校閲者と「書くこと」の関係性。 その② 〜疑問の説明について〜

こんばんは。

今日は、前回の続きとして、校閲者と"書くこと"の関係性について、「疑問の説明」という要素の話をしていきます。
前回の投稿を読んでいない方は、まず先にこちらからご高覧いただければ幸甚です。↓↓↓


今回書いていくのは、前回言及した②のほう、すなわち
②ある程度の説明がないと校閲疑問の意図が著者に伝わらないと判断した際に、簡潔に、そして明瞭に疑問の説明をすること。

の話です。
実際、こちらのほうが①よりも、ゲラ上に「書く」という意味では本格的でしょう。単純に文字数としても多くなりますし、出来上がった文章には痕跡として残らないにしろ、作業としては「書く」行為そのもの、という感じがします。

では、校閲者は実際のところ、どんなふうに"疑問の説明"をしているのでしょうか。

…と、本題に入る前に一点補足です。
業界外の方などからすると、「校閲疑問を著者にわかりやすく伝えるように書き方を調整するのは、むしろ編集者の仕事ではないのか?」と考える向きもあるかもしれません。それも一理ですしそういう場面ももちろん多いです。
しかし、実はそもそも編集者が介在しないゲラというのも世の中にたくさんある、ということはご存知でしょうか。
たとえば、社内に執筆者がいる原稿(私が担当した中では、週刊誌や旅行雑誌の記事など)です。新聞記事も大部分がそうでしょうし、出版社の書籍部門でも編集者が書いた原稿(リード文など)を校閲する機会は往々にしてあります。また、web記事などでも編集者=著者のケースは多いと推察されます。
すなわち、"著者が同じ社内、どころか同じフロアにいる"もしくは"校閲者が著者に直接連絡する"というケースも実は結構あるということです。よく校閲者は著者に会うことがない、とか言われますが、上記のケースの場合、何かあれば校閲者が日常的に著者と会話したりもするわけです(このあたりの話は、いつかまたnoteに書こうかと思います)。
また、編集者が介在するゲラであっても、編集者になんでもかんでも要求するのは酷だと私は考えています。編集者の限られた時間を校閲者の出した疑問の調整ばかりに充てていただけるわけなどありませんし、仮に(もっと分かりやすく書けるはずなのに)わけのわからない校閲疑問ばかり出して編集者が全部それを手直しするとしたら、編集者にとっての過度の負担になりかねません。ビジネスである以上、校閲者は校閲者としての(校閲者なりの)、最低限の配慮が必要ではないでしょうか。
…と、実はものすごく手前側の、普通の校閲者なら易々とクリアしている話をここでは敢えて書いている、くらいにご理解いただければ幸いです。また、色々な方が読まれることを想定して書いてはいますが、あくまで趣味(?)で書いていることですし、すべてのケースを網羅して書くことも不可能なので、"いろんな媒体や状況があるよねー"くらいの気持ちで、想像力をめいっぱい膨らませてお読みいただければありがたいです(他の記事も)。

…と、前提はこのくらいにして、まずは、簡単な一文を例にとります。ジャンルは"評論"でお考えください。

人間は、異性との恋愛経験を通じて色々なことを学んでいく。

あくまで一案ですが、ここでは、"異性との"という表現が宜しくないと考えます。セクシャリティによっては恋愛対象は異性に限りません。「人間は」と総論っぽく書き出した後にわざわざ限定する必要がないですよね。評論でこのような一文が出てきたら、文脈次第では問題視される場合もあるのではないでしょうか。(なお、恋愛の是非、まで考えると、キリがないのでここでは問わないでおきますし、その他のツッコミも不要です)

では、上記の旨をどのようにゲラに書き込むか。
"異性との"をトル、とするのが最もシンプルかと思います(『人間は、恋愛経験を通じて色々なことを学んでいく。』となる)。ゲラ上の指摘も"異性との"を囲んで、"トル?" と書けば充分、のようにも思いますが、色々な条件が重なってしまった場合、この疑問が単なる"好みの問題"のように捉えられ、相手側にスルーされる可能性も決してゼロではありません。
よってここでは、何を意図している疑問なのか、簡潔に補足するほうがより親切な気がします。つまり、"トル?"の横などスペースのあるところに、
(恋愛対象は異性に限らないので)
もしくは
(異性に限らない?)
などと補足をするわけです。
これにより、疑問の意味は一瞥しただけでも明らかになりますね(もちろんケースバイケースで、そんな補足必要ない、というか補足だらけになると逆に煩雑になる、ということも言えます)。

もう一つ例を挙げます。

平成の前半に、皇太子殿下や紀宮清子さまのご成婚が話題となった。

こちらは、調べが必要な例です。ファクトチェックをすると皇太子殿下(現・天皇陛下)のご成婚は平成5年9月。いっぽう、紀宮清子さまのご成婚は平成17年11月でした。平成は31年までですから、清子さまのご成婚を「平成の前半」に入れて良いか微妙なところです。
よって、代案を出すわけですが、これは文脈によって出し方が変わるでしょう。ここでは、「平成の前半に」を「平成の前半から中盤にかけて」とする疑問を出すとします。
それで、この「から中盤にかけて  ナド?」と書いて終わり、でも良いのですが、具体的にどうなのか、ということがゲラ上でも分かりやすいほうが、著者だけでなく編集者や、他の校閲者(素読み担当者が別にいる場合)などにとても親切ですよね。とりわけ、時系列にかかわるような話は説明がないと"ホントかよ?"となりがちです。
なので、「から中盤にかけて ナド?」のそばに、たとえば
(皇太子殿下 H5、清子さま H17。平成は31年まで)
など説明、というよりメモ書きを残しておくことがとても大事になります。
誕生日なども同様です。特に時事ものの記事内では年齢表記がよく出てきますが、執筆時点から発売日までの間に誕生日をまたいでいるケースもあります。そういった類の疑問を出す際には、やはり「A氏 〇年○月○日生」などの根拠を示したほうが明瞭ですね。

