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ツァラトゥストラは何を語りき ―被害者意識からの脱却を

■「ツァラトゥストラはかく語りき」(フリードリヒ・ニーチェ)とは

・今回は『ツァラトゥストラはかく語りき』をご案内します。
・「ツァラトゥストラはかく語りき」と聞けば、2001年宇宙の旅にも冒頭部が使われたリヒャルト・シュトラウスのあの交響曲を思い浮かべる人が多いと思われます。

しかし、原作はニーチェによる小説形式ともとれる著作です。私のNoteで何度も触れていますが、それまで欧州で信じられていた「キリスト教的(=形而上学的)な」価値を完全否定し、それを「神は死んだ」という一言で形而上学の卓袱台返しを行ったものです。
・ニーチェはこれまでの形而上学を否定するだけではなく、ツァラトゥストラの口から新しい価値基準を人類に与えようと試みています。比喩的な話が多く、誰が誰に喋っている会話なのかわかりにくいので、やや難解ではありますが、主題は明確なので、全体を押さえておけば理解できないことはありません、

※「ツァラトゥストラ(=ゾロアスター)」という名前には特別の意味はなく、キリスト教とは無縁な何か単語を選んだだけと思われます。

■ルサンチマン:

・最初のキーワードは「ルサンチマン」です。ですが、この言葉自体は著書『ツァラトゥストラはかく語りき』には出てきません。ルサンチマンというのは、判りやすく言えば「被害者意識」です。もっとわかりやすく言えば「ごまめの歯ぎしり」です。「正しいと思って書いたりやったりしたことが相手にされないけど、それに対して堂々と反論できない激しいモヤモヤ」みたいな感覚で、「無力からくる意志の歯ぎしり」という表現がされています。憤懣と不満から復讐を欲する意志であるとも。ただ真正面から実力で復讐できないので、「ごまめが歯ぎしりして『この恨み晴らさで置くべきか~』と言っている」イメージです。

・ユダヤ・キリスト教はユダヤ人のそんなルサンチマンから生まれたものだとニーチェは喝破しました。紀元前6世紀ごろ、ユダヤ人はエジプト王から奴隷のごとく扱われていました。悔しさを持ちながらも耐えるしかないユダヤ人の心にあったのがルサンチマンでした。「此岸(この世)では勝ち目がなくても、彼岸(あの世)では勝って恨みを晴らしてやるぞ~」という強いルサンチマンがユダヤ教を生み出した。つまり神とか天国は、人間が苦悩に耐え切れず、苦悩から逃れる為に「創作」したものに過ぎないという訳です。

・ルサンチマンの根底には無力感があります。ゴマメの歯ぎしり、被害者意識からくる怒りを何かにぶつけることで紛らわす心の動きと言えますが、一方では「悦びを求め、悦びに向かって生きようとする前向きな力」を弱め、「主体的に前向きに生きる力」を失わせてしまう所に問題があるわけです。ニーチェ自身もその人生ではルサンチマンに囚われていたのだろうと思われます。

・この辺りはむしろ『道徳の系譜学』という別の著作に詳しいので、そちらからご紹介。

「ルサンチマンの念、そのものが創造する力をもつようになり、価値を生みだすことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである。」(ニーチェ. 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫))

「この世において「高貴な者」「権力者」「支配者」「有力者」にたいして行われてきたあらゆることも、ユダヤ人がこうした者たちにたいして行ったことと比較すると、語るに足りないものにすぎないのである。ユダヤ人、あの司牧者的な種族は、敵対する者や征服する者たちに復讐する手段としては、こうした者たちが貴い価値があると考えているものを根本的に否定するしかなかったのである。[征服されて捕囚の運命を味わった]ユダヤ人は精神的な復讐という行為によって満足するしかなかったのである。(中略)ユダヤ人とは、貴族的な価値の方程式を(すなわち良い=高貴な=力強い=美しい=幸福な=神に愛された)、凄まじいまでの一貫性をもって転倒させようと試みた民族であり、底しれぬ憎悪の(無力な者の憎悪の)〈歯〉を立てて、その試みに固執した民族なのである。すなわちユダヤ人にとっては「惨めな者たちだけが善き者である。貧しき者、無力な者、卑しき者だけが善き者である。苦悩する者、とぼしき者、病める者、醜き者だけが敬虔なる者であり、神を信じる者である。浄福は彼らだけに与えられる──それとは反対に汝らよ、汝ら高貴な者、力をふるう者よ、汝らは永遠に悪しき者であり、残忍な者であり、欲望に駆られる者であり、飽きることを知らぬ者であり、神に背く者である。汝らは永久に救われぬ者、呪われた者、堕ちた者であろう!」というわけだ……。このユダヤ人の価値転換の遺産をうけついだのが誰なのかは、よく知られていることだ……(引用者注:イエスである)。(中略)この奴隷(引用者注:ユダヤ人)の叛乱は、すでに二千年におよぶ歴史を閲しているのであり、しかも現在でもわたしたちの目から見逃されているのである。それはこの叛乱が勝利をおさめたからなのだ……。」
(ニーチェ. 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫))

