【アーカイブ】トーク:合作俳句・合作楽譜——音楽とことばをめぐる実験
<話し手>
上田假奈代:詩人・NPO法人こえとことばとこころの部屋代表
常盤成紀:アミーキティア管弦楽団主宰
小川歩人:哲学研究者・かまぷ〜(釜ヶ崎芸術大学サポートメンバー)
【小川】 このワークショップ「合作俳句×合作楽譜」は、2017年から釜ヶ崎芸術大学(釜芸)とアミーキティア管弦楽団(アミオケ)の取り組みとして続いている「音楽とことばの庭」というコンサート・ワークショップにおける5年目の企画として、昨年の12月に実施されたものです。今日の前半では、会場にお集まりの皆さんに実際にこの「合作俳句×合作楽譜」を体験してもらいましたが、後半ではそのワークショップの意味について振り返ろうというのが趣旨です。
【上田】 「合作俳句」については、2016年末くらいに私が唐突にこの手法を思いついてしまい、その場にいる人たちに「ちょっとやってみるから」といって紙を配って、五・七・五をみんなで作ってみたのが始まりです。
私は詩人なので、詩作の手法を日々いろいろと考えては試しています。その中のひとつに、人にインタビューをして得られた言葉から詩を作る、というのがあるのですが、世間には、ある程度まとまった分量の言葉を紡ぐのがしんどいという方がおられます。でも、五・七・五だったら出来そう。「こんにちは」でも五なので、これやったら誰でも出来るんじゃないかしら、と思って始めてみました。
五・七・五を3人で作るこのワークショップでは、「言葉がこう来た時にこんな返し方をすると、なんか分からないけれど愉快な気持ちになる」とか、「言葉がこうやって連なることで、なんか(文中の言葉同士の)関係が変わるよね」とか、そういうことが面白くて、ある時は「脳トレ」って言ってみたり、コミュニケーションの練習って言ってみたりしながら、この合作俳句を継続的に取り組んできたんですね。
そして、アミオケの皆さんは、年に1回ココルームの中庭でコンサートを開きながら、この地域(釜ヶ崎)のことに思いをはせながら選曲をしてくれたり、おじさんたちと一緒に歌うという機会を作ってくれたりする中で、2021年、この合作俳句に着目されたんですね。そこで提案されたのが、「この合作俳句を楽譜に出来ないか」という話でした。そこから常盤さんや歩人君と話をしながら、最初は「ペンで印をするか」とか言っていたのですが、「書くんじゃなくて色の丸シールを貼ることで、リズム感とか、景色が立ち上がるかもね」とかいう話になって、実際にシールを買って何回か試しながら、今日皆さんに体験してもらったような形になりました。私としてはまず、この合作俳句が楽譜になるということに驚きがあり、また、実際演奏するときにオーケストラの皆さんがどういう技巧・コツを見出していったかに、大変興味があります。
【常盤】 まず僕たちは、オーケストラとして、クラシック音楽、言いかえれば、学校で習うような五線譜上に設計された音楽を中心に演奏してきた人たちです。なので、おそらく他のどういうジャンルにもまして、楽譜のルールというものにものすごく引っ張られる。今回も、いざシールを貼って、果たしてこれを演奏者のみんながすんなり演奏してくれるだろうかと、やってみるまではちょっと不安でした。事前に何回か模擬で楽譜を作ってみた時のことですが、ト音記号を書くとか、シャープやフラットを書き込んでくれる人もいたんですけれども、今回それはなしにしました。実は、ト音記号を書くと、そのシールが何の音かが決まってしまうんです。それは面白くないなと思いました。
他方で、例えばこのワークショップでは音楽を専門としない一般の方にも参加してもらっているので、「これは『こんにちは』だから『ドレミソラ』だな」とかいってシールを貼るかというと、おそらくほとんどの人はそうしない。なので、声掛けとしては、「とにかくイメージでシールを貼っていってください。それが音/音楽になるのをみんなで楽しみましょう」なんていう、王道の作曲手順からしたら邪道どころか道ですらないようなシールの貼り方をしているわけですが、でも、いざ音になったときになぜか、いい感じに聴けてしまう。それがとても面白いところです。
演奏者としては、貼られているシールの色にインスピレーションを受けて強く吹いたり弱く吹いたりするし、シールとシールの間が空いているところを伸ばすのか止めるのか、どう表現するか、とかを考えます。小さいシールと大きいシールを重ねて貼る人もいるのですが、それをどう表現するかとかは結構面白い。つまり、貼られているシールの「表現」を、どう僕たちが受け取って、音として出していくか。このワークショップでは俳句の言葉を表現する楽譜、という設定になっているので、演奏者は楽譜を読む際に横に書かれた俳句も参照しています。この時演奏された音には、楽譜通りだったかどうかとはまた別次元の、音楽とことばのつながりが感じられます。とにかく、一見「すごい」楽譜でも、みんなが普通にいい感じに聴けてしまって、「なんか面白いね」「これもありだね」みたいになる。この現象をいったいどういう風に解釈すれば面白いのかということを、今日は振り返っていきたいと思っています。
