悲しむ事が苦手だ
(amebloに書いたんだけどnote向きな気がしてこちらにもコピー)
時々あるのでパターンなんだけども、
昨日から、悲しくて悲しくて仕方がない。
私は小さい頃から悲しみを出してこなかった。
怒ることは簡単だったが、
悲しむことは苦手だった。
なぜなら「女の腐ったのみたい」って蔑んで来てたし、
大人になってからはそれを思考で処理し、
感情とは女子供の持つソレで
大人になったら捨てるもの的な
そのくせ「喜び」という感情だけはウエルカム的な
スピリチャルな風潮または
自分の投影というコトバだけを先ばしらされ
「そう思ったらこうなっちゃうからダメなんだわ」
とストッパーをかけた。
そして、視点を変えて、
悲しむことを別な事にすり替えるのも得意だった。
もともと得意な「怒り」は
そのまま扱い切れないエゴとして残り
夫がその被害をあいかわらず受けているが
「悲しみ」はしっかり経験もしないままに
なかなか引き出すことのできない銀行の積立貯金にいれたまま、
そんな感じだった。
が、12年前にファイブリズムに出会って以来
それは時々やってきた。
ただし、悲しみには悲しみ独自のペースがあるようで
「ほら、悲しみ、出て来て!」
っていったって、決して出るような
ヤワなものではなかった。
だが、そこにアプローチはできた。
思考から「出しても大丈夫だよ」というアプローチを
ハートから「もう受け入れられるほどに大人だから」と言い
身体を動かして実際にそれらを緩める。
ものごとは体に溜まる。
身体を動かすと、
どれくらい自分が悲しみを
ブロックしていたのかがわかって
「かわいそうに、がんばってたのね、ありがとう」
と感謝が湧いてくる。
身体のアプローチはスッ飛ばせないのだ。
思考だけじゃイケないのだ。
少なくともわたしの場合は。
エロ本ではイケないのと同じ
(ある意味、脳的にはイケるんだけども)
ハートだけでもイケないのだ。
わたしは、実際にイキたいのだ。
思えば
弟が4歳で死んだ時、
父母の悲しみはそこはかとないものだった。
が、
父母は悲しみというカタチで表現しなかった。
わたしは彼らの必死さを見たが
さめざめと泣く涙は見ていないように思う。
パニックのサバイバルとして
怒りが原動力となり
家族中が「それ」を無事に終えることに
フォーカスしていたようすらに思う。
わたしは彼らが悲しみに行かないように
いい子にしたし
面白いことをして紛らわせた。
その結果、ピエロとして生きて来た時間が長かったように思う。
その原体験から
「悲しみは表現してはいけないもの」
と言うルールが細胞に刻まれた。
だから悲しみがやってくると
「視点を変える」
「思考を動かす」
「怒りの感情へ移行する」
この3つによってサバイバルしてきたが
25リズムで何度も何度も
そこへアプローチして以来、
ようやく今になって
ここ5年、悲しみが時々やってくる。
ああ、この怒りの下にあったものは
悲しみだったんだ。
とわかる、という風に。
そう言うこと、無視して生きてるうちは
ある意味よかったとも言える。
だけど、わたしはそっちを選ばなかった。
昨日、今日、
わたしは悲しみと一緒にいる。
わたしの中の泣きたかった私が主役となり
わたしの体の中に溜まっていたそれが浮上し
(現に咳が止まらない 肺は、悲しみの反射区である)
私は悲しみに、思い切り表現させてあげることを
許している。
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