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「女帝 小池百合子」を読んで

先日、いつものように朝刊を手にすると1面最下段の広告欄に「女帝 小池百合子」という題名の書籍が、口角を軽く上げつつも目の奥は笑っていない、微妙な表情をした小池百合子の顔写真の表紙とともに載っていた。「女帝」と付けるからには、さすがに小池自著の自叙伝ではなく、暴露本でも出たのかと思い、著者を見てみると「石井妙子」とある。その著者名は私にとって少し特別なものだった。

 石井氏のデビュー作である「おそめ」において、私の叔母が氏の訪問で取材を受け、作中に登場させて頂いていたからだ。そういうこともあり私は「おそめ」を単行本と文庫本で二冊所有している。

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(下左端が叔母。右端が「おそめ」こと上羽秀)

 今は亡き叔母が取材された当時、真摯に話を聞いてくれるので、当時のことを思い出し、思わず涙してしまった、と語っていたが、石井氏はそれほど話を聞き出すことが巧みな方なのだろうと思ったものだった。

 古き良き映画界や京都、東京の夜の世界を描いたこの作品は郷愁を覚えるような良書だ。

 そのような経緯もあり、本書はただの安っぽい暴露本ではないと確信し、早速電子書籍で購入した。

 著者は記事の依頼を受けて資料を読み始めるとすぐに、小池の著作間の矛盾の多さに疑問を持つ。代表されるのが「カイロ大学を首席で卒業」という学歴詐称疑惑だ。それでありながら平成を代表するであろう女性としての彼女は何者なのかと、著者は探求を始める。

 小池の生い立ちが語られる。

 誰しも幼少期の環境、特に家庭環境はその後の人格形成に多大な影響を与えることは認めるだろう。特に個性的な人物、濃度、癖の強い人間の影響は、侵食されるように本人の性格にも反映してくる。それは前出の「おそめ」の主人公である上羽秀も然り。個性的な父親に似ていると評されていた。

 小池の父、勇二郎は病的とも言えるほどの虚言癖を持つ。家系的にも見栄を張ることを良しとする。生まれながらにある頬のアザ。対象的な従妹との差別。そのような環境で形成されたであろう、人の顔色をうかがい、人を値踏みし、選別し、小学生の頃から教師に取り入るのがうまく、現在に至るまで権力者を手懐けるかのごとく近づく術を備えた性格の基礎がそこにみえる。

 ちょうどウェブサイトでこんな記事を目にした。これも縁なのか、この記事の執筆者、加藤諦三氏(早稲田大学名誉教授、ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)の著作は若い頃よく拝読させて頂いた。題名は

「他人を貶めることしかできない人」に共通する“親との関係”

今いる世界をこれほどまでにたかめ、それ以外の世界をこれほどまでにけなすのは、自分の無価値感に打ち克つためであったと思われる。人間は心の底で本当に信じていないことを信じようとすると、言動が大袈裟になるのではないだろうか。
では、なぜ心の底でウソと思いつつ、それを信じようとするのか。それは劣等感等からであろう。他人に対する対抗意識である。心の底の底で信じていることを、意識のうえでも認めることは、傷ついた自我にとっては難しい。
それは自分の負けを認めることになるからである。心の底では自分の言っていること、やっていることがウソであると知っている。しかし、それをウソと認めてしまえば、他人に対して自分の偉大さを認めさせることができなくなる。

まさに小池百合子ではないか。

 そしてカイロ大学留学。今回著者がこの本の上梓を決めた動機の一つとなる、小池と共にカイロ時代を過ごし、自分の身にも危険が及ぶかもしれないという不安の中、意を決してそのことを語ってくれた、早川玲子氏(仮名)の証言に基づく話へと続く。

 ここでその後の小池が作り上げる「物語」が詰まったパンドラの箱の鍵を小池は手に入れた。それが「カイロ大学を首席で卒業」というキーワードだ。

 それからの彼女は、ここぞという時に鍵を開け、箱の中から自分が作った「物語」を取り出し、イメージを作り上げる。

 そう、それからの彼女にとって大事なのは「イメージ」なのだ。主義主張はころころと変わっても、これだけは揺るがない。ファッション、カタカナ語、巻き舌で話す英語、曖昧な言動。それらを基本方針にしたような選挙活動と政治活動、そして人生。

 その後の本書はそんな小池の処世術を駆使した、冷酷非情で、ときに虫酸が走るような言動をしながらも、時流さえ味方につけ、政界の趨勢を背景に、より強い権力を手に入れるため、必死で蜘蛛の糸に掴まり続けてきた人物が、糸を吐き出す蜘蛛自体になろうとするかの展開を繰り広げる。読者である私は、夢中になり、怖いもの見たさの感覚と共に本書に惹き込まれていった。

