格差の方程式:手打ち餃子の思い出
手打ち餃子を作ろうと思ったのはnoteの記事を見て、美味しかったことを思い出したから。
20年以上前の話である。僕は工場の親方の奥さんに習ったことがある。みんなで集まっての餃子パーティである。
子供がケーキ作りに使った強力粉が余っていたので手打ち餃子にすることにした。新発田に戦後大陸から引き上げてきた方がやっていたラーメン屋さんがあって、そこの水餃子が大好きであった。大量に作るには、焼くよりでかい鍋で煮たほうが手早く出来る。
4個煮て妻と二人で食べて、遅くに子供が帰って来たので4個にて、残りは冷凍した。まあ、2つ3つ食べれば満腹である。
その頃僕は工場で現場仕事をしていた。
東京から33歳で新潟の実家に帰ってきて、仕事がなく工場に勤めていた。ソフトの開発をしていた僕が、現場でナッパ服を着て朝はラジオ体操から始まり、16時にあがって、工場の風呂に入って上がる。
中央がOさん、一番右がぼく、こう見るとでかい。
3交代だったので残業はないが手取り15万円でベースアップは年5000円、10年働いても手取り20万、朝から親方の言う段取りでコイルを運んで注文のコイル幅にスリット(幅狭く切る)のだ。鉄が切れることを知ったのは驚きであったが、辛かった。父のコネで入ったので、やめることは出来ない。毎日明日は死のうか東京に逃げ帰ろうかと思う日々であった。
なにせ大学卒業は僕一人、いつも間違えをして危うく指を切り落とすことだったこともある。事務所の本社採用の連中は高卒の現場作業員を目下に見る、言われたことを黙ってするのが工場の仕事なのだ。相談などしない。
事務所に行ったときの居たたまれなさは中々味わうことは出来ない。またその逆もありだ(笑)。
危険な職場だった。僕が勤務していた3年間の間に2人亡くなった。最初は、すぐに事務所勤務になるだろうと思われていた。なにせ父は総務部長だった。工場長とは不仲である。工場長ははっきりとお前は事務所に入れないと言われた。それが踏ん切りだったのだろうか、1年位たった頃から、同僚と馴染み始めた。
ちょうどその頃の話だ。
僕のつかまっていた機械は1号スリッターといって親方はOさんだった。独身で僕より一回り年上だったから50歳に近かった。中国の方がお嫁さんに来るてくれた、そのころ随分そういう事例があった。Oさんの奥さんは中国でも北朝鮮との境界の出身の方でキムチも水キムチであったりした。Oさんの奥さんの歓迎会もかねて、僕のつかまっていた機械のグループで親睦会をすることになったのだ。10人くらい集まっただろうか。明るく、ハキハキとした元気な方であった。
粉をみんなでこねて、伸ばすのだが、なかなか難しい。耳たぶの硬さまでこねなさいと言われたのをよく覚えている。数人が自代わり順番にこねる。余り水は入れすぎると駄目なので少し足りなめぐらいで永くこねていると美味しくなる。
パーティでは、これ以外にも、麺を手打ちして、でかい牛肉の塊をじっくり煮込んだスープや、水キムチ、あとは皆が持ち寄った酒やビールで大騒ぎであった。これ以降、色々なイベントを企画して楽しく遊んだ。貝を取りに行ったり、岩牡蠣を取りに行ったり、なんか海に行ってばかりだなあ。
こね終わったらラップして、30分くらい寝かせる。このへんは粉物一般のルールであろう。
そして、この年の秋に組合の委員長選挙があった。会社の部署ごとに立候補した工員の中なら選ばれるのである。僕を推薦してくれたのがOさんであった。そして僕は委員長になる。会社が親会社に潰される半年前のことだ。
その間に肉をこねる、キャベツを絞って十分こねるといい。
80人いた組合員のうち小さな部署だけが別会社に買い取られて、15人ほどが再雇用されたが、それ以外は皆無職になったのだ。最後の3ヶ月はよく覚えている。とにかく、会社が閉鎖される日までになんとか就職先を探そうとしていた。しかしながら、組合員の多くは見つからなかった。
