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人を評価することへの恐れ
人を評価する行為には、恐れ(畏れ)がなくてはならないと思っている。
誰かが誰かを裁く、そのようことは、ヒト個人レベルで見て、できることではない。
僕は、長く、また、一般的なそれよりは早い段階で経営者なり社長なりを務めてきたから、たとえば、雇用してきた人も多かったわけで、評価せざるを得ない立場に身を置いてきた。
ゆえに、仕方ないとはいえ、人を評価するという経験も多くしてきたわけだが、だからこそ、こうした行為はなんともおそろしいことだと、やはり思っている。
翻って。
子どもたちを評価する立場にいる代表は、学校の先生である。通知表なり内申点なり、常に人を評価する立場にいることになる。
この行為がどれほどおそろしいことであるのか、それを認識している人が、今、現代にどれほどいるのだろうか。懐疑的になる。
特に、長く、日常的になってくると、感覚は麻痺していくだろう。
人に評価点を与える、また、それが社会的に大きな意義を持つ(例・日常の点が入試にまで影響を与える)という意味で、先生という仕事は特殊だと言える。
さて、そんな特殊な立場の人たちに、今や何が起こっているのだろうか。
恐れの感覚を失うほどに麻痺した人たちは、何を思ったか、「より積極的に点数をつけようとする」のである。
なんでもかんでも、「点数下げるからな」「内申点に響くからな」と、
脅しのような言葉で、子どもたちに迫る。
昨今は、「学校では、点数に関係のないことなんて何一つないからな」と生徒に言い切る人まで出てくる始末である。(生徒談より)
一体我々はいつから、「誰かに点数をつけることを許された特異な存在」になったのだろうか。
一人の人として問う。
人を評価することへの恐れは、どこへ行ったのか。
人を評価し、点数をつける。そのことへの恐れを失ってはならないのではないのか。
あくまでもこれは、一人の人として問いたい。
(おわり)
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