習ってないものはやらせない/予習をさせない先生とそのワケ
先生が、子どもの予習を許さない、なんとも、非効率で学びの本質を見失わせる時代。
実際のところ、僕は自分の子の参観日でも、その指示を目の当たりにしたし、子ども自身も、「習ってないからやってはいけない」と言ってしまう。先生の言うことを聞く、と言うのは、素晴らしいことのはずなのだが。
当然こうなると、家庭での、例えば親が補助して学ぶ、(予習的)学習すら、許されないことになってしまう。
また、読書もそうだ。
この論理を守ると、習ってない漢字が出てくる本は読んではいけないことになる。作家として申し上げれば、言語道断、あってはならないことである。
地域の大人の皆さんは、この異常さを、もう少し、真剣に考えなければならない。
意味不明すぎるが、なぜ、こんな事態になるのか、決定的な要因を一つあげておく。
実はこれ、簡単な要因なので勘の鋭い方は、すでにお分かりだろう。
「先生が授業がやりにくくなる」からである。
至ってシンプルな理由だ。
ところが、先生の立場になると、ちょっとことは違っていて、
集団(一斉)授業においては、深刻な事態なのである。
自分の一番の仕事だと思い込んでいる授業、歌手ならばライブステージのような一番の舞台が、「やりにくい」というのは、それはもう一大事なのである。
笑。
あえて「笑」と書くのは、プロならば、そのくらいやれ、という話だからだ。
これについては、授業のプロとして、言及しておく。
子どもが、多くの体験や生活していく中で、様々な、知識を吸収していく。それは大変素晴らしいこと。
学びというのは、総合的に行われていくものであって、教科書を用いた授業、だけで、生じる行為ではない。
むしろ、実際には、逆で、子どもが、多少の前提知識がある方が、授業というのはより高い次元に持ち込みやすいのだ。
万が一、自分がやりにくい、と思っても、学びの主体は子どもたちでしかない。
あなたがやりにくい、授業しにくい、なんて、本当にどうでもいいことなのである。
そんな先生に出会ってしまったら、こう叫ぼう。
「そんなに、自分で、教えたいか」
先生という人は、教えたがりー、な人が多い。(実はこれ、僕としては、先生には向いてない資質だと思う)
そう、教えたい、が邪魔をしている。だから、子が既習だと「やりにくい」のである。
子どもが、少しでも予習していたり、知識があれば、それは、学びの行為として、大変喜ばしいこと。そういうマインドセットで、授業に望んで欲しい。
もちろん、すでに形骸化している講義型授業を前提にしてここでは書いた。
できれば、講義型(一斉・集団)授業からは、離脱していることが望ましい。そうすれば、ここで述べる問題は、もはや問題ですらなくなるからだ。
(これについては、いろいろ書いてきているのでここでは述べない/知識の伝達に授業の主旨が置かれているままではこのことは解決されないだろう/ダサい)
残念ながら、現状では、地域全体で、小中、同じ傾向が強まっている。
あまり学校間に差がないのは、教育委員会として、意思統一が図られている感があるからだ。
(これについても動画で述べている)
また、高校でも、予習を禁止する先生がいることを子どもたちから聞いているところだ。
→地域の先生方、いや教育長、からの反駁、大募集です。
危惧している。
習っていない漢字だから、といって、自分の名前すら漢字で書いてはならぬという。
繰り返す。地域の大人は、こんな事態をスルーしてはならない。
自分が生を受けて、授かった大切な名前すら大事にできないということが、
教育的指導のもとで、スルーされていくのだから。
(おわり)
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