・つまり神は弱者のルサンチマン(恨み、妬み、嫉み=ごまめの歯ぎしり)から生まれた。圧政の中、一般大衆は鬱屈するものを持っていたが反抗もできない。なので仕方なく一般大衆は「想像の観念」の中で勝者になろうとした。他人を否定して自己肯定を上げること、例えば、神から見て正しいかどうかという視点。つまり、復讐の為に神を作り出し、神の視点を創作して価値を生みだした。ここにルサンチマンが隠れている。わかりやすく言えば、「あいつらには此岸ではかなわないが、彼岸で救われるのは苦しめられている我々だ」「我々は天国に行き、あいつらは地獄に落ちろ!」
つまり、強弱を反転させ、「心理的復讐」を図るということ。

・ユダヤ人は価値をすべてひっくり返し、貧しく惨めな方が良い者とした。
「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書 5:3)
「金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがずっとやさしいのです。」(マタイによる福音書19:23-24)

・しかし所詮、弱者のルサンチマンに過ぎない。此岸では果たせない仕返しや優越感を彼岸で果たしたいと思ったに過ぎない。それは無難な善人しか作らなく恐れがある。
・かつてキリスト教は確かに人類に絶対的価値を与えた。生きる意欲を守っていた。しかし、今では既に綻び始めている。(神への信仰が揺らいでいる)

■神は何故死んだのか?

・ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、もちろん彼自身が神を殺したのではない。その時すでにキリスト教自体が綻びで瀕死の状態であったと言える。キリスト教の綻びはどこから始まったのだろうか。実はそのタネはキリスト教自身に内在していた。
・それは『ツァラトゥストラはかく語りき』では詳細に触れられていない。冒頭に山から下りるツァラトゥストラが途中で出会った老聖者との別れ際に「こんなことがあっていいものだろうか。この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いてはいない。神は死んだ、ということを」と呟いているに過ぎない。詳細は別の著作『喜ばしき知恵』で語られている。

「彼が叫んだ、「はっきり言ってやろう。われわれが神を殺したのだ。諸君と私が!われわれ全員が神の殺害者なのだ!しかしどうやってそんな大それたことをやり遂げたのか?(中略)地球はいまやどこへ向かっているのか?われわれはどこどこへ向かって進んでいるのか?あらゆる太陽から離れていこうとするのか?われわれはひたすら突き進んでいくのではないか?後方へ、横へ、前方に、あるいはすべての方位に向かってだろうか?上と下の区別などまだ残っているのだろうか?われわれは無限の虚無を彷徨うようなものではないか?空漠たる虚空の息吹がわれわれに吹きつけるのではないか?(中略)これまで世界に君臨していた至聖者と至権者 それがわれわれの刃にかかって、血の海に浸かっている。誰がこの血の汚れをわれわれの手から拭ってくれるだろうか?いかなる水でわれわれはわが身を浄めることができるだろうか?いかなる贖罪の儀式、いかなる聖務典礼をわれわれは作り出さねばならないのだろうか?われわれがやり遂げたことの偉大さは、われわれにとって立派すぎるのではないか?それに見合った分際になるには、われわれがみずから神々になるほかはないのではないか?かつてこれほど偉大な行いがなされたためしはない。そして、われわれのあとから生まれてくる者どもはことごとく、この行いゆえに、これまで存在したすべての歴史に優る高次の歴史の一員となるのだ!」
(ニーチェ、喜ばしき知恵 (河出文庫))

