パンケヱキデイズ
佐藤(ホメロス)耳彦というペルソナが語る序文と思しきパートの中にこんな一節が書かれていて私は即座にこの詩集に共犯感覚を持った。賢治の「春と修羅」がそうであるように、紐解いた初めに接触する言葉が時に詩集全体よりも大きなサイズで読み手を呪い続ける。それは「作者」「作品」「読み手」を結び付ける関係の誕生に纏わる呪いであろう。
私はかねてより「嘘」に絶大な信頼を置いてきた。真実やファクトなどという曖昧で頼りない欲望とバイアスに塗れた誤魔化しの主張と違い「純粋な嘘」こそがこの世で信じられる唯一の「言葉」ではないかとさえ考えていた。
後に耳彦が語るこのフレーズが我々が生活の上で使用する「欲望的嘘」と、詩という「純粋な嘘」との違いを社会へ知らせようとしているように聞こえる。
以前私は詩とは「暴かれない嘘」である、と書いた事がある。"舌のうえに ほどける脂の甘みを 知らない" かどうかは作者以外には暴きようの無い嘘なのだ。その暴かれない嘘が言葉になり文字になり印刷され私の眼を通して私の内部で構築されてしまうその「世界」をこそ私は「真実」と呼びたい。
というように全体を通底しながら変遷していく「鹿」や或いは「胎児の爪」といったモチーフ群が作者の「理知的な営み」として鳴り続けている。
音楽を好きな人なのだろう、と作者を想像してしまう。メロディを付けたくなるような、しかも子音でリズムをとるような。3コードと生き様で鳴らすというよりは、ダイムバック・ダレルのような変則チューニングでしかも理論的に信じられない速弾きを見せるような。
そういった(間違えているにせよ)作者への連想が導かれてしまう作品は、映画であれ音楽であれ詩であれ「創造主」を今自分が立つ世界の上や向こうや奥行きに見い出そうとしてしまう人類の根源的不安解消法のような気もして、少し自分の読み方が嫌になる。
ともかく、時に語彙の難解さや、意味の脱臼の仕方、理解の拒否などをもってして読み手を大いに拒絶するが、実際には書き手の「理知」が、読み手が「パンケヱキデイズ」を生きる為の取込み口となっていて、そのパージとマージのバランスに私たちは心地よく敗北する事になる。テイストの全く異なるチャプター毎の多重人格的な作為的分断の中でも、決して過去行を忘れない作者の「理知」への信頼が読み進める度に深まっていく。詩が形成する「世界」の向こう側にそのように「作者の理知」の影を見る事が良いのかどうかは私には分からないが、野放図に見える世界が、内部を生きれば生きるほど、「私」を明け渡すことが出来る曼荼羅の秩序に見えてくるようで、私がこの詩集を好きだと感じた根拠となっている。
見事に99ページで完結するこの最後の詩行にも張り巡らされた理知(パージ)と身体感覚的な感性(マージ)がよく現れていると感じた。スプライシングされて私のタンパク質を形成するのは理知なのか感覚なのか。何を縁にこの詩集を味わうのかによってその選択は変化するだろう。
ゲシュタルト的な条件反射の言語感覚を拒絶するように素因数分解しながらクライマックスに向かってしかし淡々と祈るように、手を合わせるような轟音の静寂へ向かっていく。
詩集を捲る私のひだり手の質量が軽くなっていく。もっとこの世界に生きていたいと思っていた。眼の外側に広がる生きていたいと思う事の難しい世界よりも、私の内部に構築された「パンケヱキデイズ」の甘い本当の嘘の世界で。
2024.1.10 「パンケヱキデイズ」に寄せて
富田真人
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