また、辞書によって扱いが変わるような言い回しの場合にも、説明というか論拠が示されていると疑問の解像度が格段に上がります。〇〇辞典ではこうなっていたので、という論拠がないと、逆に「校閲者の独りよがりな知識で疑問を出された」などと思われかねませんよね。
ただしこれも、すべての疑問に説明が必要なわけではないことを繰り返しておきます。あんまり説明だらけになっても見場がよくないのです。


さて、今まで見てきたような「疑問についての簡潔な説明」をゲラにどう書き込むか。上記2例は割とシンプルな部類ですが、込み入ったものが現場では頻出します。その際に「校閲者はどう書くか」という技術は明文化しきれないものがありますし、ベテランの校閲者の間でも振る舞い方は十人十色です。ある程度のテンプレートというか、たとえば誕生日についての疑問ならこう書く、というのはありますが、"代案"と同じようにここも書き方のセンスの問題に帰着する気がしております(また自分のこと棚上げ)。つまりこれが校閲者と「書くこと」の関係その2、なわけです。

あんまり説明がないほうが良い場合もあるし、説明を意識的に多くした方が良い場合もある。結局、私のいつもの言い回しですが"媒体やジャンルによって大きく異なる"のです。ただ、その点に意識的になって、臨機応変に対応し、より良い校閲ゲラを作っていくということ。これは、ベテランでも新人でも、どんな媒体でも、みな同じように取り組まねばならないことだと思いますし、だからこそ他の校閲者のゲラを目にする機会をつくることが重要である、と私は思います。

こうしたことを私が本格的に考えるようになったきっかけは、7年ほど前、ある雑誌の校閲を担当していたときのことです。
別の媒体から異動してきた編集者Dさんがよく、進行係(このケースでは簡単に言うと校閲疑問のまとめ役)だった私の席にいらして、「この疑問はどういう意味ですか?」と訊いてきました。編集部と校閲室の間には長い渡り廊下があるのですが、途中から「あ、これはDさんが訊きにくるな…!」と背後から気配を感じるようになったくらいでしたし、「あの疑問のことだな…」とまで察知できる特殊能力さえ身につきました(いらない)。
別に私は、Dさんのことを悪く言っているのではありません。むしろとても感謝しています。なぜなら、「分かりやすく疑問を書くことの大切さ」、そして「編集者が一読してわからないような疑問は基本的に出さないこと」を学ばせていただけたからです(後者については状況にもよります。あくまで、小説で、スピードの求められる月刊誌、ということで想像してみてください)。
因みに、前述した"まとめ役"は私一人でしたから、私が全く校閲していないゲラについても私がまとめねばならない場面も多かったのですが、上記の2つの指針はそういう場合、特に意識することでした。
そもそも"担当している編集者が理解できない疑問"というのはどういう疑問でしょうか。もしかしたら編集者の理解力が低い、というケースもあるかもしれませんが(爆)、Dさんはそうではありませんでした(というか、そんな編集者は実際にはほとんどいません)。むしろ、「疑問の出し方が分かりにくい」もしくは「出す必要のない疑問である」可能性があるのです。
あえて煙に巻いたような校閲疑問の書き方が有効な場合も、ゼロではないかもしれません。疑問の説明で、専門用語を噛み砕いてただ分かりやすいだけの書き方ばかりをしていると冗長になりますし、ある程度の"前提""共通理解"をすっ飛ばすことも必要です。
しかし当然、編集者は校閲者の疑問を消したり、書き直したりして著者に渡すことがありますよね。つまり、編集者に理解してもらえなければ著者に届かない、つまり疑問を出す意味すらない、と言えてしまうのです。余計な人的、時間的コストが増えるだけですから。最初に書いたような"編集者が介在しないゲラ"の場合なおさらシビアですよね。ある意味この状況では、編集的な仕事を兼務していると言えるかもしれません。
編集者が、疑問の意味を校閲者に訊きにくる。これは勿論日常的にあることですし、コミュニケーション、仕事の一環として、あってはいけないことでもありません。しかし、校閲者側の「意味が伝わるゲラを作る」努力も必要だと思うのです。
校閲者は、文字として書くこともそうでないことも、ゲラ上に仕事のほぼすべてを表現しなければなりません。相手(編集者や著者)に伝わっていない、ということは、自分(校閲者)の書き方に問題があったのかもしれない、と内省的になることも大事かと考えています。

…いずれにしろ「私が今まで関わってきた媒体(書籍、雑誌)の中での、私の意見」であることをご理解ください。こういったことが関係ない媒体やジャンルもあると思います。いずれにしろ、校閲者は日々、"説明"の仕方で迷い、色々と思いを巡らしているのです。その一端でも伝われば、と思い、ここまで書いてみました。

まとめます。
①代案の出し方 ②疑問の簡潔な説明
と概観してきましたが、校閲者は(というか、今の私は)「読む」だけでなく「書く」作業も日々けっこう行なっている。
前回と今回の記事を書いていて、私自身もその事実に驚き、自分の仕事をかえりみるきっかけにもなりました。

次回は、いつになるかわかりませんが、編集者の介在しないゲラ(社内原稿)について投稿しようと思います。たぶん。
長文をお読みいただき、ありがとうございます。

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