議論できないまちがすべき子どもたちの教育
議論することのできないまち。
議論と思ってやっているのとは、ただの悪口や愚痴でしかなく、総じて、論理もないのに論理のあるふりをして、敵と認定した相手に対しては敵だからと云ふ理由だけで、攻撃を仕掛けるに過ぎない。ここにあるのは劣化した感情の発露である。
攻撃する理由が、データやエビデンス、論理の積み上げによるものではなく、敵だから、という愚かさ。
裏を返せば、仲間だからという理由で、全面擁護する。まあ、そのこと自体は悪いことではないのだが、公および公の場面の意思決定においてはそれは通用しない。
私的な感情で、公的な意思決定がなされては、さすがに、市民は納得できまい。
父と子の私的な問題が宇宙全体の運命を決める、はた迷惑なスターウォーズの世界と同じ図式である。(スターウォーズ好きだけど)
また、この場面でのリーダーの責任も重い。自分を擁護させるために、ものを考えられない大衆を率いようとするのである。これはリーダーのすべき正しい振る舞いではない。
ということで、
議論のところだけを見ても、
今、子どもたちの教育において必要なことがよくわかるのではないか。
子どもたちが、論理的思考を養い、それを文章にする術を学び、議論とは何かを学んでゆくこと。
このことが必要であることが、大人の振る舞いからよくわかるのである。
あわせて、ここには、科学的なものの見方、研究的なものの見方、それらのふるまいを身につけることも必須であるから、ここも合わせて、教育に期待されるところである。
最後に。
学校教育は、このように市民教育でなければなるまい。
合意形成の難しくなった世界において、その役割はさらに重い。
(おわり)
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