支援する側に課せられた責任/なぜ素人が危ないのか?/なぜ第三者が必要なのか?
・「被害者・加害者」「善・悪」を安易に区分する危うさ
自分がAの子の側にいてAの子の話を見聞きしているとして、
あまり知るはずのないB、Cという他の子に、落ち度があると決めつけ、被害者・加害者、善・悪を決めつけてしまう人たちがいる。
社会問題や福祉、教育など、多くの支援の場面で見受けられることだ。
無論、専門家でもなんでもない一般の親御さんが共感をベースに子どもに関わる場合は、こうした形に陥りやすい。親御さんにとっては宿命的である。
もちろん、親御さんが共感ベースの関係を投げ出してはならない。子にとってまず大事なのは親の共感という愛情である。
だからこそ、社会においては、共感ベースのみに頼らない第三者の支援者が常に必要とされるのである。
・支援者の意義
専門家やプロとして支援する場合は、共感ベースに頼りすぎない心構えが必要だという点で親御さんのそれとはそもそも大きく異なってくる。
専門家や法律が絡んでくるというのはそういうことで、支援する側は、A、B、Cのすべての子の立場から何が見えているかを客観的に大局をみて考える必要がある。もちろんそこには専門的、学術的知識やエビデンス、技術も必要である。
いずれにせよ、プロや専門家は、Aの子だけではなく、B、Cのすべての子を支援しなければならないのだ。
・AもBもCも安易に断罪されないことの意義
僕がこれまで関わった子どもたちは、数千人に及ぶ。親御さんを入れると相当な数になる。
そうした立場からすると、Aの子のことだけをみて、何かを決めつけ、正義を振るおうとすることは、まずできない。
僕はこれまでも、そうした場合に、Aの子だけではなく、Bの子も、Cの子も、同時に預かってきたことが多いからだ。
その点で、Aがよければよし、B、Cの知らない子については一方的な決めつけをし、断罪、排除の対象としてしまうことは、あり得ないことだ。
AにはAの、BにはBの、CにはCの、抱えているものがあり、葛藤があり、彼ら彼女なりの理由を持っている。例外はない。
・支援する側に課された大きな責任
こういうことを支援者の側がわからないことが多くあるし、そういう人は素人なので、できるだけ社会的な支援者の側に入ってはならない。
入る場合は、勉学をすべきであろうし、適切なリーダーのもとで学ぶ必要がある。少なくともリーダーをやってはならない。
・支援側が素人でい続ける危険
責任をおざなりにして、Aの子への共感、場合によっては我が子のこともあろう、それだけでナタを振るってはならない。
そういうことがわからない人たちは僕から見れば完全なる素人でしかない。
素人と斬って捨てるのは、それが大きな責任問題であるからだ。
・問われるあなたの振る舞い
僕のもとにはいつも、Aの子から、Zの子までいる。誰もが被害者にも加害者にもなり得る。
ところがそれらすべての子が一律に自分の子であるとするなら、あなたはどう振る舞うであろうか。
その想像力を働かせることが、支える側に必要な資質なのである。
“わたしの子たちはいつも加害者にも被害者にもなり得るのである。だからわたしはそれを、いつのときも引き受ける覚悟である”
by 本田篤嗣
(おわり)