神も悪魔も言葉の端々に宿る
「神は細部に宿る」という名言があります。
日本人には、「勝負の神は細部に宿る」という、岡田武史さんの言葉のほうが、馴染みがあるかもしれません。
「神は細部に宿る」
「神は細部に宿る」とは、ドイツの名言です。
美術史家ヴァールブルクさん。
建築家ミース・ファン・デル・ローエさん。
検索すると、どちらも出てきますが、後者の方が多いような印象です。
「勝負の神は細部に宿る」
冒頭で触れた岡田武史さんはこう述べています。
神も悪魔も細部に宿る
大変高尚な素晴らしい話はここまでとします。
何にでも応用できる話で、私がとやかく述べてもしょうがありません。
最近の拙稿で言うなら、「読まないおじさん」が細部の細部に至るまで、他人への値切りを中心に喋っていたことが当てはまります。
神も悪魔も細部に宿るのです。
本が読めないと本なんか読まないの差
「本が読めない」と「本なんか読まない」には、微差や誤差ではない大差があります。
疲弊や疾患で「読めない」人は「本なんか」とは言わないものです。
読めるなら読みたい人ですからね。
「本なんか」という奴は、「読書の暇はない」と言いはしますが、大嘘です。
酒、ゲーム、動画視聴、そんなもんです。
「本よりも何々をするほうが良い」と言い放ち、自分の何々を肯定し、他人の読書を否定すると、自己正当化が出来るからです。
そんな奴は「いやあ、中々読めていなくて」とは言ってこない傾向があります。
自己愛性の権化なので「読まない自分」を含めて「肯定しか」出来ないからです。
自己愛性の人間には、自分の部分否定をすることさえも出来ないようなのです。
「読書なんか」と言う奴に「謝ったら死ぬ病」と呼ばれる奴が多いのは、そういう理屈であろうと私は推察します。
神も悪魔も言葉の端々に宿る
私見の限りでは、自己愛性の人間には共通して、全く同じ特徴があるように見受けられます。
自分の値上げをせず、他人を値切る、です。
自分の値上げは「出来ない」でなく「しない」。
値上げする必要があるとさえ思えていない。
自己愛性で、自分を高値だと思い込みたいから。
他人の値切りはありとあらゆる場面でする。
値切ったつもりはないとまで本心で思えている。
自己愛性で、他人を安値だと思い込みたいから。
安値のはずの人間が高値であるはずがないという不協和によって、他人を値切る。
自己愛性によって、他人を値切らないことには、自己を保てない状態に陥っているから。
ゆえに恐ろしい。
私はそんな奴が本当に恐ろしい。
言葉を雑に扱っていて、そして、言葉の端々に、どこか自己愛性の傾向がある奴は。
本当に恐ろしい。恐怖でしかない。
神も悪魔も細部に宿るのです。
言葉の端々という細部においてもそうなんです。
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