・ちょっとわかりにくいので、補足説明します。キリスト教では常に真実を語れと言っています。例えば、

「隣人に関して偽証してはならない」(モーセ十戒)
「彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。(詩篇 5:9)」
「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ人への手紙4:25)」

この真実を求める姿勢が神に直接向かった時、神への疑念を生じさせることになってしまいました。そしてその姿勢は客観的な科学的方法にもつながって行きます。とはいえ1633年時点ではガリレオでさえも「それでも地球は動いている」ということを呟くことしかできなかった。そりゃ下手すりゃ異端審問で死刑ですから仕方ありません。因みに異端審問は国によっては19世紀まで続いていたようです。。
信仰と科学。この対立はやがて科学が優勢になっていく。この中で流れを決定的に変えたのは、以前の投稿にも書きましたが、ダーウィンの進化論だったと私は思います。この世に生きる生物、こんな精緻なものを作るなんて、神の力以外には想像できなかったことが最後の砦であったが、あっさりと1人の天才に論破されてしまった。「いやあ~、神にお力を戴かなくとも自然淘汰で人間は生まれてきますよ (*^^)v」って。

・従って敬虔な正直者は「神は死んだ」と喝破せざるを得なくなった。その時、キリスト教とそれにかかわるあらゆる価値が崩壊した。そして、ニーチェは「最後の人間」が生まれてくると言う。どんな人間かというと、

「何ということだ。時が来る。人間はもはやみずからの憧れの矢を人間を越えて放つことがなく、その弓の弦を鳴らすことも忘れてしまう、その時が。」
(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫) )

ニーチェは「最後の人間」をアホ扱いしています(^^;)

「『愛って何? 創造って? 憧れって? 星って何?』──最後の人間はそう尋ねて、まばたきする。そのとき大地は小さくなる。そしてその上で、一切を小さくする最後の人間が跳ね回っている。その種族は地蚤のように根絶やしがたい。最後の人間はもっとも長く生きのびる。『僕らは幸福を発明した』──最後の人間はそう言って、まばたきする。彼らは生きるに苦しい土地を見捨てる。温もりが要るから。やはり隣人を愛し、その身をこすりつける。温もりが要るから。病気になること、不信をいだくことは、彼らにとっては罪である。用心してゆっくりあるく。石に躓いても、人に躓いても、そいつは世間知らずの阿呆だ。ときどきわずかな毒を飲む。心地よい夢が見られるから。そして最後には多くの毒を。そして心地よく死んでいく。働きもする。労働はなぐさめになるから。しかしなぐさめが過ぎて、身体をこわさないように気づかう。もはや貧しくも、豊かにもならない。どちらにせよ面倒なことだ。いまさら誰が統治しようとするか。いまさら誰が服従しようとするか。どちらにせよ面倒なことだ。牧人などいない、畜群がひとつあるだけだ。誰もが同じであることを望み、誰もが同じだ。そう感じない者は、みずから精神病院に入る。『昔の世の中なんて、みな頭がおかしかったんだよ』──この上品な人びとは、そう言ってまばたきする。」(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫))

この辺りの皮肉っぽい表現が難しいですが、「愛も創造も憧れも知らない人」「長く生き延びることが幸福で、住みやすい地を探す、健康に最大限の注意を払う」人みたいな感じ。こんな人間ばかりでは歴史は世界は滅びてしまう。(以前のハイデガーの「頽落」の議論に似てます)

・もう少しわかりやすい記述としては、ある時ツァラトゥストラはある賢者の名声を耳にしたので、この賢者の話を聞きに行った。しかし、曰く

「彼の知恵とはつまるところ、こうだ。『目覚めてあれ、よく眠るために』。そしてまことに、生きることには何も意味がなくて、(中略)たった今、はっきりと判った。人びとが徳の教師を求めたとき、何よりも求めたものは何だったのかを。よい眠りを求めたのであり、そのために罌粟の花の香りがする徳を求めた。」
(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫))

人から尊敬を集めているという賢者ですら、求めている価値は「よく眠ること」と呆れてしまう。このように、目標や憧れを持たず日々の安楽にのみ生きる人間をニーチェは「最後の人間」と呼んでいます。

