「ら」抜き言葉の方が良くない?

暇すぎて、本の紹介だけでなく思ったこともnoteに書こうと思います。

さて、今回のテーマは「ら」抜き言葉。

皆さん、「ら」抜き言葉に注意して日々話してますか?

そもそも、「ら」抜き言葉を知らない人もいると思うので具体例で説明します。

「フルーツを食べられる」 と「フルーツを食べれる」って同じ意味ですよね?

若者たちは、この食べ物を「食べれる」と言ってしまうのですが、本来は「食べられる」なんですよね。これが「ら」抜き言葉です。

そこを頭の固い学者や老人たちが

「最近の若者たちは言葉が成ってない!」

とか文句を僕たちに言うんですよね。
同じ意味なんだからよくない?って思いませんか?

また、僕が気づいたことなんですが「ら」抜き言葉があったほうがメリットなこともあると思うんですよね。

そのメリットとは、受身と可能の区別です。

受け身の意味で使いたい場合

私は食べられる。ですよね?

でも、可能という意味で使いたい場合も

私は食べられる。なんですよね。

これだと、私が食べられるという受け身的な意味なのか、私が何かの物を食べられることが可能なのか、区別がつきにくいと思いませんか?

でも「ら」抜き言葉ならその問題を解決してくれます。

私は食べれる。

どうでしょう?「ら」を抜いただけで可能の意味になると思いませんか?

と言うわけで、受け身と可能の意味で言葉を使い分けたい場合、「ら」抜き言葉はとても有効だと思います。

古人や学者たちは「ら」抜き言葉を使う若者に嘆いているみたいですけど、間違った言葉を多くの人が使えばそれは、正しい言葉になります。

つまり、言葉は時代によって変化するのです。

もし、言葉に変化がなければ高校の授業で古文を習う必要がなく、古文が苦手という人たちは少ないでしょう。

実は西洋もそうなんです。
現在の多くの西洋言語はラテン語から発展した言葉なんですが、ラテン語という格式が高い言葉は地方によって鈍りができて、元々の単語から全く別の意味になったり、さらにスペルまでも変わってしまったりしてフランス語やスペイン語などが出来たとされています。

だから言葉が成ってないと嘆いている古人たちに、このことを知ってもらいたいですね。

参考文献

『超約ヨーロッパの歴史』ジョン・ハースト著 東京書籍

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

古典の魅力を配信してるブログ、書籍レビューのインスタグラムアカウントやってます。見てくれると嬉しいです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?