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自分の記事を、2回読む。

少し前から、自分の書いた記事を2回読むようにしている。

1回目で「消化」
2回目で「昇華」といった感じだ。

最近の、noteと言葉の向き合い方について、つらつらと綴ってみる。


記事を公開して
しばらくnoteから離れて
次にnoteを開く時、2回目を読む。

一番好きなタイミングは
夕方から夜にかけて記事を完成させ、夜、寝る直前にもう一度読むことだ。
1日の終わりに、記事を書いた時の気持ちにちゃんと「おやすみなさい」ができるように。


最初は誤字脱字のチェックのためだったのだけれど
最近は、それだけではなく
自分の綴った言葉と2回向き合うと、1回目よりもさらに客観的に文章を読むことができるような気がしている。


結果。“文章”に対しての感想は、こんな感じだ。

あれ。思ったより長文になってる。

おお、なんとか上手く着地できたみたいだ。

これって結局、何が言いたいんだろう。
整理するのが難しかったんだな。

…など。


“内容”に対しては

何かの感想文を書いていたら
そうそう、このシーンやセリフ良かったなあ。とか

そうだ、今日の私はこれを頑張った。
今日はぐっすり休めそうだ。とか

辛かったな。でももう吐き出したから大丈夫。
明日から切り替えよう。

など。


文章の反省も兼ねて
もう一度、記事を書いた時の自分の気持ちと向き合ってみる。

2回目に読んだ時に、1回目とちょっと違う感想や気持ちが芽生えたなら
それは“衝動的に書かれた言葉”なのかもしれないし
書いたことと、数時間の消化期間のおかげで、もう吹っ切れたのかもしれない。

この表現は違うな。と、“もっと自分の感情に近い言葉を探す旅”もまた楽しい。


…そうやって繰り返していると
自分の心の小さな動きがよく見えるようで、面白いのだ。


そして最近はさらに
2回目を読んだら、自分で自分の記事に「スキ」を押すようにしている。

「スキ」というよりも
「昇華!」「成仏!」という気持ちでポチッと。

…すると、いくらか心がスッキリするような気がする。

手に持てるような“固体”だった気持ちが
“気体”となって宙に浮き、ふわっと消えていくような。


その点、紙の日記帳は
自分の文字を見るとさらに当時の感情がわかりやすくて、また面白い。

字が大きかったり
逆に小さかったり
丁寧に書けていたり
斜めっていたり
鉛筆やシャーペンの芯が折れた跡があったり。

感情は言葉に表れやすいものだ、と改めて思う。


文章を書くときは、基本喋っていない。

静かな場所
賑やかな場所
揺れる場所
狭い場所

どんな場所や環境で書く文章も
ある程度、頭を働かせて、冷静に、心や頭の中を言語化している。

だからこそ
思ったことをすぐに言語化できてしまう「口で伝える言葉」というのは

よく考えて発しなければならないなあ、と思う。


衝動的で殴り書きのような言葉を、そのまま相手に伝えたり
消化済みでもう伝える必要のないことを、再び掘り返したり
鉛筆の芯を折ってしまうような心を、そのまま放置したりしないように。


また『さみしい夜にはペンを持て』を読もうと思った。

大雨と雷の音の中。
薄暗いけれど、時間帯の割には明るく
グレーと赤とオレンジ色の、空の下にて。




2024.8.22

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