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答えは自分の中にある

わたしは、ネット上にある自己啓発関係の記事や動画を観ていても心が動かされるものに出会った記憶がありません。

「ネットに答えはない」と言われたりしますが、知識だけならネットで補填できるはずです。しかし、心の問題になると、人それぞれに感じ方や境遇など諸々の条件があるので、みんなに役に立つことは難しいことです。

わたしも若い頃から悩みがあり、よく自己啓発本を読んでいました。世界的に有名な著者のものから、ほとんど無名な(世間的に)方まで数多く読みましたが、やはりそこに答えはありませんでした。

その中で役に立ったものは、おそらく2,3冊だけ。
役に立ったと言っても、全部が役に立ったわけではなく、ほんの2,3ページだけの場合もあった。

何なら、他のページは反論したいものもありました。そして、役には立ったと思うのですが、答えは載ってはいません。

このわたしのnoteも、おそらく答えにはなっていないでしょう。誰かの悩みを解決する答えを書いた記憶はありませんし、そんなことはおそらく不可能です。

なぜなら、答えを知っているのはあなたしかいないからです。
あなたの問題の答えを出せるのは、あなた意外に誰もいないからです。

いろんな本やネットでの記事や映像を観ていて思うことは、
・耳障りの良い言葉だけが並んでいて結局何が言いたいのかよく分からないもの。
・あるいは、結論のないもの。(引っ張って引っ張って結局最後に何も結論を書いていない本が存在する)
・実現不可能なもの。(それが出来たら誰も苦労はしない)
・具体的な方法がないもの。(書けるわけないと思いますが)

結局、自分を変えることが出来るのは自分しかいません。
これを言ったら身もフタもありませんが…。

どう生きたらいいのか?
その答えは本やインターネットの中にはないと思います。
外側の世界ではなく、自分の中からしか答えは出せないということです。

わたしも誰にも答えを出すことはで出来ません。

・メンター
・自己啓発セミナー
・有名人のサロン
・宗教

自分が信じたその人達は、時には間違ったことを言うかもしれません。
それに気づけるかどうかは大事です。
妄信は依存だからです。
宗教などへの妄信は、皆さんご存知の通り危険な団体もありますから。
誰かに頼っているうちは、本当の答えにたどり着くことは難しいです。

その時は救われた気になっていても、実生活(現実)に引き戻されて、会社で嫌な上司にいびられて怒りを募らせる毎日。
ただ、その場の気分に酔い、救われたと思い込んでいるだけ。
元の生活が待っていて、また一からリセットです。

その繰り返しでは何も変わらないでしょう。
それらの教えは、もしかしたら何かのきっかけにはなるかもしれない。
それも自分次第であるということです。
答えは自分の中にすでにあるということです。

自分で答えを生み出そうとすると、不思議なことですが役に立つ本に出会うことがあります。本は出会いです。

本屋に入り吸い寄せられるように、あるいはパッと目が行く先にある本など。運命的な出会いかもしれません。

わたしの場合は、それが哲学書でした。
今から二千年以上も前の古代に、ギリシャの哲学者達が導き出した教えです。何千年経とうが人間の心の本質は何も変わらないと感じました。

哲学というと、何だか気難しく感じて敬遠されがちですが、読んでいると何故だか元気が出てくるのが分かります。

人によっては「理想を掲げているだけじゃないか」と感じるかもしれませんが、読んでいくとなぜその結論に達したのかが分かってきます。

哲学書には結論しか書いていません。
考え方によれば「冷たい教え」かもしれません。
結論はありますが、もちろん解決方法は書いていません。

結論から方法を導き出す。
さらに言ってしまえば、実は「結論」こそ哲学者が導き出した「解決方法」なのです。

言い方を変えれば、決意・覚悟を導き出す教えとも言えると思います。
心に一本の強い柱を立てていく感じです。

そして、失敗してもかまわないからまず実践してみる、それを繰り返していく。哲学書に書かれていることは極めて合理的な教えです。

その教えを世俗的な位置まで引き下ろすなら、心の「損得勘定」とでも言えばいいでしょうか。

わたしは若い頃から気が短く、ケンカを良くしました。
怒りをコントロールする力がなかった。

怒りを表し感情を出せば、スッキリすると思っていました。
しかし、出し終わった後は、自己嫌悪が待っていました。

人前で怒りを露わにすることは恥ずかしいことである、という理性が後悔の念を作り出します。なんとか自分で怒りをコントロールしたいと思っていました。

今は、
「以前ならこの時点で既にもう怒っていたよな…」と感じることがよくあります。歳のせいかもしれませんが…笑。

怒りの力を借りてごり押しした方が話が自分に有利に見える方向に進むかもしれない、若い頃のわたしはそう思っていました。

けれど今は、穏やかに、あるいは時にニコやかに、お互いに怒りをぶつけ合うこともなく、同じことを話して、こちらの意見を受け入れてもらえないものか?これを考えられるようになりました。

それが相手に通じるかどうかよりも、それを考えられるかどうかということが極めて重要です。

それってやられっぱなしにならないのか?
と思う方がいるかもしれませんが、それは違います。

したたかになる、ということです。
したたかとは、なかなか手ごわいこと。
ひとすじなわでは相手にできないこと。

怒りとは関係ありません。
むしろ、真反対の心の状態です。

わたしが思う「したたか」の定義は、感情に踊らされず粛々と自分がやるべきことを今やるということです。

怒りを露わにする人は、弱い人間です。

冷静さを欠くと、選択を誤る可能性が高くなってしまう。
相手の敵対心も大きくなってしまう。
そうすると、問題がさらに大きくなってしまう。

答えは、外側ではなく、内側から探す。
それを探すのが人生の意義だ。
最後に、これを心に留めておきたいと思う。


追伸

もし、哲学書を読んでみようと思われたら、「ストア派哲学」をお勧めしたい。哲学は面白いものです、宇宙の誕生までその想いを馳せることになりますから。もちろん現実社会にこそ有用なものです。


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