■価値崩壊

・絶対価値がキリスト教と共に崩壊する。価値を喪失した人間が陥るのがニヒリズム。それは「人々が何を目指すべきか、何の為に生きているのかわからなくなる」状態。昔なら「マイホームを持とう」とか、「欧米に追い付け追い越せ」とか、その時代時代に目標があった。それはその目標に価値を置いていたからである。しかし価値というものがなくなったら何が正しいかわからないし、あるいは相対化してしまったら「真」「善」「美」がコロコロ変わるし議論は収束せずに続いていく。
・そこでニーチェが生み出したのは「超人」。但し、例によって超人の定義は『ツァラトゥストラはかく語りき』では詳しく述べられてはいません。

「すべての神々は死んだ。いまわれらは、超人が生まれることを願う。」(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫))

■ルサンチマンをどう克服するか?

・ルサンチマンとは受けた屈辱に対して実力で復讐できないので、心で復讐しようということで、私は「被害者意識」という言葉がぴったりだと思っていることはお伝えしました。それを克服するかというと、結局は普通の人は「時間薬」で解決していくのだろうと思います。一種の諦めですね。
しかし、ニーチェは「それではまだ解決にならない」と言います。もっと前向きに「これで本当に良かったんだ」「実は私はそれを欲していたのだ」とまで思うことだと言ってます。例えば失恋の時でも傷が癒えるまで待つのではなく、「こんな失恋してかえって良かったんだ」と思うことです。

「すべての『かつてそうであった』を『わたしはそれを欲した』に作り変えること。──これこそ救済の名に値しよう。」
「すべての『かつてそうであった』は一つの断片、一つの謎、一つの残酷な偶然だ、──創造する意志がそれに対してこう言うまでは。『だが、わたしはそうであったことを欲したのだ』。 ──創造する意志がそれに対してこう言うまでは。『だが、わたしはそうであったことを欲する、今も、これからも』。」
(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫))

・ルサンチマンは他者否定を通じての自己肯定でしたが、ニーチェの提案は自己陶酔を通じての自己肯定とも言えます。『道徳の系譜学』でニーチェは前者を「司牧者的な価値評価」、後者を「貴族的な価値評価」と呼んでいます。

「騎士的で貴族的な価値評価の前提となっていたのは、力強い肉体と、花開くように豊かで、おのずからほとばしりでるような健康さであり、それを保つためのすべての条件である(たとえば戦争であり、冒険であり、狩猟であり、舞踏であり、闘技であり、そのうちに強さと、自由と、快活さを蔵したすべてのものである)。これにたいして司牧者的で高貴な価値評価は──すでに指摘したように──、まったく異なる前提をそなえている。彼らにとっては戦争とは何とも忌まわしいものだったのだ!周知のように司牧者は、敵としては最悪の者である──それはなぜなのか?それは司牧者はまったく無力だからだ。司牧者は無力であるだけに、彼らの憎悪は法外なもの、不気味なものにまで強まり、きわめて精神的なもの、有毒なものにまで成長する。世界史における最大の憎悪者はつねに司牧者たちだった。もっとも狡智に長けた憎悪者も司牧者たちだった。──司牧者の復讐の精神を前にすると、ほかのあらゆる精神はきわめて小さなものにすぎない。[司牧者の]無力から生まれた精神が存在しなければ、人間のすべての歴史はきわめて面白みのないものになったに違いない。」(ニーチェ. 道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)).

■永遠回帰と超人;

・スイスのシルヴァプラナ湖畔で突然「永遠回帰」の思想がインスピレーションとして閃いたらしい。
・「永遠回帰」というのは、これまで経験した人生のすべてが、そのまま永久に繰り返されるという考え。嫌なことも良いことも何度も繰り返すので「それはイヤだ」と思う人も多いでしょう。こんな考えは、結局のところどんなに世の中を変えようとしても無駄みたいな無力感を起こしてしまいそうです。

「かつて一度あったことを二度欲したことがあるか。かつて「気に入った。幸福よ、刹那よ、瞬間よ」と言ったことがあるなら、万物の回帰を欲したことになる。──万物をあたらしく、万物を永遠に、万物が鎖でつながれ、糸でつながれ、愛でつながれていることを。おお、諸君はこのように世界を愛した。諸君、永遠なるものよ。世界を愛せ、永遠に、すべての時にわたって。苦痛にも言うがいい。去れ、しかし戻って来い、と。すべての歓びは──永遠を欲するのだから。」
(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫) )

