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都市計画を妄想するという鍛錬は旅に何をもたらすのか。
ベトナム・ハノイ大教会 聖ジョセフ教会
厳密には参加したと言い切れないが生まれてはじめてキリスト教のミサに参加したのはベトナムのハノイだった。
日曜の夕方18時からハノイの中心地にある聖ジョセフ教会には近隣の信者が集まっていた。
彼らに混ざって僕は教会の最後方に立っていた。
テレビで聞いた讃美歌の音。
資料映像でしか知らなかったその光景の傍観者としてアトラクションを見ているような気分だった。
この時はまだ厳密に言ってミサの参加者ではなかったと思うのには理由がある。
旅の半ば、ユーラシアの端が見えはじめた頃に「真の意味で参加者となったのではないか」という想いにかられる出来事に巡り合う。
その体験と比べると僕はまだまだキリスト教への理解を持たないただの傍聴者だったと感じるからだ。
ミサを終え、僕らは教会の前に立つ。
「やっぱり東向いてるよな。」
教会の入り口は東を向いている。
この日、聖ジョセフ教会の入り口の方角を確かめるために僕はこの場所に来ていた。
カトリック教においてカテドラルと言われる大教会では建築法に一定のルールがある。
入り口は西に、教会で礼拝対象の十字架やイエスキリストの像のあるアプスという空間は東に向かう。
日本の仏教に例えるならお寺の入り口たる山門は必ず境内の真西側にし、中心的礼拝対象の本尊は必ず真東の位置に安置するということである。
そして東西の点と点を結んだ線上にメインの通路を設け、南北からも導線を配し通路が交差するように作られる。
東西の空間は長くとられ身廊といい、南北の空間は短くとられて翼廊という。
身廊と翼廊が組み合わさって建物自体が上から見ると十字架になる。
これがカトリック教会の基本的な建築プランだ。
つまりイエスキリストに向かって通路に立つと必ず正面は東に背中は西に、右は北に左は南になる。
カトリック圏の街を歩いていて方角に迷ったなら教会を探せばいい。
方角を正す事ができる。
ただし、この建築プランに基づいた設計の場合に限る。
聖ジョセフ教会では建築プランが真逆になっている。
「東西が逆を向いてるのはエルサレムの方角が西洋と違うからか???」
「なんでしょうね。」
ハノイにやってきたナオ君と僕には新しい仲間が1人加わっていた。
彼は僕らと同じバックパッカーではない。
フランス統治下の建築の資料を求めてハノイにやってきた建築学を学ぶ大学院生、というか研究者だ。名はツバサ君という。
彼は僕に新しい知識への萌芽を授けてくれた。
というより彼が教えてくれた2冊の書籍がその芽であった。
その本の名は「都市計画の世界史/日端康雄」と「都市の論理/森田弘夫」という2冊である。
ハノイを去る直前、彼との別れ際のことだ。
「ねぇツバサ君。よかったら建築学の入門書っていうか読むといいおすすめの本とかってある?」
タイくらいからもっと旅のフィールドワーク的な部分をおもしろくするために行き先の予習になる電子書籍やネットの記事を読みながら旅を続けていた。
しかしせっかく建築学に詳しい彼に出会ったのでこれも何かの縁だと思い彼の知識の源泉に触れてみたくなったのだ。
「ならこの2冊ですよ」
彼がおすすめしてくれた2冊の本はある考え方に基づいて旅をするきっかけになる。
読み切った僕の感想を簡単に説明すると「都市の身体と精神について」を理解することのできる組み合わせだと思う。
キリスト教、イスラム教の都市プラン。
日本や中国の格子型都市の考え方。
都市の起こる背景や発展の歴史。
本を一気に読んでしまったあとネットの記事を探してみたり、これまで着目しなかった博物館での展示品にも目を向けるようになっていく。
段々と新しい知識と元々備えていた情報が結びつき次第に形を成していことになる。
キリスト教もイスラム教も都市計画の中心にあるのは教会とモスクである。
礼拝施設あっての街でそれに合わせて商業区や居住区が整備される。
では礼拝所以外のエリア、商業区や居住区にはどこにでも当てはまるパターンがあるだろうか?
本の中でも記載があるがイスラムの住居は戒律の関係もあって窓が街路に面していないことが多い。これは中の様子や家族内の女性を外部に晒さないための配慮だ。
でもイスラムの街の中にもたまにこのプランとは違う区画がある場合がある。
たいていは元・ユダヤ人街だったりする。
カテドラと同じようにモスクにも方角の決まりはある。
イスラム教のモスクは必ずメッカの方角に向かってお祈りをするのでモスクの正面はメッカの方角になる。
ならイスラム圏では太陽の軌道とモスクの向きで方位や位置が特定できないか?
