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先生と生徒、学びにおいて起こること/新たな先生像へ向けて
先生と生徒、
師匠と弟子、
教える人と、学ぶ人。
一般的には、教える人が教えるという行為を、学ぶ人が学ぶという行為を、それぞれ行っているように捉えられているのだと思うのだけれど、
僕はそれとは少し違って、
学び手が学ぶという行為だけが、実際には起きていることなのだと思っているのです。
だから僕は、実際には数千人を教えたというのではなくて、
数千人が僕の前にいて、そのとき、その時々に、それぞれがそれぞれに、
ただただ、
学んでくれたのだと思っているのです。
数千人の子を教えてきて思うこと。
考えてみるとわかるのだけれども、
先生と生徒、師と弟子において、その関係性において大事なことは、
生徒が、弟子が、学ぶことであるはずだから。
先生が、師匠が、教えること、が大事なわけでは、ないでしょう?
さらにそれを見つめていると、
先生が、師匠が、
教えるのが好き、教えたい、なんてどうでもよいことで、
むしろ、やりたいわけじゃないけど、教えてほしいと切願されたので、それなら仕方ないから教えることにする、というので、十分なのではないかとも思うのです。
師匠が、先生が、
教えることが好きで、
情熱を持って教えたい、張り切って教えたい、
それはそれで否定するわけではないのですけれど、
学び手が学ぶという行為だけが、実際には起きていると考えるなら、
まあ、
わたしなどというものは、さして、重要ではないのだということを、
まあ、
考えるわけなのです。
(おわり)
全国的に見ても教育熱の低い地方の地域で、教育と学びに関する取り組みを続けています。(事業・法人形態はNPOです)
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