良い医者VS悪い医者:名医のような顔をして、よく話を聞く医者ほど危険である。そして「勇気をくれる医者」
レセプト(診療報酬)に従って、医者は売上が決まる。これが一番の問題なのだ。ボランティアで診察などしていない。売上が上がらなければ、病院は経営できない。日本の医療では「国民皆保険」という大きな網で集めた金を医者が分け合うことになる。
どんな治療をするといくらになるのかというのは法律で決まっているのだ。医師は気分や自分の信念で勝手な治療はできない。無論どの治療方法を選ぶかは決められる。
治療を患者が決めることができれば問題は解決なのだ。しかし、患者には知識がない。どうしても医師の言うことに依存してしまう。医師が決めているのが現状である。当然レセプトの点数の高いも(売上の高いもの)のを選ぶ。
患者が権威に依存することにこそ問題の本質が有る。
世の中には3種類の医者がいる。
権威的で「患者の話を聞かない医者」と、優しくて「患者の話をよくきいいてくれる医者」この2種類はすぐに思いつくだろう。
患者はじっくり話を聞いてくれる医者が良い医者だと思うかも知れないが、そうではない。よく聞いてくれる医者は患者を依存させる。そこが問題なのである。
刑事ドラマと一緒で、「良い医者役」と「悪い医者役」に別れて世の中に存在する。患者は贅沢だ、ポンと治らなかったら腕が悪いといい、別な医者に行く。そういう患者は「病院ジプシー」と呼ばれる。医者の間を「セカンドオピニオン」と言って自分の納得の行く治療を探すのである。ある意味正解である。しかし、本質的な解決にはならない。特にいま大流行している「病因のない症状だけの病」に対しては「正解がない」のだから、いくらさまよっても見つかることはない。
「優しくてよく話を聞く医者」も「権威的で5分の診断で処方する」と文句を言われる医師も大差ないのだ。「大多数の症状に効果がある薬を処方する」のだ。何時間診断しても結論は血液検査の値で決まっている。マニュアル(毎年「診療基準」と言う本が出る)通りのことをするのが医療なのだ。
しかし、治らない患者もいる。当たり前である、症状は一番偏差値の高い場合を列挙しているからだ。別な原因の場合も有る。しかし少数である。
名医というのはその稀なケースに目が行く人である。これは話を聞く聞かないではない、気がつくかどうかである。問診技術と言えるであろう。経験もあるだろうし患者との相性もある。
僕の眼科体験
2015年4月に「失明するからインスリン打って眼底のレーザー凝固しろ」と僕を恫喝した医者はまさに「悪い医者」の典型である。
眼底の新生血管が悪化しつつ有る場合は、状態がステージ2の間にレーザ凝固させて早い時期に進行を止めるというのは当たり前のマニュアルである。僕でも、そう提案するだろう。
半年後に行った医師は「良い医者」の典型である。話をしっかり聞いてくれて、半年でA1cが16.5−>6.5となったことを称賛してくれた。嬉しかった。そして、もう少し様子を見たいと言われ(この僕が)毎月真面目に通い出したのである(笑)。
黄斑部浮腫と言われる症状が見つかり、宣告された。治療はしないとはっきりと話したら、「そうだね治療しても2−3っヶ月で戻るからなあ」という。この治療というのは、目ン玉の中心にステロイドを注射する。ものすごく沢山の人に見られる症状なのだ。そんな治療をなんでする。
毎月行っている間に、ボソリボソリと先生がつぶやくのだ。「白内障」と言う言葉が聞こえる。どう考えても僕に聞こえるようにつぶやいているのだ。
この頃から、勉強する本の種類が変わってきた。開業医が読む本を読みだしたのである。業界誌である。処方薬の宣伝が載っていて、治療の内容などが細かく書かれている。医者のアンチョコである。以前は読んでもちんぷんかんぷんであったが、分かるようになっていった。
アンチョコを読むと医者の手の内がわかる(笑)。
自分が病気だと勉強するものである。
この頃には、自分の病気に対して医学がどの様な治療方法を持っているのか分かるようになってきた。
もし白内障の徴候が見られたならば、はっきり言えばいいのだ。僕の性格からして、医師の言うことは聞かないと踏んだのだろう。たしかに目の見え方は悪い。まさに白内障の症状である。しかし、ある程度の年令を過ぎたらアタリマエのことなのだ。僕に言わせれば食事の問題である。
眼科の病院はでかいビルが多い。看護師も多い。病院経営は大変だろう。それぞれの接客術で売上増を狙う。別に責める気はない。
白内障に関しても僕は手術をする気はなかった。母が手術をしてとても苦しんだことを見ていたからだ。
もう眼科には行っていない。
患者に病に向き合う勇気を!
