うちなーぬ、しんかぬちゃーよ。
ツールドおきなわまで本当にあと少し。
チャンピオンレースに21回出場して、初参加今帰仁手前でちぎれて走り、体重80kg近くまで肥えながらツールド台湾と連戦で走り切れずタイムアウトでバスでゴールした者です。
沖縄選抜
私の記憶ではこれは、開催からしばらくして誕生した。
のちに沖縄で初めて世界選手権U23ロードレースに参加した高校生時代だろうか?その時に、沖縄県ジャージで走って参加していた。
正直、現在では薄れて消えそうな沖縄県躍進の第一歩であり今考えると大きな一歩だ。
それから、数年沖縄選抜が形になり当たり前になるも、さすがに走り切れる選手が少なく県外から選抜した選手で穴埋めをしながら継続。
そして、年齢層は上がるが沖縄県民だけのメンバーで挑む時もあった。
そこから、近代の沖縄選抜にいく。
新◯選手、私、当時のメンバーでついに走るコトになる。
新◯選手がついに、県勢でトップ10に食い込んだ。
そこから、このメンバーでアジアに進出。
ツールド台湾へ参加する。2回連続で参戦。
その後新◯選手がBSでツールドおきなわに参加しながら、沖縄選抜は存続。そして、その時代の選抜選手は国内の各チームへ飛びだった。
その中には、のちにオリンピアンになる内◯選手もいた。
国内各レースを走りながら、沖縄選抜になって帰ってきて走りと実力を披露していく。
ついに、新◯選手がトップ3表彰台へ。
さらに、新◯選手3位、私が7位と沖縄県勢初のトップ10に同一大会で入る。
ツールドおきなわにて、沖縄選抜の完走が当たり前になってきた時代の始まりだ。
その後、各選手は国内外のコンチネンタルチームへ加入し、各選手チーム参加になる。
そして、ついに県勢の優勝を新◯選手が!
下の世代が育たなかったのではなく、その下の世代は【競輪選手】へと進んでいく人も出てきた。
各選手が各所属チームで参加するにあたり選手がいなくなり一度不参加になる。
その次が、現代のチームおきなわでの復活になります。
その後も、ここから沖縄の若手が国内のチームへ飛び立っていった。
表彰台に数回も乗った内◯選手
県勢初の山岳賞を私が。
県勢初のU23賞を當◯選手、2回目比◯選手
この大会を通じて沖縄県勢の躍進がある。
長くなりましたけど、先輩達が何とか繋いで作り上げ全国で同等に戦える県になり、いつしか国内トップチームが気にする県になり、うちなーんちゅのサイクリストは喜んで、応援してきた今がある。
2024年の沖縄選抜の皆さん。
『アシストしても、ちぎれても、エースであっても、補給ミスで取れなくても、単独になっても、最後まで踏み続けて踏み続けて最後まで走るカッコいい姿をぜひ沖縄の皆さんに見せてください。』
仕事が終わった、遅れたからと笑顔で、手を振って応援に応えるのも素晴らしいコトです。
ですが、本当にカッコイイのはおきなわを背負って最後まで踏み続けること。
これに心動かされた下の世代がまた次を目指すのです。
応援のお返しは、走りとゴール後にお会いした時、SNSやブログでしっかりとしてください。
なによりも、どの順位よりも一人なろうと何位だろうと、タイムオーバーだろうと最後まで踏み続けること。
エース選手は、何があってもそれは自分の力です。
悔しくても良い、それは次の年に走りで返すコト。ゴール後に吠えてスッキリしても何もならない。
アシストも、アシストしたら終わりじゃない。最後まで残ればチャンスがくる。踏み続けていれば、来年につながる。自転車レースはそんなものです。
私が◯◯枠で走る事ができたら、おそらく真っ先に遅れて後ろからケツを叩いてレースという現場で教えられたけど、おそらくそれはもう出来ない。
ケツ叩き枠で走る事が出来ればいいけども。
怪我なく最後のトレーニング週を重ねて、調整してレースの時にその時の自分の最大限の力を発揮してください。
皆んなでけつ叩きしながら最後までゴールまでかけぬてください!