 しかしなぜ虫酸が走るような、人によってはこの本から恐怖さえ覚えてしまうのだろうと考えてみると、それこそ私たち自身が小池百合子のイメージに惑わされていたという証左なのだろう。本書で知る小池の本性とイメージのギャップに恐怖する。小池のイメージに搦め取られた私たちは、彼女に注目し、支持し、選挙では当選させてきた。

 そんな彼女の本性を見抜けなかった私たちにも責任はある。だが私たちが判断する際の参考媒体とする報道、マスコミにも責任があるのではないか。小池はカイロ時代から報道関係者と交流があり、その人脈も使い、のし上がってきた。中には小池の本性を見抜き、離れていった者もいるが、小池の「物語」に心酔し、鵜呑みにして国民へ垂れ流し、様々な矛盾も疑惑も晴らさぬまま現在に至らしめた責任は重い。

 しかしどうして、そんな深い思想や知識、それらに基く政策もない小池が都知事まで上り詰めることが出来きたのか。

 それはマスコミもさることながら、現在の私たち国民、そして政治家に共通する、稚拙なイメージにも翻弄されてしまうような「浅薄さ」が要因ではないかと思う。

 情報は出入力のソースが増えて氾濫し、提供する側もスピードを重視するがために、安易に垂れ流し、国民はそれを安易に受け取る。政治家もそんな国民に受けるように、政治をワイドショー化し表層のイメージを売る。

それは小池だけではなく、現在の国政においても同様だろう。国民を馬鹿にして、時間が経てば国民は忘れてしまうと思っている現政権。見え透くような虚言、虚飾、隠蔽、忖度。今回のコロナ問題においても政府の浅薄な政策が問題視されている。

 コロナと言えば、そのコロナによってオリンピックの延期が決定された途端に、目立ちたがり屋で自己顕示欲の塊である小池はテレビに出始め、「ロックダウン」を発言し、連日テレビで会見、そして自分の出演するCM等で、小池を観ない日は無くなる。

 「女帝 小池百合子」は昨今の時流の中でなるべくしてなったのかもしれない。そしてそんな状況が私には全体主義の萌芽にさえ見えてくる。それとともに全体主義を思索したハンナ・アーレントの「複数性に耐え」「分かりやすさを疑え」というエッセンスを思い出す。

 小池は衆議院選挙において、希望の党からの民進党員の「排除」という言葉で複数性を否定し、イメージという分かりやすさで訴えてきたし、これからもそうすることだろう。それに対処するために私たちにできることは、そんな分かりやすさを疑うことだ。

 都知事の公約で彼女が掲げた「7つのゼロ」がある。待機児童ゼロ、満員電車ゼロ、残業ゼロ、都道電柱ゼロ、多摩格差ゼロ、介護離職ゼロ、ペット殺処分ゼロ。

分かりやすい。しかしひとつも成し遂げられてはいない。そう思っていたが、一つだけ成し遂げられている項目があることを、恥ずかしながら初めて本書で知った。それはペット殺処分ゼロだ。

公約とした七つのゼロの中で、唯一、彼女が達成したゼロは「ペット殺処分ゼロ」だけである。二〇一九年四月五日の定例記者会見では、わざわざ自ら「殺処分ゼロを一年早く(二〇一八年度に)達成した」と嬉しそうに報告した。動物を愛する人たちからは礼賛の声があがった。しかし、この「ゼロ」には、からくりがある。百五十匹近い犬猫を殺処分した上での「ゼロ」なのだ。老齢、病気持ち、障害のある犬猫は殺処分しても、殺処分とは見なさない、と環境省が方針を変更したからだ。だが、それは伏せて、彼女は「ゼロ」を主張したのだった。
石井 妙子. 女帝 小池百合子 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.5000-5005). Kindle 版.

 また私は虫唾が走った。

 このような出世術を使ったサクセスストーリーはフィクション、ノンフィクション問わず、似たようなものはあるかもしれない。が、しかし決定的に違うのは、現職の都知事であり、その権力は現在進行形だということだ。そして著者の知性に裏付けられた緻密な取材。カイロ大学の卒業証書と証明書に関しては、限りなく黒に近い証拠だが、もしこれが虚偽であると確証されたのならば、経歴詐称による公職選挙法違反の可能性もある。

 ちょうど一ヶ月後の7月5日に都知事選がある。現時点で小池はまだ出馬表明していない。ネット上では本書が躊躇させていると言われているくらい訴求力がある内容だ。是非都民の方にはこの本を読んで頂き投票の参考にしてもらいたい。

 叔母を取材し作中に載せて頂いた石井氏への謝意を表するとともに、小池が地元と称する東京10区の住民としての責任と悔恨からも本書をお薦めしたい。

#書評 #読書感想文 #石井妙子



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