贈り物は返されないくらいでちょどよい/贈り物のたった一つのルール
あまり身体が強い方ではない、というより、弱い方で、
かといって不健康なわけでもないので、それなりにやっているのだけれども、
ちょっと久しぶりに授業をお休み。
そういう時にふと思うのだけれども、僕と学ぶ子たちは、僕がいないと困ってどうしようもなくなるわけではなく、むしろそうでならないように学んでいるのだから、その辺りは何も心配はしていない。
いずれにせよ、一生僕にべったりついて勉強するというわけにはいかないわけだしね。
先生なんてものは、成長した子どもたちが、ふとした時に、あんな人もいたな、習ったな、くらいでちょうど良いものなのだ。
べったり毎日のように思い出すなんて、恋人くらいで十分なわけだし、そんな暇があったら、自分の人生に集中した方がよっぽどマシではないかと思う。
なんともない時に、ふと思い出して、僅かに何かひっかりがあって、"そういえば、いい先生だったかもしれない"だとか、”あの時先生が言ってたことの意味が少しだけわかった”だとかいったようなことが生じるなら、もうそれだけで十分だし、学び手(生徒)の方が、わざわざ教え手(先生)を担ぎあげるようなことは、しなくてもいい。
もし何かを返したいと思うとしたら、それはまず自分の人生をより充実したものに、より豊かなものになるように、自分の道のために、力を使ってほしい。
それでも10年20年、いや40年、50年と経った後に、何かができると感じたら、それを、後進、後からくるものたち、後輩、自分よりも世代の下のものたちに、返してほしいと思う。
少なくとも、僕はそうするつもりだし、子どもたちにはそうあってほしい。
なぜなら、ここで行われている行為は、贈り物(ギフト/Gift)そのものだからだ。
ここでは教育という堅苦しい言葉を引き合いに出すつもりはない。
ただ、例えば僕が教え手という(ごく偶然に生じた)立場で、君に何かを伝えようとする。
そこで僕が手渡そうとするものは、贈り物(ギフト)なのだ。
贈り物にはただ一つのルールがある。
それは贈り物を贈り物として成立させる唯一のルールであると言ってよい。
それは何か。
受け取った側、つまり、教えてもらった側(つまり生徒であり、君)が、直接、教え手(先生)にお返しをしないこと。
これが贈り物を贈り物として成立させる唯一の方法であり、ルールだ。
そのことを知っておいてほしい。
教え手である先生(ここでは僕)が、
君からお返しを受け取ってしまっては、それはその瞬間に贈り物ではなくなってしまう。
そういうものなのだ。
贈与というと少し堅苦しもなるが、贈与は見返りを求めない。というより、見返りが生じるとそれは、贈与それ自体の意味を失ってしまう。
だから君は、迷わず自分の道に集中すればそれで良い。
それが正しい方法なのだ。
そして、いつの日か、君は次の誰かに、君なりの贈り物をすれば良い。
もちろん、見返りを求めない贈り物を。
教え手(先生)の側は、相手が贈り物を受け取ってくれたのかどうか、それすらわからない。わからないままでいい。期待はもちろんするのだけれども、届かないから挫けているようでは、贈り物などしようがないのだから。
君は君自身の人生に力を注ぎ、君の周りにいる誰に、そっと贈り物をする。
僕は密かに、それが達成されるとどこかで信じながら願いながら、日々を生きる。
そしてまた、いつかどこかで、会おう。
(おわり)