【小川】 例えば、「今からみんなで詩を作りましょう」でもそうですが、私たちが一緒に何か表現を作り出すときに、何が難しいかと言えば、それを始めることが難しい。何をとっかかりとして作業を始めればいいかが、実は難しいのだと思います。釜ヶ崎芸術大学のワークショップで生み出された手法や方法は、様々な状況の人に向けて「表現の最小単位」を生み出すことに成功しているものが非常に多いと思うんですよね。
最初に少し触れられていた、インタビューをし合って、そこで出てきた言葉が詩になっていくという手法は「こたね」という名がついているのですが、その時に、長くしゃべれる人と、なかなかしゃべれない、言葉が出てこないっていう人がいます。けれども、五文字であればしゃべれる、とか、七文字であれば書ける、とかいうのは、何か表現を始めていくうえで、非常に重要なポイントだと思うのです。
では、これを音楽と出会わせるにはどうすればいいのか。その時の最小単位が「シールを貼る」ということです。このワークショップでシールは、まさしく言葉と音楽を媒介する役割を担わされています。楽器が分からなくても、楽譜が読めなくても、とりあえず始めることができる。そしてそれを演奏者が引き受けることができる。このように複数の状況にある人をつなぐ最小単位は何かということが、かなり面白い。
【常盤】 一緒に参加したうちのメンバーの中には、とまどいとか、不思議さをすごく感じている人もいて、やっぱりその戸惑いというのは、楽譜のルールとの緊張関係なんですね。すでに触れたように、このワークショップでは音楽に詳しくない人たちが多く参加していて、ソルフェージュや和声学を踏まえてシールを貼るような人はほとんどいない。なので、例えば俳句における最初の五文字が、「遊ぼうよ」とか「こんにちは」だった時にでも、それを音で表現した楽譜であると、それがきちんと成立しているということを何が担保しているのかということを、演奏者によってはある種不安になりながら演奏するところがありました。
【上田】 (会場に向けて)ここら辺のことは、音楽をしている人がいれば聞いてみたいんだけど。
【オーディエンス①】 やっぱり、常盤さんが言うように、クラシック音楽をやっている人間からしてみると、楽譜にはまずドレミファソラシドがあって、その音はどんな長さで、とか、そういう決められたものがあるんですけれど、この場合、「文章の意味を音で表現するのか」、それとも「詩のリズムを音で表現するのか」、いろんなチョイスがある中で、正しさがないんで、その正しさを自分で決めるのが一番こわいなって感情に結び付くんじゃないでしょうか。
【小川】 12月の本番でも、「これは楽譜なのか」みたいな話はやっぱりありましたし、「これを弾くことで、私たち[=オーケストラの人たち]は何を引き受けたことになるのか」といったことは、結構議論されていたように思います。ただ僕は、それはかなり面白いことだと思っているんです。合作俳句の話で言えば、「これは俳句じゃない」と怒る人もいるんですよね。つまり、季語もなければなんなら字数の縛りもない。一人でつくっているわけでもないし、なんかよく分からないもの。これを俳句というのか、と。とはいえ、そうした合作俳句のかたちも、連歌だとか、自由律俳句だとか、歌が踏まえる文化の展開の中で捉えられなくもないわけで、そういう解釈の幅をもった手法になっていると思います。
今回の「合作俳句×合作楽譜」も、おそらく現場では「これは何を弾いたらいいんだろうか」っていう問いが生まれる場になっている。何をどう選択して、リズムにフォーカスを当てるべきか、意味にフォーカスを当てるべきか、あるいは正確に五線譜にのっとったものを弾くのがよいのか、とか。問いがどんどん立ち上がり、人による解釈の違いだとか、違った規範だとかが混ざり合って、言葉が生まれ始める母体になっていることが、非常に面白いなあと思います。
【常盤】 これで本当にいいのかって感じてしまうのは、僕たちが、いろんな意味で「言語優位」で生きているからというのもあると思います。なおかつ、作曲法だとか和声だとかっていうのが特殊技能として社会的には位置づけられています。なので、五文字だったら始められるということと、シールだったら始められるということのハードルの低さというのは、実はちょっと質が違うんじゃないかとも思います。
