虫よ、話し合おう
私は、虫が苦手だ。
小学生までは平気だったものも、歳を重ねるにつれ、苦手になっていく。
「一人暮らしで一番怖いもの」と言っても過言ではない。
だから、虫と対峙した時
“話し合い”で解決できたらどんなにいいだろう、と思ったりする。
学生の頃。
「生き物と話せる」という友人が一人いた。
彼女は花や木などの“植物”とも
犬や猫、虫などの“動物”とも会話ができるとのことだった。
私は最初にそのことを知った時、「羨ましいな」と思った。
同時に
「世界には、まだたくさんの自分の知らないことで溢れているんだな」とワクワクした。
彼女との会話がいつも、とても楽しかったのを覚えている。
さらにその頃、西加奈子さんの小説を頻繁に読んでいた。
『きいろいゾウ』という作品に、動物や植物と会話をする女性が登場して、まるでその作品の登場人物が目の前にいるようだった。
ある日。
その友人と夕方、飲みにいった日のことだ。
私たちのテーブルまで登り、横の壁をつたって虫がてくてくと歩いてきた。
苦手な私は、瞬時に虫と距離をとった。
一方で友人は、全く動じない。
私は、「どこか別の場所へ行ってくれ」と話してくれないか、と友人に虫と交渉するようお願いした。
すると、しばらくの間、虫をじーっと見つめる友人。
歩くのはやめたけれど、どかない虫。
…しばらくすると
「悪さはしない」と言っている。とのことだった。
私は「ああ、それならいいか」とはならない。
もう一度友人は虫と見つめ合って
しばらくしたら去って行ったのだ。
さらに、もう一つ。
友人の住んでいたマンションの部屋に、大きな蜘蛛が住み始めた。
会話はするけれど、まだ姿を見たことがないという。
毎日
「そろそろ出ていってよ」
「もう少しだけ」
こんな会話をしていたらしい。
蜘蛛にとっては、かくれんぼをしているつもりだったようだ。
同時に、一匹のアリがいつもベランダの網戸にいて
風の強い日に、揺れる網戸。
その網戸に必死にへばりつくアリと
「今日は風が強いね」などと話したり。
もはや飼っているような関係だと話していた。
…なんだその生活は。と思った。
話を聞いていると
一人暮らしなのに、どうにも毎日賑やかそうで…虫が苦手な私でさえ、ちょっとだけ「楽しそうだな」と思ってしまった。
…しかし、その日々は突然終わりを告げる。
その大きな蜘蛛が姿を現し
あまりの大きさにどうすることもできず、仕方なく退治したとの連絡が来た。
送ってくれた写真を見ると、私がその場にいたらおそらく、腰を抜かすほどの大きさだった。
「最近毎日話していたから、寂しいんじゃないの?」と聞いたら
「別に、友達じゃないしね」と言っていたことが、今でも忘れられない。
ベランダで飼っていたアリも、いつの間にかいなくなってしまったらしい。
植物たちは、何を思っているのだろう。
動物たちは、何を訴えているのだろう。
彼らの思っていること、言っていることがわかれば
お互いに、いくらか円満に過ごせるはずだ。
退治することは、決して好きではない。
私が虫を「退治したい」と思うのは
恐怖や嫌悪感なども含め、「自分に害がある」と思うからなのだ。
円満に別れられれば、それで大満足。
虫にとっても、人間に命を脅かされることもない。
お互いに思いやって生きていければいいのに。
“話し合い”で「ここからは出ていってほしい」と交渉できたり
例えば「水が欲しい」とか、虫たちが何を求めているのかがわかればそれを与え、代わりに「この場所は出入り禁止」などとルールを決められたら、どんなにいいだろう。
後は単純に、人間以外の生き物がどんなことを思い、行動し、訴えているのか、知りたい。
今でもあの友人は、植物や動物と話す日々を送っているのだろうか。
他にも彼女のような人がいるのだろうか。
…私も、植物や動物と会話をしてみたいな。
色々な生き物と話してみたいけれど
今の自分にとっては、虫と話し合えることが一番必要なことだ。
お互いに、いい距離感を保つために。
春が来ると、私が苦手な彼らに出会うことも増えてくる。
言葉じゃなくてもいいから
いつの日か、何か共通の言語やコミュニケーションをとる方法が生まれることを、密かに願っている。
2024.5.17