博物館で見る昔のシルクロードの地図からもっとわかることがあるのではないか。
現代と違って古代の流通網は土木工事の関係上自然の緩やかな場所や川沿い、簡単に道になるところを使うのではないか。
古代の道が通っていないという事はそこが往来に適さないということになるのではないか。
では現代と古代ではどんな変化が起きているか。
農耕特産品は何か。天候や河川の形はどうなっているか。
産業形態は何か。人口動向や政治体系はどうなっているか。
次第、次第に博物館や予習で取集する情報の種類は増えていった。
博物館に行くたびに昔の都市の地図や地形の地図に目を向け写真に収め、実際の都市や風景と比較する。
この地形ならどんな場所に住居を作るか。
地図の空白には何があるのか。
自分ならどんな街を作るか。
新しい街を訪れる時は観光をする傍ら、事前に頭に描いた仮説を検証しながら街歩きを進めるようになっていく。
そうした考察の繰り返しと情報収集はいつしか街中でほとんど地図を使わずに旅をすることができるような変化をもたらす。
知らない街の探索にも建築学的な視点とその他の知識を複合して攻略できるというアプローチに至ったていたのだ。
例えばモロッコのフェズでのことだ。
この街は「タンネリ」という革加工場が有名な街で世界中からその光景を見に観光客が集まる。
ただし、街は『迷宮都市』と言われるほど入り組んだ作りになっていて大抵の旅人は加工場にたどり着く前に迷子になる。
しかも迷子になった旅人を加工場や宿まで案内してやると言って近づいてきた現地人に変な店に連れて行かれただの、案内料を請求されただの、嫌な噂が絶えない。
僕も例に漏れず『迷宮都市』に足を踏み入れる。『迷宮都市』という響きには不思議な魅力がある。それには抗えない。
だが実は僕は「タンネリ」を見に行かなかった。
ネットに誰かが撮った写真が溢れているし、資料も見たことがある。
仕事で日本の加工場になら行ったことがあったのでそれほど興味はなかったからだ。
それよりも迷宮都市を攻略するということに僕は魅了されていた。
本で読んでいた建築プランや自分の持てる知識や旅で得ていた経験をもとに頭の中に想像した地図を使って自力で加工場たどり着き、迷宮の中を自由に歩き回るというゲームを楽しみたかった。
だからフェズにたどり着いた時には僕だけのフェズの地図が頭の中に存在していた。
まず書籍の中にも書かれているがフェズの街はフェズ川を挟んだ谷に作られ、すり鉢状の構造になっている。
まずポイントは「革加工」という文化への理解、「谷」と「川」という地形への理解から紐解いていける。
古今東西、革の加工・舐めしには必ず大量の水が必要になる。日本でも大昔から革の加工場は十分な水量が取れる河川の近くと決まっいる。
これは仕事で日本の加工場を訪ねたおかげで元々持っていた知識だ。
だからフェズにも河川があるはずだと思っていた。
しかも綺麗な水がいるので上流に近いところで取水しなくてはいけない。都市の廃水が混ざるような場所には近くないはずだ。
ここまでが現地に着くまでにまず想像できていた。
マップで調べてみるとおそらくその通りになっている。
次に僕は街の入り口、ブー・ジュルード門の近くに宿を押さえることにした。
作ったものを運び出す場所がここだと踏んだからだ。つまり流通の出発点だ。
イスラム圏の古代から続く運送動力はラクダだ。
この背景を考えるならたくさんのラクダを都市の内部に入れるはずがない。
都市にラクダを入れて運ぶよりラクダの溜まり場まで人力か溜まり場までの専門のラクダに運ばせる。その道中で加工をして出荷というのが効率的だと想像していた。
だから出来上がった革の加工場がタンネリと門までの間にあって、門の近くはバザールになっているのではないかという想像が到着までの予想だ。
ではなぜいくつかある出口の中からブー・ジュルード門を選んだか。
少しズルをしているがマップアプリ上でフェズの中心のモスクに向かって門から真っ直ぐ線が繋がっていたからだ。
おそらくこれが目抜き通りになっていると思われた。
イスラムの都市プランの中心は「大モスク」である。都市はまず集団礼拝できるモスクあっての都市なのだ。
門とモスクとを結ぶ線を中心にして街は発展し、次第に増殖していったのではないかというのが僕の仮説だった。
あとは一つ「谷」になっているということが迷子にならないポイントだと考えていた。
谷になっているということは街が勾配を持っていることになる。
だから街から出るのなら坂道を登ることを心がければいい。
いずれ街の外か城壁にたどり着く。
反対にモスクやフェズ川に出るのなら街を降ればいい。
門の近くに宿を置いたのはこれが理由だ。
登り続ければ門に着く可能性が高い。
建物や通りの風景に頼って歩くと迷ってしまうが勾配は簡単に見分けがつく。
