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料理する覚悟と楽しさ。イナダ、一匹158円、買わねばなるまい。

料理に一番大事なものは「覚悟」である。生まれたときから料理できる人間などいない。家庭科や料理学校でならったぐらいで出来るようになるわけがない。かつては姑から徒弟的なトレーニングを何年も受けてやっと一人前に成った。

それをネットで作り方調べたくらいで出来るようになるはずがない。とにかく練習しなければならない。何度も失敗しなければならない。諦めたら、そこでおしまいだ。商品化された食事を買って食うだけになる(注)。

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本やネットの「料理情報」は本当に腹が立つ。「簡単・誰でも出来る・10分で出来る料理」バカにしないでもらいたい。家事はそんなにかんたんなものではない。そして長い一生には色々な変化があり、発見が有る。

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自分は衰えていくし、子供はおとなになる。レンジの火を消し忘れて鍋をすみにする。ご飯を窯いっぱいにたいちまう。パンツの中に粗相をするようになる。料理の方法を忘れる、作れたことも覚えていない(母の70代の後半からの姿だ、涙が出る)。

かつては家庭で介護していた。年老いていく父母の姿を見て学んでいたのだ。自分が年取っていくのは2回めの体験になるのだ。しかし、私達は年老いて死ぬことが怖いから「病院や施設に」隠す。だから、今や年をとっていくこと・死ぬことが、新しい発見なのだ。何の準備もなくとんでもない事に巻き込まれていくのだ。施設に入れて時々面会に行くのは確かに楽では有るが自分の未来と直面することがない。とても大事な学びの場を失うことになる。とは言っても、父のものであっても、他人の小便を掃除するのは辛い。おしめを替えるのは綺麗とはいい難い。そして、収入の少ない時給仕事の僕らは貧乏だ。生きるために忙しすぎる。そうでもない連中はレジャーやトラベルで忙しい。デズニーランドは楽しいと聞く。

かつては家庭の中にリタイヤした年寄の席があった。そして同じか行の中で生きた年寄の知恵は示唆に富むものであった。今は子供は「時給仕事」で、親の言葉など生きるための参考にはならない。

僕も、いずれ施設に入ることになるであろうが、心が狂わない食事をしていきたい。かつて家族というシェルターは循環して維持されていた。ほんの50年前までそうだったのだ。もはや戻ることは出来ないがなんとか人様の世話にならないで生きていきたい。

私達は「家庭というシェルター」の中で生きていた。

かつては、三世代がともに生きることで維持されていたシェルターである。子供がおとなになり、家族は増え、分かれ、自分は年老いて、子供に代がわかり、死ぬ。

結婚すると子供を求められるのは子供が「今の世の中でいう年金」であるからなのだ。女性はつらい思いをした(今もである)。そして、自分が望まないセックスや日常的なDVに苦しめられた。しかし、家庭の中での次男三男も同じ様に苦しめられていた。家督権という考え方は生まれた時から全財産は長男に相続される。次男以降は、遺産なくどこかの家の婿になるか変なオジサン(今で言うニート)でいる他無い。分家は本家にいつもたかりに行ったものなのだ。

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「グローバリズムという獣」が完全に破壊した。

自由を与えるといい、商品として「形だけのシェルター」を売る。生産と生活の手段を失った大黒柱は時給で働かされる。足りないから共働きになる。一方で生産の手段を持つものや家賃を一生受け取るものが生まれる。

格差の始まりである。

『学校、会社、病院、年金、施設、刑務所、精神病院』すべて「家庭」の劣悪なコピーである。ともに生きることで自分らしい人生を全うできた家族は、バラバラに別な場所で生きてそれぞれに孤独な死を迎えるのだ。開放という略奪が起こったのである。分かるかね、上野くんイリイチくん(注)。

