食べものを思い浮かべられること
最近、食べものについて思い浮かべられる幸せがあるのだということに、はたと気付かされた。
適応障害になったことは先日のnoteで書いた通りだけれども、心療内科に足を運ぶ直前は本当に精神的にきつくて、何かをはっきりと考えることすらままならなかった。その代表例が、食べものだ。
コンビニで食べものを前にしても、何を買いたいのか分からないのである。食欲はかろうじてあったものの、作業のようなものでとにかく感情がないままにものを口に運ぶというような有様だった。
以前から忙しくて、精神的にきつくなると真っ先に崩壊していたのが食生活。特に料理をすることだった。
自分の性格上、料理をすることがストレス解消になっているのだけれど、本当に病んでいるときはストレス解消に向かう元気すらなくなってしまう。
そうするとせっかくスーパーで買ってきた野菜も、1週間以上もの間放置して、腐らせてしまう。先が枯れた葱や葉から汁が出てきているほうれん草を手にとっては、自分の精神状態そのものを見せつけられているような気持ちになる。
適応障害になって休むことになった今、元気なときはなるべくやろうと心に留めたのが自炊だった。トントンとまな板を鳴らしたり、ジュージューとフライパンで焼いていると、ふわっと心が軽くなる。
話は変わるが、仙台に居た間くどうれいんさんの『桃を煮るひと』を読んだ。仙台に縁のある人の本を読みたかったから選んだのだけれど、不思議と自分のいまに響く本だった。
食べものについて、一つ一つ思い出されるエピソード。本人が「美食家ではない」「『丁寧な暮らし』という言葉にひねくれた考えを抱く」と言うとおり、その二つとは違う。しっかりと生活と共にある、何か美味しいものを食べたいと安心感を抱かせてくれるエッセイだった。
食べものについて思い浮かべられることってとても幸せなんだなあ。
帯に書かれている「家事なんかしてる暇ないくらい忙しい自分と、いきいきと夕飯を作る自分をどうしても両方やりたい」に、本当にと思うのだ。
今は、本編で登場する岩手の「瓶ウニ」を食べたい。