実際目抜き通りは門からすぐのバザールを抜けるとフェズ川に向かって降っていた。
これが僕のフェズ攻略プランだったが。
まぁ実際は観察眼が伸びすぎたのか、風景や路地の形をすぐに覚えてしまい迷うことなく歩き回っていたので少し残念な方法になった。
こうした知識や経験を複合した技術をゲーム的に紹介するなら。
【地図制作】(マッピング)のスキルと言えると思う。
旅を続ける中で次第に磨かれ、獲得したスキルだ。
ハノイを抜け、中国に入った僕は古都・西安に至りシルクロードを西進する旅に入る。
ずっと陸路で西の果てコンスタンチノープル、つまりイスタンブールに向かって進んでいく。
さまざまな文化圏や民族の営みを抜け、イスラム教の都市、オーソドックスの都市、カトリックの都市を感受しながら繰り返される想像上の都市の仮説を手に実際に歩き回る。
こうして蓄積された経験がスキルポイントとなりスキル【地図制作】が僕のスキルボードの上に現れたのだ。
そのことに気がついたのはスペインにいた時だった。
僕はとあるスペインの地方都市に滞在していた。
宿は旧市街、その街一番の大聖堂の近くにあった。
キリスト教圏でもイスラム教圏と同じように大聖堂というものは街の中心になる。
こういう場所に宿を置くと観光や移動は非常にやり易い。
ただ一方で物価が高くなかなか庶民的な価格の商店やレストランがない。
出会ったあるヴェネチア人は「もうヴェネチアはヴェネチア人の住めないヴェネチアになってしまった」と嘆いていた。
過剰な観光地化で物価が上がりすぎてしまい現地人が普通の暮らしができないほどになっているのだ。
安いものを見つけた時に買っておいたハムとチーズの塊をナイフで切り、バケットに挟んで食べるのがこういう困った時の食事法だったが、そのハムもチーズも切れかけていた。
「近くの商店はどこも高い!絶対旅人の足元見てるよ。」
買い出しに行っていた仲間がボヤきながら帰ってきた。
「ねぇどこに安いスーパーあるんだろうね?」
「じゃあ、庶民的なスーパー行ってみる?」
次の街まで食料が持つかも分かんらない。そろそろ自分も備蓄が必要だ。
「行くってどこにあるの?Googleマップとか見てもよくわからないかったじゃん。」
「城に上がってみよう。そうすれば多分わかると思うから。」
街の中心の背後には小高い山があってその頂上に城跡があった。
怪訝そうにする仲間を連れて僕らは背後にある城跡に登っていく。
「これで本当にわかるの?」
「見てみて。山の上にお城があって、城下にまず今僕らのいる宿と大聖堂があるでしょ。」
僕らは城跡の展望のいい場所で街を見下ろした。
「で。そこがまず都市計画の中心になったと思う。そしてこの街は丘の上に砦を作って川と向こうに築いた城壁を盾にしてあっちからの敵の侵入に対して街を作ったはずなんだ。」
実際に川沿いに昔の城壁跡がある。
「だから古い道は必ずあの教会に向かうようにできているはずだから上から見て教会に向かう道がないエリアがそれとは違う都市プランで作った場所じゃいないかと思うんだ。」
上から見ると城から見て南西の方角に区画が整理されていて尚且つ高層の建物が多いエリアがある。
「きっとあっちがここから一番近い新市街じゃないかな。あの高層が新しいマンションとか公団の建物みたいなのだと思う。」
まぁこれはマップソフトを見てもわかるのだけれどもこれも一つにクエストだから実際に足を運ぶと面白さが増すと思ってここまで登ってきた。
新しい街を作り、移住してもらうためにはその土地でもちゃんと生活できることが確認できないと人はやってこない。
居住区は一定の区画で整理され、スーパーや各種商店、医療機関、行政機関、教育機関がまとまっているのが理想だ。
この考え方は古代ギリシャのアクロポリスから現代のニュータウン開発に至るまで変わっていないと思う。
あのヴェネチア人がいうには今は元・ヴェネチア住民用の新都市がヴェネチアの近くにあるらしい。
居住スペースだけでは生存は保障されない。
衣食住すべて伴って初めて生存は保障される。
実際に新市街には地図にないスーパーや庶民的な商店があったので僕らは幸いにも旧市街より安く現地人価格で食事を得ることができた。
このように建築プランに視点を向けると旅の風景を少し変わる。
宗教、教会や城、王宮の位置関係は街の中心を教えてくれる。
気候、河川や山の位置といった地形は道の流れを決める。
農耕品目、産業形態は都市のバックグラウンドを想像させる。
さまざまな角度から持っている知識を複合してただ線の集まりに見える白紙の地図に人間の営みを妄想すると知らない街に血が通ってくる。
これがプレイする上での【地図制作】スキルだ。
僕はハノイでこのスキルに目覚めるきっかけを得ていた。
つまりこの2冊の本は【地図作成】のスキルを得るための「秘伝書」となったのだ。