例えばその、五文字だと、「美しい」「段ボール」とか書かれていて、多分それは形容詞、名詞、時には助詞が付く、あるいは、擬態語や擬音語が書かれていて、それはおそらく、言葉としてまったく読み取れないということは起こらないのではないか。他方で、シールが自由に貼られたときに、これが成立しているかどうなのかっていうのを、僕たちが自信を持つ根拠みたいなのがやっぱり乏しいわけですよね。でもその不安のようなものは、むしろ、僕たちにとっての自由な解釈の余地が、まだ楽譜の方には残されているということなのかもしれないとも思うわけです。
【小川】 「俳句が引き受けられる」のは、私たちが俳句を「読める」ことと結び付いている。これはその通りだと思います。五・七・五のリズムに慣れ親しんでいるということもあるでしょう。仮にむちゃくちゃな言葉が並んでいたとしても、そうした言葉を引き受け直すことが出来る土壌のようなものが、実は私たちのなかに刻まれているんだと思います。このことは違った言い方をすれば、ある意味で言葉の引き受け方が固まっているとも言える。そうした私たちのなかに刻まれた言葉のリズムの引き受け方と比べて、今回の五線譜の上にシールを並べていく作業は、はるかに自由度が高くなっていますから、そこで自由度のギャップみたいなものが存在しているかもしれません。
【常盤】 自由度が高い割に、もともとこの五線譜の上に曲を書くってことのルールはかなり厳格に存在しているっていうギャップがあるから、「これが曲なのか」というのは、その二つの意味において悩みが生じるわけです。ちなみに、この合作俳句が外国語で試されている現場もあると聞きましたが、どんな感じなのでしょうか。
【小川】 外国の方、日本語が分からない方にとって、この合作俳句は、私たちとはまた違った質感で経験されているんだろうと思います。そうした方々とのワークでは、通訳の方がいたり、五・七・五をその国の言葉のリズムに当てはめてみようとしたりしますから、俳句本来の五・七・五のリズムが支えているのとは違ったリズムで参加している人たちが存在しています。
そうした場面を考えると、合作俳句に「楽譜」を取り入れる今回の取り組みは、ある意味で「外国語との出会い」みたいなものと重ねて考えられるのではと思います。もしかしたら合作楽譜になったことで外国語話者の方が参加しやすく感じることもあるだろう、とも思うわけです。日本語で五文字や七文字を感じ取ることは難しいのかもしれないけれども、白玉の運動に翻訳されたものとしての五・七・五を受け取ることは、むしろ可能かもしれない。それはある種の拡張だと言えます。
【常盤】 拡張だし、別の規範を持っている世界と接続するポイントでもあるわけですね。そもそも音楽理論から言えば、極めていろんな仕方で規範に触れてしまっている手法です。でも、だからこそ、これは曲なのかとか、これはどう演奏したらいいのかとか、問いが、いやおうなしに惹起されてしまう、その中で何とかしてつなげようとか、形にしようとかする中に、表現の受け渡しみたいなのがある。
【オーディエンス①】 今日もあったみたいに、子どもが結構楽しそうにやっていて、大人の方が割と戸惑ったり、疑問を持ったりする。それはなぜかと考えた時に、学校教育を受ける中で、必ず正しさを求める、間違ってはいけないって思ってしまう癖が身についてしまっているんじゃないかと思いました。でもこういうクリエイティブなワークショップで求められているのは、ある意味、自分で正解を見つけていくような作業だと思うので、日本人の弱い部分をついてくるようなワークショップだなあと思って見ていました。
【常盤】 最初、五線譜ではなくて、線を一本しか引かないという案もあったんです。線を一本だけにして、それよりも上に並べたり下に並べたり。でもなんか、それだと難しいなと考え直して、結局五線に落ち着きました。かなよさんが最初に「五文字だったら書ける」と言い、小川君が「シールだったら貼れる」と言いましたが、おそらく演奏者からすれば、線が五本並んでいるからこそ、この場に参加することが出来るというか、演奏者にとっては五本の線が引かれていることが参加の「最小単位」みたいなところがありました。もちろんルールはあるので、例えば第3線にシールが貼られていればそれは「シ」なんだけれど、でもそういった最低限のルールに基づきながら、自由な幅を持って表現につなげていくポイントになっていたんだと思います。
