け入れるつもりはない。
ゆえに、それが僕と僕の運営しているものが支持されている理由だろう。
そもそも、大きな間違いを知ったり、正しい方向性を知ったりするために、プロのところに習いに来ているはずなのだ。頑なに過去の経験や世間や自分の親の刷り込みによる「思い込み」を「正しいと思い込み続けようとする動作」はよくことだから注意が必要だ。
(学ぶ力の欠如、師を持てないことの悲しさ、このあたりはすでに大人世代の我々にも症状があらわれている。ここでは詳しく述べない)
利潤追求型の一般民間企業においては逆の振る舞いをせざるを得ない。
買ってもらってなんぼ、利益が上がってなんぼ、である。
売り上げがあがることを前提に、要望に応えていくという姿勢をとるし、応えられないものについても利益基準で考えられることとなる。
純粋な消費活動であるから、要望に応えてなんぼ、サービスを提供してなんぼ、は正義なのである。
したがって、民間企業の学習指導等については、教育と呼ぶことは誤りと言わねばならない。
(これについてはかねてより言及してきている。せめて「教育業界」と呼ぶのはやめて、「学習サービス業界」くらいにせねば)
ここに横たわる問題は、利潤と資本主義、消費と教育、師と弟子、プロ論、このあたりが絡み合っていて複雑ではあるが、これらについてはこれまで随時他記事等で言及してきたので参照にされたし。
最後にもう一つ。
肝心なことが、僕自身の、ある意味個人的な決意にもあったりする。
自分が与えられた命を全うするにあたり、
意に反する道を選ばないことを心に決めている。
“あのとき、仕方なく、お金や権力、地位や名誉のために、〇〇をした、仕方なかった”
“世の中的には、現実的には、こうだから。あのときは仕方なかったのだ。”
“上司に逆らえなかった。会社に逆らえなかった、だから。”
と、一切口にしないでよい人生を生きると決めている。
命が尽きるその時、僕は僕の人生を生きてやったぞ、とそう言いたい。
だとすれば、生きていく道とそのふるまいにおいて、人の目など気にする必要があろうか。
否。
ちゃんと自分の人生を生きる。
自分が死んでしまったのちに建てられた墓標について考える。
その墓標にはなんと記されているだろう?と。
「利益を追及した男、ここに眠る」
「お金儲けが得意だった男、ここに眠る」
「権力を手に入れた男、ここに眠る」
果たしてあなたはそれで良いと思えるだろうか。
自分の墓標に記された文言について想いを巡らす。そうして僕は今のこの場所で、この瞬間の生き方を定めている。
(おわり)