金で買える自由などろくなものではない。

グローバリズムの獣は、私達を苦しめ、少しずつ殺している。

しかし、もはやもとに戻ることは出来ないが、自分ひとりで現実に向き合っていこうと思う。まずは、食事を自分で作ることで心狂わないで生きていけるかやってみよう。

いずれ妻も子供もどこか別なところでバラバラに死ぬのだ。これは統計的な事実なのだ。悲しむことはない。

僕は母と父と暮らしてよかったと思う。自分の未来を学べたのだ。

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僕は妻に文句を言われないで作れるようになるのに3−4年かかった。そして諦めないで続けたから上手にできるようになった。とは言っても、偉いことではない。失明するか毎食料理を作るかどちらかを選べと言われたら、多くの人は料理の方を選ぶだろう。

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僕のyou tubeチャンネルには2400本を超える動画をアップしている。ことの始まりは2017年7月に知り合いに毎食食事を作っていると言ったら、俺も作っているよと言われたのだ。話を聞けば、パスタに食パン、ご飯にスーパーのお惣菜、金がかからなくていいという。

自分で作っていると言っても、その食事は「乾燥・抽出・濃縮」工程を通っている。食材は、大地や海から上がってから長い旅をしてきている。その中には生命は入っていない。

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久しぶりにイナダを捌いたが、冊で買うより2日は長く食べることが出来る。生命が入っているから長く美味しく食べることが出来る。

ガラの煮付けも最高だ。

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友人には魚を捌けるのっていいなあと言われる。しかし、捌けるように成ったのはごく最近である。出刃包丁は持っていたが、覚悟が足りなかった。

妻が嫌がらせのように買ってくる魚を腰痛に苦しみながら捌いてできるように成った(笑)。

自分で料理を作るのはデズニーランドより楽しい。けど、楽しいと思えるようになるには修行しなけりゃ駄目だ。諦めないで少しづつでいいから続けていけばいいことが有る。

自分らしく生きるには、自分らしい食事が必要だ。売られている食事を買い、薬を飲んで検査値を正常にしたところで、いずれひどい目に合う。自分がどんな死に方をするか考えてみたらいい。毎日料理を作るのはかんたんではない。仕入れやゴミ捨て掃除洗濯まで入ってきたら大騒ぎだ。

けどね、僕は父のように庭を眺め四季の移り変わりを感じて、少しだけ酒を飲みながら丁寧に作った料理を食べて静かにあの世に行きたい。

医師の言いなりの生活をしていたら、それは無理だ。統計的な事実である。何種類もの薬を飲みながら同じような手術を繰り返して心を狂わせる食事と心を黙らせる薬を飲みながら生きることになる。無論その時は何も感じていないだろうが(笑)。そんな人生の終わりはまっぴらだ。

覚悟して生きるがよろし。

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注)商品化された食事を買って食うだけになる

誰もが楽をするのは好きだ。別にそれを責めているのではない。食事を買って食うのは金があるなら何ら問題はない。問題は500円ポッチの金額で買える食事はろくでもないということだ。僕は直接原価をおおよそ500円程度と考えている。調味料や米は別であるが、そのくらいで毎日の食事は作ることが出来る。ところが、買い出しや後始末、調理の時間はボランティアなのだ(笑)。もし、1食1万円とかとんでもない金額を払えば新鮮な食材を使った買い主に最適な食事を執事が作ってくれるだろう。みんな貧乏が悪いのだ。

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注)上野くんイリイチくん

上野千鶴子とイヴァン・イリイチのこと。今度詳しく書きます。1960年代〜70年代のウーマンリブと言う運動はその直前の家庭の崩壊から起こった現象なのである。余りにいいことしか見えていなかった

家庭という企業が破壊され、地域の循環型経済が消え、とんでもないことが起こったのである。1930年代のアメリカの社会構造の変化と対比すべき大きな変化であったのだ。

この変化を勝ち取ったものという辺り、救いようがない。それでも東大教授というのは金持ちなんだろうなあ、「お一人様」などといいことが言える。貧乏な年寄くらい悲しいものはない。

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幸運な病のレシピ
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。