【オーディエンス②】 演奏者、あるいは五線譜が読める人にとっては五線が「最小単位」というのは分かったけれど、もし楽譜に素養のない人が演奏するのだったら、むしろ絵とかの方が分かりやすかったのかもしれないですね。結局は自分が親しんでいる者から読み解こうとするのかなぁと思い、その差も面白いと感じました。
【小川】 楽器を演奏できる人というのは、かなり高度な訓練を積んでいる方が多くて、あるルールに(高いレベルで)親しんでいる場合が多い。逆にそうじゃないルールに入るとすごくやりにくいと思うケースが出てくる。音楽の要素って、今ではリズム・メロディ・ハーモニーと言われていますが、紀元前の世界では、「言葉」「調べ」「リズム」が一体になっているものが音楽だと呼ばれていて、純粋に言葉から分離される前の音楽っていうのがかつてはあったそうです。でも現代では、この「言葉」と「音楽」が高度に分離されていて、今回はむしろ、別々のルールを結びつけるとどうなるかっていうワークになっている。つまり、分離された言葉の側の身体と、音楽の側の身体が、もう一回演奏者の中で混ぜ合わされる。ある場面で「これは弾けないな」と思った瞬間に、楽譜のルールとは違うルールが自分の中で作動し始める、言いかえると、音楽の側の身体から、言葉の側の身体にスイッチが切り替わるわけですね。そうすると、表現が無理だと思ったことが無理じゃなくなるという「ほぐれ」が生まれる。その中で演奏に柔軟性が出たり、聴く側にも広がりが生まれたりする。今回はそうしたことを試す実験でもあるんだと思うんですよね。
【オーディエンス②】 シールについても、まず自分が貼って、次が回って来るじゃないですか。その時に来たシールの貼り方が自分と全然違うっていうか。重ねていたり、てんで外れた場所に貼っていたり、そうしてルールを破っているのを見ると、もっと破ってやってやろうみたいな気持ちになります。他人のルールの破り方が飛び込んでくるのは面白いと思いました。
【常盤】 こういうタイプの企画をしていると、参加者にはどんどんルールを破ってほしいと思う。でも、好きにやってくださいとだけ言っても難しい。先にルールを伝えておかないと、ルールは破られないんですよね。だから、シールをやりますよ、とか、五文字から書き始めますと、とか言いますが、絶対に五文字じゃないといけないなんてことは、実はないわけですよ。ルールを伝えていったんは制限をかけるんだけれど、その中で是非ルールを破ってほしい。
少し大きな話にはなるんですが、この話は僕たちの社会のあり方とすごく似ているところがあると思います。世の中、社会が機能して前に進むためにはルールが必要で、でも、そのルールを守ってばかりいると、すごくぎこちなかったり、生きづらかったりします。なので、参照点としてルールは必要で、みんなある程度そこは守るんだけれども、でもそこを突き抜ける作業が時として必要になってくるんだと思います。それはやっぱり、個々の主体性であるのかもしれないけれども、社会と個はそういうバランスで成り立っていて、そういうルールや制度をめぐるクリエイティブな矛盾みたいなものが、このワークショップには表れている気がしています。
【オーディエンス③】 はじめて体験してみて、最初に上の句で私のものだった言葉が、自分から離れていって、最終的に下の句ではみんなのもののひとつになると感じ、さらにそれが未知の音になって返ってくるのが面白かったです。
【小川】 合作俳句に参加していつも感じるのは、私が最初にイメージした上の句は、全然違う場所に連れていかれちゃったっていう感覚ですね。自分のものじゃなくなっていくんだけれども、ずらされちゃうっていったこと自体を共有し直せる面白さがあるんだと思います。
【上田】 ここに身体表現に親しい人がいたら踊れちゃうと思うんですよね。
【小川】 踊れちゃうかもというのはとても面白いです。言葉で語れないものは多いけど、逆に言葉から受け取れるものはとても多い。言葉から楽譜が出てきたり、言葉から多分踊りも出てきたりすると思います。しかもそれを聞いた人とか、見た人が連続性のあるものだと思えるような想像力を、たぶん人間は持っている。その切り口がいくつかあって、今回であれば五・七・五だったり、シールだったりするのですが、身体表現との接続もとても興味深いと思いました。
私は、この合作俳句をはじめとして、釜ヶ崎芸術大学で生み出された「方法」とは、他の場所でも受け取れるものだと思っています。特にこの合作俳句の形式の中には、いろんな人が交流し合いながら、なおかつ疑問だとか問いかけだとかを増幅させるような装置が混ざっている。その手法の広がり、引き受けられ方、展開のひとつとして、今回の合作楽譜があったのだろうと思うのです。今後はこれをどう発展させるのか、あるいは新しい「手法」がここから開発されるのか、というのを楽しみにしていたいと思います。(了)