私達は年取った時に「ひどい目に合う」
若いうちからひどい目に合うことも多い。しかし本格的なのは65歳過ぎてからだ。定年後の健康寿命をなんとかしたいなら、毎日素材から食事を作ろう。食事にはそれだけの価値がある。
1)検査値を正常にする何種類もの「薬」を飲まされる。
検査値は食事に対する身体の当たり前の反応だ。「分子標的型のよく効く薬」は検査値を正常にする。しかし、検査値は病気の原因ではないのだからいくら下げた所でお代わりのない臓器が破壊され辛い人生の終りが来る。
2)くり返し同じような手術を受けさせられる
ポリープ取りました。胃潰瘍は薬で治りました。直腸がんは早期発見いたしました。口内炎はクリーム塗っています。咳がでたらこのシロップがよく効きます。早期発見して素早く手術してくれた医者に感謝。何とおめでたいことだ。
3)やがて「おかわりのない臓器」が壊れて、管で繋がれながら辛い10年の後にこっそりと病院で死ぬ。
老人は、病院や施設に隠される。どんな生活をしているかは見ることは出来ない。認知症と診断され、治療という名目で精神安定剤を飲まされる。薬学的ロボトニーである。しかし、それも仕方がない言うことを聞かなくなって手に負えなくなるのだ。
「心臓、脳、神経系、目鼻口耳、血管、皮膚と粘膜、腎臓、腎臓、膵臓、甲状腺」これらの臓器の細胞は一旦、死ぬと変わりの細胞は生まれてこない。つまり、細胞の寿命が機能の終わりなのだ。そして失われた機能を他の臓器が助け合いながら新たなコロニーの形になるのだ。
検査値というのは身体というコロニーの中で、一つ一つの細胞が苦しんだり喜んだりしている言葉なのだ。身体の様々な部分が壊れ始めた時に夫々の部分が互いに変わろうとするための大事なメッセージなのだ。私たちの身体というコロニーは少しずつ壊れていく仲間たちをフォローするように変わっていく。元気なおばあちゃんが、小さなおばあちゃんに変わっていくのは今ある臓器で生きていけるように多くの細胞を間引き、「メタフォルモーゼ」しているのだ。細胞達は、新しい自分で生きるために必死なのだ。
「輸液(点滴)」はそれを邪魔する。あたかも元気なようにフェイクするのだ。
「経管(栄養)・輸液」は新しく組み替えようとする身体の望むものを食べさせない。食べれなくなったらもう終わりなのだ。
父との5年が僕の食事のエビデンス
2020年3月父はなくなった。しかし、最後まで頭ははっきりしていた。僕が毎日3食食事を作り一緒に食べた。一切の薬を飲まず、元気に91歳まで生きた。僕も同じ食事を作って食べていく。
残念ながら僕の子供は僕に食事を作ってくれはしないだろう。そんな幸運は望んでいない。ではどうすれば自分を保ち続ける食事を80−90歳まで食べ続けられるだろう?もっと世の中の人が「食事の価値」に気が付いてくれることだ。
高度医療で100歳まで生きるというが大嘘だ。専門家(商売人)の言うことは信じてはならない。細胞は必ず死ぬ。お代わりの出来ない臓器が失われたらそれが寿命なのだ。
樹木は何万年も生きるように見えるが、葉は毎年落ちる。樹木というコロニーに住む葉の寿命は決まっている。そして葉の一枚は一人の人でその中にはたくさんの細胞が生きている。
生命は時間がきたら散るのが当たり前なのだ。不老長寿を望むのは止めたほうがいい。専門家(商売人)は嘘がうまい。自分も騙されるくらい嘘がうまいのだ。
私達は確率的に『同じような薬を飲み検査値を正常にして、同じような手術を繰り返し、「輸液・経管・胃瘻」の臨終』を迎える。それがエビデンス(証拠)である。商品化された食事はコスト削減の為に「乾燥・濃縮・抽出工程」を通る。「生命の水」を失った細胞のミイラなのだ。
なので僕は毎日素材から料理を作る。素材の持っている生命を大事にしたプロセスで家族の食事を作るのだ。
再生治療には決定的な勘違いが有る。
再生治療のターゲットは「お代わりのない細胞」だ。なぜお代わりがないか考え得たことが有るだろうか?50年連れ知った妻と死別した夫に、全く二人でいた記憶のない形だけの妻が現れて嬉しいだろうか?それは他人である。
お代わりの出来ない細胞というのは生まれてからの記憶を持っている。「エピジェネティク」と言う考え方は、受精後の環境の変化に細胞が適応していっていると言っている。つまり変化していく環境に細胞は適応していくのだ。死んだ細胞は、そのコロニーのベテランである。そこに、生まれたばかりの細胞が入ってきて形ばかりは再生するのだ。おそらくうまく機能はしない。