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その対策本当に大丈夫?/当たり前なことが伝わらなくなった世界へ

【その対策本当に大丈夫?/当たり前なことが伝わらなくなった世界へ/いずれ大きく問題視されるとは思うけれども先に言及しておきます】

大学共通テストからも見えるように、読解を要する昨今の入試問題の形式は、総じて、難易度は上がりやすく、子どもたちからすれば解きにくく、得点はしにくい。

高校入試は、大学入試に先んじて、その傾向で作られてきたし、新教科書、新指導要領のもとで、その傾向はさらに強まった。
ご存知の通り、昨年の山口県公立高校入試の平均点は大きく下がっている。得点率は平均でおよそ5割。分布をみても、上位得点者は半減している。


こうなってくると、twitterでの大学共通テストの指摘と同様に、高校入試でも、得点は2分化され、多くの子の分布は団子状態、力を図る意味をなさないものとなる。

簡単に言えば、多くの子は、大差なく、大体同じような点数になる、のだ。

一部のエリート層のためだけのテストだとも言える。


さて、ここで問題になるのは、過去問演習を中心にした、対策や対策授業が、どれほど意味をなすのか?という点である。

多くの子が、半分も取れないテストを模した半分も取れない問題を演習することになるのだが、当然、やる意味のない学習となってしまう。

公立高校入試で想定されるのは、読解力やその場での対応力や柔軟性を問うという、難易度の高い問題である。

そもそも、通常のオーソドックスな問題でも、精一杯な子たちにとっては、難易度があってなさすぎて、練習にすらならない。

それをやる時間があるくらいなら、まずは、基礎的なことを仕上げることに時間を費やすべきなのだ。いわゆる、"そんなことやってる場合じゃない"というやつだ。

この、当たり前のことが、今は、共有されなくなってしまった。
(ので、あえて書いている)


対策が不要だと言いたいわけではない。

対策をするにしても、何をどのくらいすべきかというのは、皆がそれぞれに、異なるのだということだ。

それを、ただひたすら受験用に特化した対策をしなければ、と、皆が一様に、同じ対策に躍起になる。
それも本来、塾がやっていたようなものを、今は、学校も追ってしまう。

この哀れな姿を見るに、勉強、学習の、素人なのか、とツッコミを入れたくなってしまうではないか。

目先の点数、目先の欲を追うばかりに、本来必要なことを見失っているのだ。他の人がやっているから、とか、みんながやっているから、という思考停止状態、煩悩を煽られる形で、皆が皆同じような行動をとってしまっている。

不幸なのは子どもたちである。
平均が5割を切るような問題ということは、解き直しをしても、解説を聞いても、そもそも、理解が届かないのである。しかし、やれと言われるからやらざるを得ない。中身がよくわかっていないままに、苦痛の中それを続けるのである。
当然、何題解こうが、ただの時間の浪費である。何せ、ほとんど何も理解できないままなのだから。

ところが、これを大人の都合、
一つは塾という営利企業の都合、
一つは学校という保護者から試験対策を急かされる都合、
一つは合格をさせたい親の都合、
これら3者の様々な煩悩による都合によって、
学習への理解や習熟、効果効率ですら無視されたまま、
意味不明なひたすら受験対策という悪手が打たれ続けるのだ。

(学校は受験塾と化した、とお伝えしたところだが、なぜそれがまずいか、ここにもその理由があるのがお分かりになるはずだ)


繰り返すが、対策が必要ないという意味ではない。

対策をしていくにしろ、その子の学習の状況や習熟度合いに応じて、取り組まれるべきであって、
ひたすら、皆が、一様に、闇雲にやる、というのは、明らかに誤りなのである。

難易度があまりにも合っていない、本番想定の演習問題は、無意味耐性だけが伸びるのであって、その子の学力や習熟度合いを上げるものでは、決してない。

こういう、当たり前のことが、全く考慮されなくなった、それが今の市場であり、地域の現場であろう。

短期的視座、短絡的視点、消費者的思考と損得、そして、そこにある煩悩が、かつて見たことのない異次元な状況を生み出している。


目先を追うがあまり、本来の目的を逃してしまう。

そして、ダメージを受けるのはいつも子どもたちなのだ。


こうして考えていくと、本質的な学びを得て、成長と自立(自律)を手に入れ、主体的に考え行動し、さらに、学んだことを生かし、人生を豊にしていけるのは、本当にわずかな、限られた人だけの、特別な道になっていくのだろうと思えてしまう。


「みんながやっているから、きっと正しい(だろう)」が、正しくないことが多くなる、そんな時代がやってきている。



大事なことは、自分の頭を使うこと。
依存で生きないこと。
考え続けること。
たとえ負荷がかかっても、考えることをやめないこと。


ということで、長くなったが、これでも手短に書いてみたつもり、だ。

(おわり)

追伸・このことがわかれば、なぜ、かつてのように、模試の類を受けることも大した意味を持たないこともわかってくるはずだ。ただの企業塾の利益に貢献する必要は、今はないのである。まだ昔みたいなこと言ってるの?のレベルでしかない。


(おわり)



読解力、理解力、論理的思考を養える学びの場を


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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。