僕も見つからない組であった。一年経っても職が見つからない人も多かった。Oさんも見つからない一人だった。
親会社は「大平洋金属」と言う一部上場の大企業である。部長以上の役職の連中は、みんな失業の翌日から仕事があった。仕事に出てきている間は、何も言わないでいて、会社が倒産した瞬間には次の仕事が決まっていたのだ。
この話をしたら、「ズルい奴らは皆、仲がいい」と言った人がいた。まさにそのとおりである。卑怯者と泥棒は証拠を残さずに悪事を働く。僕らは直感でアイツラの汚さを知るが、それを指摘しても「証拠がない」「言いがかりだ」「陰謀論者のバカかお前は」と言われる。それで結構である。
現実を見れば、お前たちが嘘つきの卑怯者だということぐらいわかる。
棒状に伸ばして、切って潰していく。ここから広げていくのだ。魚肉ソーセージ位の太さにして、包丁できるといい。
Oさんのことは気がかりだった。どこに面接に行っても上手く行かなかったと聞いた。後で知ったのだが、中国から来た奥さんは子供さんがいたそうで、日本に呼び寄せていた。
奥さんが来てくれたと思ったら会社は倒産である。彼の絶望がよく分かる。僕も結婚したてで最初の子供が生まれたばかりだった。
僕は下手くそだが、Oさんの奥さんはあっという間にパパパであった。どのくらいの厚さにするかによって全く味わいが変わる。
僕も、その後の数年間は大騒ぎであった。結婚して子供が6ヶ月の失業である。おまけに会社からは300万円の訴訟までおこされて、壊れなかったのが不思議である。地元に仕事はなく、かと言って東京に戻る気にはなれずいた。
奇妙な開放感と先の見えない不安の時期であった。運良く、東京時代の友人に仕事をもらい、起業することが出来た。まだホームページ作りな度出来る会社も少なかった。ネットの時代の到来であった。
このあとの20年は訳がわからない。まさに「糞のような会社」のシステム構築に10年、国体のシステムと出会い、多くの人との出会いがあって、何度も生きていれないと思うこともあった。
そして、今も起業中である。
包むのも、日本の餃子とは全く違う形に包む。皮が柔らかくて厚いので十分余裕があった。今日は少し厚すぎた感じもしたが食べたら最高に美味かった。
数年後に、餃子パーティ会場だった友人の家に用事で顔を出した。その時にOさんの話になった。結局、この辺では仕事が見つからないでどうにもならなくなったようだ。田んぼも持っていたが売れるものでhじゃない。そもそも、農業だけでは食っていけないから工場で働いていたのである。奥さんの連れ子3人だったときいた。
10分茹でたが、7分くらいでも良かったと思う。浮かんでくるのでわかる。
彼のところにOさんは来て5万円借金して行ったそうだ。数ヶ月して音信が無くなり、行ってみたら家は空き家になっていたという。他の人からの噂では、一番小さい子供をおいて奥さんが家出して、奥さんは東京の中国人街の辺りに仕事を探しに行ったのではないかと言う噂も聞いた。
Oさんも後を追ったと言う。もうあの時から20年もたった。鮮明に覚えている。
餃子の煮汁も美味しい。すいとんのようだなと思いながら、食べてみると皮の旨さにびっくりする。市販の焼き餃子など足元にも及ばない。売っている水餃子は小さく可愛いが、これはデカイ(笑)。そして美味い。
数年後に、当時の部長と偶然あった。「いやあ,僕も大変だったよ」と言うそいつには心底吐き気がした。
ストの成果(1億三千万円の退職金の追加)が確定したあとで、組合員にまだ問題は残っているから団結して要求を出そうと言った時に、役員からも「お前にはついていけない」と言われた。一億三千万円の分配も僕が決めたので誰もが不満に思っていた。僕は60万円もらえた。
