見出し画像

車社会の無書店自治体の根本的なところ

前々回、前回と、車社会の無書店自治体について述べてきました。
前々回は、恐ろしさについて。
前回は、取り繕いについて。
今回は、根本的なところについて述べます。

車社会の無書店自治体は何故無書店か

無書店自治体は、事なかれの縦割り行政によって有識でない有識者の接待をします。
根本的なところに立ち戻ることが出来ないから、そうなってしまうのです。

前回拙稿より筆者引用。

今回は根本的なところに深入りしていきます。

車社会の無書店自治体は何故無書店か。

元々書店が存在せず、今現在も無い場合。
昔は書店があったが、閉店した場合。

どちらの場合でも理由は簡単です。
書店の採算が合わないからです。

元々書店が無い場合

元々書店が無い場合には、問題がありません。
(※但し前々回で述べた中高生には問題です。)

近隣の市の中心部にある大型店舗で買う文化が、昔からあったし、今でもあるということを示しているからです。

大型店舗と競合してまで書店を出す必要がない、或いは、競合してしまったなら採算が取れない、そういう状態であるということです。

書店(販売者)からすれば、無理矢理出店する利点は無いため、今までもこれからも出店しません。

読者(消費者)からしても、近隣の市の大型店舗まで行き、買って帰る生活が続くだけです。
今までもこれからも「車に乗れれば」とは言え、問題がないというわけです。

昔は書店があったが、閉店した場合

問題は、昔は書店があったが、閉店した場合。
これは大きな問題です。

閉店後にどこで買えば良いのか、という問題は、実は大した問題ではありません。
元々書店が無い場合のように、近隣の市で買えば良いからです。
(※但し前々回で述べた中高生には問題です。)

最大の問題は、かつては書店の採算が取れていたけれども、現在では書店の採算が取れなくなったということです。

これが、これこそが、最大の問題です。
もう書店が成り立たない自治体になってしまったことを如実に示しているからです。

どれだけ惜しまれようが。
どれだけ思い出の店であろうが。

書店の採算が成り立たない程度の読者人口では、書店は閉店するしかないのです。

無書店自治体の縦割り行政

無書店自治体の縦割り行政は、そこが問題です。

無書店自治体の問題は確かに問題です。
中高生の自由を奪うからです。
(前々回で詳述しています。)
けれども本質はそこではないのです。

かつては書店の採算が成り立つぐらい読者人口を抱えていた自治体が、もはや変質していること。
読者人口の変質こそが、無書店の本質なんです。

大人の読書離れの問題はあります。
大人の買い支え不足に直結するからです。

けれども最大の問題は、誤魔化していること。
読者人口の変質を直視しないことです。

図書館の振興ではどうにもなりません。
通販が増えたからだけではありません。

何故、読者人口の変質に合わせていかないのか。
私はそこに行政の縦割りの取り繕いを見ます。

行政の縦割りの取り繕い

かつては読者人口だった人々が、多忙化によって読む時間がなくなったなら、図書館の振興よりも多忙化の解消こそを論じるはずです。

かつては読書人口だった人々が、高齢化によって(老眼や体力低下などで)もう読めなくなったなら、書店の閉店は何をしようと不可避です。

行政は、何故かそこには触れないのです。
書店振興は経産省です。厚労省はしていません。
そこが縦割り行政で、取り繕いになっています。

もっと言うなら、閉店後はどうでしょうか。
近隣の市の書店へのアクセシビリティを改善した市町村がどれだけありますか。

多忙化で本が読めない、という人間が多い中で、本を買いに行くのにさえ渋滞があり得ます。
国交省は一体何をしていたのでしょうか。

また、無書店自治体の中高生はどうですか。
有識でない有識者が「バス等」と誤魔化しても、誤魔化しきれない状態です。
(田舎のバスは都会の終電の比ではありません。)
「家族等」と誤魔化しの上塗りで取り繕っても、どうしようもない話です。

多忙化で本が読めない人間が多くて困っているというのに、往復時間を捻出させようとするのは、論外にも程があるでしょう。

有識でない有識者は何を考えていますか。
思いつき、誤魔化し、取り繕い。
それで書店がどうにかなるわけがないのです。

いいなと思ったら応援しよう!