・永遠回帰というのはニーチェがやや科学的に考えた形而上学に代わる新しい世界観なのでしょう。これを受け入れられる人が「超人」という訳です。生への意欲をもって人生に前向きに取り組めば、たとえ永遠に繰り返されようとも、良かった人生なら何度でも繰り返したいだろうということです。即ち、「すべての『かつてそうであった』を『わたしはそれを欲した』に作り変えること」ができれば、永遠回帰なんてむしろ有難いことのように思えるはず。

・超人は神に代わる新たな人類の目標である。人間とは動物から超人に向かう中間体。人間を更に超える必要がある。超人とは何かについては自分で考えよと言う一方で、3段階のステップ(①駱駝→②獅子→③幼子)は示されている。

「わたしを捨て、みずからを見出せ。そして君たちがみな、わたしのことなど知らぬと言うようになったときに、わたしは諸君のところに帰ってくる。(中略)人間が動物から超人へ向かう道のなかばにあって、暮れ方にむかう自らの道を、おのれの最高の希望として祝うとき。それが大いなる正午だ。」

「わたしは諸君に、精神の三つの変化について語ろう。いかにして精神は駱駝となるか、いかにして駱駝は獅子となるか、そして最後にいかにして獅子は幼子となるかを。(中略)これ以上なく重い一切のものを、忍耐づよい精神は担う。重荷を負って砂漠に急ぐ駱駝のように、精神もみずからの砂漠に急ぐ。(中略)荒涼として人影もない砂漠のただなかで、第二の変化が起こる。精神は獅子となり、自由を獲得しようとし、おのれ自身の砂漠の主になろうとする。彼は最後までみずからを支配していた者を探す。そしてその最後の支配者、神の敵となろうとし、この巨大な龍と勝利を賭けて戦う。(中略)こうして彼はみずから愛していたものからの自由を奪いとる。この強奪のために獅子が必要なのだ。」

「なぜ強奪する獅子ですらできなかったことが、なぜ幼子にできようかと。なぜ強奪する獅子が、さらに幼子にならねばならないのかと。幼子は無垢だ。忘れる。新たな始まりだ。遊ぶ。みずから回る輪だ。最初の運動だ。聖なる「然りを言うこと」だ。そうだ、わが兄弟たちよ。創造という遊びのためには、聖なる「然りを言うこと」が必要だ。ここで精神は自分の意志を意志する。世界から見捨てられていた者が、自分の世界を獲得する。」
(フリードリヒ・ニーチェ. ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

■最後に:

・私は「超人」というのはニーチェが神の代わりに持ち出した形而上学上の新たな目標とイメージしていましたが、今回『ツァラトゥストラはかく語り』を読み直して、ニーチェの「永遠回帰」や「超人」というのは、あくまでもフィクションというか例示に過ぎないのではないかと思い直しました。つまり再び形而上学を持ち出したわけではないと。ニーチェとしては神が死んでしまった今、ルサンチマンの産物たる神に「頼る」のは止めよう、自分自身で前向きになって悦びを見つけ、それに向かって進めと号令している感じです。
・ここの主題である被害者意識の脱却というのは現代でも最も大きなテーマです。多くの人が大なり小なり抱えている被害者意識がなくなれば、世の中はもっとみんなにとって生きやすくなると思います。ニーチェの言葉に相変わらず人気があるのはこういうところなのでしょう。
・「生きる」ということは、自分自身がどう生きるかという問題。人生の本質は「苦悩」。そこを直視せずに、歴史や人類の進歩などと浮かれていてはいけない。苦悩の中で前向きに生きようということでしょう。それは自分自身の問題であり、自分自身にしかできないのです。1つ残念なのは価値崩壊の後の次の社会的価値をどうするのかについての答えはなさそうだなということです。
・私は山歩きが趣味でしたが、登っている途中はしんどくてくじけそうで助けを呼びたい気分になります。しかし、現実には私自身が一歩を踏み出すしかなく、そしてその一歩一歩は確実に私をゴールへ導いてくれるわけです。ゴールでの温泉と冷たいビールを思い浮かべながら頑張ってたことを思い出しました(^^;)