この部長が、「工場が工員ごと買い取ってもらえるかもしれない」と噂を流したのだ。もしそうならば、それは公式に(組合)話すべきなのに自分の子飼いの部下にこっそりと呟いたのだ。
そんなことを聞かせられれば、組合を裏切るのが当たり前だ。僕は、この争議の最後の日々には多くを教えられた。僕を誹謗する連中も多く、話をしても嫌な気持ちになることも多かった。一人だけ、米を一袋持ってきてくれた人がいた。嬉しかった。たまに路上で笑顔で会うことも有るが、そんな時は元気そうで嬉しくなった。130人の社員のうち「斎藤さん」と(敬意と親しさを込めて)呼んでくれたのは10人くらいだったと思う。
工員の中でも、工場を取りまとめて最後まで業務を進めていた連中はご褒美(海外に機器の設置と説明に行った社員もいたという)をもらえ、殆どの社員はどこかに消えていった。会社が終わるというのは、恐ろしいものだ、昨日まで当たり前に過ごしていた日常が無くなるのである。
会社事由の倒産だったから翌日から失業保険が出た。それでも保険の終わる1年後になっても仕事がない工員もいた。
新発田のような地方(生活と工場が重なっている)で会社が無くなるということは「生活が破壊される」ということだ。雇用保険が有るからいいだろうということではない。
自動車会社が、国内の工場を閉鎖して業績が上がって何十億もの年収を社長がもらうはおかしいと思う。
海外は人件費が安いと言われるが、「インフラが整備されていない国」だから給料が安くでも生活できるだけだ。日本人の給料(生活費)が高いのは、生活のコストに、「役人の給料」や「パブリック」の使用料(商品にはは高速代金が入り天下りの役人の退職金もはいる)、電気代という名目でアメリカやフランス核燃料工場の売上が入っているからなのだ。
外国に工場を移して、業績(李益)が上がった会社は「クソ会社」である。その商品を買うのは誰だ?払った金は払った人に戻ってこない。
どれだけの人々の生活を破壊したと思う?。僕は自分の体験で実感している。アメリカのい議事堂に乱入した彼らを見た時に、共感した。
僕らは、民主主義(自分たちを豊かにすると思っていた)に裏切られたのである。物知り顔でテレビで「超えてはならない一線がある」と彼らを非難する評論家を僕は心底憎む。その言葉は、自分たちの利益のために労働者の生活を平気で破壊する連中に言ってやれと。
ニートと言われ、学習障害やらADHDやら人生の困難を自己責任とされているみんな、あんたらは悪くない。この50年で、そういう構造が作られたのだ。誰かが金持ちになるために多くの人間が不幸になる社会なのだ。
次の選挙ではトランプ(かその後継者)が勝つだろう。バイデンが工場をアメリカ国内に戻したところで、格差を生み出している社会構造は変わることはないだろうから。世界ではテロが止むことがない。
本来、民主主義は多くの人々の幸福を実現することが目的であったが、もはや買い取られたのである。生活もまともに出来ない時給で働かせられている私達。そして、何もしないでも金が入ってくる方々がいるのだ。僕は、もう民主主義を信じていない。
今日は手打ち餃子を作りながら、そんなことを思い出した。
Oさんはとてもいい人で、正直な方だった。あまりしゃべることはなかったが、夏の熱い日の午後の休み時間、工場風の通る日陰でとりとめもない話をしていたことを思い出す。
多分70歳くらいだろう。奥さんの連れてきた子供は30歳近いだろうか。
今は何をしているだろうか。時に思う。
あの日、みんなと笑いながら飲んだビールと餃子の味を忘れない。明日も、10年後も工場は続き、貧しくても互いに尊厳を持って共に生きるコミュニティ、心地よい土地と仕事、それが続くと思っていた。
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