医学が勝利した病はそう数は多くない。ガンや様々な病気に勝っているではないかと言うかも知れないが、それは対処療法でしか無い。病因を排除してそれなりに日常を生きることが出来るようにはならない。
「治療に始まりと終わり」のあるもの、「同じ様な手術を繰り返さない」この2つの条件が僕の考える治療である。ある程度の低下はあるにしても以前の状態に戻ることが出来るものを言う。
事故によって心臓に異物が入ったときにさえも、手術によって回復出来る。
ところが、同じ心臓の手術であっても「慢性心不全」と言う病気は違う。
慢性心不全においては、同じ様な手術を心臓のいろいろな部位で何度も繰り返して、一年位で死ぬ(母はこれの最初の発作でなくなったと思う)。一箇所が治っても次々と同じ様な現象が起こるのである。つまり組織自身の守りが破られているのだ。心臓という臓器が適切に回復できないのだ。
生活(食事)の中にこそ原因が有る病
今私達を苦しめている「うつや統合失調症をはじめとする精神疾患」「膠原病、難病と言われる対策のない症状」、「糖尿病、高尿酸、高血圧、高脂血症と言われる検査値の異常」検査値の異常の後に引き続いてくる「組織や臓器の不全」これらの「病因の見つからない症状」は老化とよく似ている。
その臓器を入れ替えても同じようなことがまた起こるであろう。身体というコロニーを維持するための外部装置が既に壊れているのだ。その外部装置を僕は「家族というシェルター」とよんでいる。
多くの人はコンビニ弁当であったり、スーパーで半額になる惣菜にパスタにレトルトである。その食事には必須栄養素は溢れているかも知れないが、身体というコロニーの中で必要とする形では存在しない。「乾燥・濃縮・抽出」工程は生命を押し出してしまう。
かつては、家族の病気は家族で共に向き合った。今はどうだろうか、「トット医者行ってこい」と言われる(笑)。
自分自身で向き合う勇気を与えてくれる医者
これが、3番めの医者である。僕の言うところの「名医」とは彼のことだ。
僕は人生で2人に出会った。そして僕は彼らのように生きたいと思った。
1人目は「糖尿病の解決」の著者バーンスタイン博士(注)、2人目は僕の最初の主治医の萩原先生(故人)である。おふたりともI型の糖尿病患者である。
まさにアドラー的である
若い頃から心理学は大好きで色々と本読んできた。しかし、もう精神医学は好きではない。今度書く(笑)。アドラーとは教育問題と格闘していた時代に出会ったのであった。
アドラーに出会っていたから、医学自身に対しての疑問で止まることなく、「権威」に対しての疑問へ深まったのだと思う。本当にフロイトってクソだ(笑)。ほぼすべての日本の心理学者は皆そうである。かえって、自己啓発系の方々のほうがまだいい(笑)。
患者の闘病記は素晴らしい本が多い。
この中では、『わたし糖尿病なの』と「藤本敏夫さんの本」がいい。
I 型の方の闘病録は心打つものが有る。良質の本は勇気をもらえる。
バーンスタイン博士
バーンスタイン博士に関しては著作を読むのが一番。素晴らしいです。僕の本でも触れています。