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神も悪魔も言葉の端々に宿る

「神は細部に宿る」という名言があります。

日本人には、「勝負の神は細部に宿る」という、岡田武史さんの言葉のほうが、馴染みがあるかもしれません。

「神は細部に宿る」

「神は細部に宿る」とは、ドイツの名言です。

 「神は細部に宿る(Der liebe Gott steckt im Detail)」という言葉がある。19世紀のドイツの美術史家ヴァールブルク,あるいは20世紀初頭の建築家ミース・ファン・デル・ローエが言ったとされるこの言葉は,いろいろな意味で示唆に富んでおり,さらに驚くべきことに,主語を「悪魔」に変えてもほぼ同じ内容を示すというほどになかなか奥深い。以来,現在に至るまで,学者,芸術家,実業家,果ては政治家など多くの人々によって,また多様な場面においてこの言葉は用いられている。

上記リンク(山田啓文さんのもの)より筆者引用。

美術史家ヴァールブルクさん。
建築家ミース・ファン・デル・ローエさん。
検索すると、どちらも出てきますが、後者の方が多いような印象です。

「勝負の神は細部に宿る」

冒頭で触れた岡田武史さんはこう述べています。

勝敗についてメディアや評論家は決まって戦術論、システム論ばかり言います。もちろん、それも大事ですが、勝負を分けるのは8割、9割が私たちの意識ですよ。
「ミスしても大丈夫」とか「俺一人くらいいいだろう」とか、そういう選手が一人でもいたら試合に負けるんです。 
2010年のW杯の前、日本代表選手は敵地での試合で一勝もしていませんでした。その時、僕は録画した試合の様子を編集して選手たちに見せました。
すると、一人の選手が大丈夫と楽観視して蹴るのに失敗したとか。すべてがそういうミスなんです。戦術、システムの問題は一つもない。僕はこういうことにうるさくて、「君らが手を抜いて運を掴み損ねて、W杯で負けたらどうするんだ」と常に檄を飛ばしました。
神は細部に宿るというのは、本当にそのとおりなんですね。

上記リンクより筆者引用。
原文は月刊『致知』2015年9月号。

神も悪魔も細部に宿る

大変高尚な素晴らしい話はここまでとします。

何にでも応用できる話で、私がとやかく述べてもしょうがありません。

最近の拙稿で言うなら、「読まないおじさん」が細部の細部に至るまで、他人への値切りを中心に喋っていたことが当てはまります。

神も悪魔も細部に宿るのです。

本が読めないと本なんか読まないの差

「本が読めない」と「本なんか読まない」には、微差や誤差ではない大差があります。

疲弊や疾患で「読めない」人は「本なんか」とは言わないものです。
読めるなら読みたい人ですからね。

「本なんか」という奴は、「読書の暇はない」と言いはしますが、大嘘です。
酒、ゲーム、動画視聴、そんなもんです。

「本よりも何々をするほうが良い」と言い放ち、自分の何々を肯定し、他人の読書を否定すると、自己正当化が出来るからです。

そんな奴は「いやあ、中々読めていなくて」とは言ってこない傾向があります。
自己愛性の権化なので「読まない自分」を含めて「肯定しか」出来ないからです。

自己愛性の人間には、自分の部分否定をすることさえも出来ないようなのです。

「読書なんか」と言う奴に「謝ったら死ぬ病」と呼ばれる奴が多いのは、そういう理屈であろうと私は推察します。

神も悪魔も言葉の端々に宿る

私見の限りでは、自己愛性の人間には共通して、全く同じ特徴があるように見受けられます。

自分の値上げをせず、他人を値切る、です。

自分の値上げは「出来ない」でなく「しない」。
値上げする必要があるとさえ思えていない。
自己愛性で、自分を高値だと思い込みたいから。

他人の値切りはありとあらゆる場面でする。
値切ったつもりはないとまで本心で思えている。
自己愛性で、他人を安値だと思い込みたいから。

安値のはずの人間が高値であるはずがないという不協和によって、他人を値切る。
自己愛性によって、他人を値切らないことには、自己を保てない状態に陥っているから。

ゆえに恐ろしい。
私はそんな奴が本当に恐ろしい。

言葉を雑に扱っていて、そして、言葉の端々に、どこか自己愛性の傾向がある奴は。
本当に恐ろしい。恐怖でしかない。

神も悪魔も細部に宿るのです。
言葉の端々という細部においてもそうなんです。

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