仏教に学ぶ生き方、考え方「生きづらさ」
「生きづらさ」
皆さん、「コミュ障」って知ってますか?コミュケーションが上手く取れずに「情報交換能力に障害がある」ことを「コミュ障」と言うそうです。
そういうふうに聞くと、当の私はコミュ障であるか、ないかなと考えてしまいますね。つまり自分にラベルやレッテルを貼ろうとしてしまいます。
私も例にもれず、そうしようとして、はっと気づきます。これってただ、そう思い込もうとしているだけではないかと。
もちろん人間である以上、苦手、得意はありますよね。他人と関わるのが苦手、または、大勢の人の前でも物怖じしないとか、性格的なものはあるわけです。
ちょっと引っ込み思案とか、人から馬鹿にされたりする経験があると、「自分は関わるのが下手なのかもしれない」と思い、さらに人との関わりを避けるようになります。
そうすると練習や経験が積めなければ、うまくなろうにもなれません。そうして、ますます関わりが苦手になっていく。そういう「負のスパイラル」に巻き込まれてしまうのです。
ならば、どうすればいいのか?ということですが、「何事も毎日の積み重ねである」という言葉を思い起こしていただき、実践していただければよろしいかと。
例えば、毎日、少しずつ朗読するとか、このnoteに書き綴ってみるとか。
そうすると、頭の中に文章を、作り出しアウトプットする回路と気力が徐々に出てくると思います。
では次に、身近な人に話してみる、聞き上手な親や近所のおじさん、おばさん、はたまた同僚など。
ただただ聴いてくれる人なら誰でもいいと思います。ここで意見をしたり、よりマウントしてくる人だと、また引っ込み思案になってしまうので、徐々に自分を育ててくれる人に心を開いていけばどうかと。
仏教的にいうと、皆が平等で皆が等しく救われていく存在なのです。つまり、この世の中の人間は、すべて「一切衆生」のカテゴリーでは平等であるわけです。
それを上手い、下手だとラベルやレッテルを貼り、差をつけてみているのも、凡夫(ぼんぶ)であり、煩悩だらけの人間であるわけです。
だからコミュ障などと言って自分をその枠にはめてしまわずに、苦手だろうが、どんどん話したり、表現していけはよいということになります。
ちなみにお釈迦様であっても、親鸞聖人であっても、嫌われたり、悪口を言われたりすることは多かったのです。
人は恐怖心のあまり、どうしても最初は疑ったり、相手を見下そうとする心理傾向があります。
嫌われても気にせず、伝えたいことを伝え続ける、この姿勢がやがて少しずつ実を結んでいくのだと思います。
☆今日の一句☆
コミュ障の
枠にハマる
我ならず
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