その言葉が誰かの「ひかり」になる
〈花粉とコロナに掻き回される日々ですが、いかがお過ごしでしょうか〉
そのメールが届いたのは3月16日のことだった。
〈一年と四ヶ月前、NHK創作テレビドラマ大賞の最終選考に残していただいたことを先生に報告させていただいた水上春と申します〉
差出人との出会いは5年前に遡る。
出会いは最終選考作品
本人を知るより前に作品を知った。「創作ラジオドラマ大賞」というコンクールの最終審査に残った脚本を選考委員の一人として読んだ。
タイトルは「クリームキンタは何を変えたのか」。
主人公は17歳の女の子。いじめが原因で学校に行かなくなり、祖母の家に身を寄せている。学校では目立たない存在だったが、「クレームランキング」という仮想コミュニティで頭角を表し、紙袋をかぶって顔を隠す「紙袋チャレンジ」を流行らせる。だが、チャレンジの広まりとともに違和感が募り……という内容。
審査の模様は「月刊ドラマ」2015年5月号に再録されているが、「ネットでのやりとりをラジオドラマでどう表現するのか」に議論が集中した。わたしも「ネットではこの人はこういう声だなと思ってた人が、最後にリアルで会ったときも同じ声で表現されていいんだろうか、ちょっとそこが引っ掛かったので、実際かたちになったときに、脚本を読む以上に面白く膨らむのかなというのは疑問に思った」と発言している。「映像向きでは?」「アニメで観たい」という意見もあった。
入選は逃したけれど、わたしには強く印象に残った作品だった。容姿を理由にいじめられた女の子が、紙袋をかぶることで見た目という判断基準を封じる。その発想が面白い。みんなと合わせることを強要する「同調圧力」と、人を見た目で差別する「ルッキズム」(という言葉は当時まだ広まっていなかった)。出る杭は打ち、つけ込める相手には追い打ちをかける。見張り合い、足を引っ張り合い、横並びの安心感を作る。紙袋は、上にも下にもはみ出せない社会の閉塞感にかぶせられているように思った。かぶれば息がしにくいはずなのに、人との違いを覆い隠す殺風景をまとうことで、卑下することも疎まれることもない自由を手に入れ、息ができる。
「紙袋チャレンジ」が広まるにつれ、没個性な紙袋に絵を描いたりして「差別化」を図ろうとする動きも興味深く読んだ。悪目立ちしたくない、でも、埋もれたくない。深海魚が水圧に適応するように、同調圧力の下で自分なりの快適ゾーンを探り、上手に立ち回ろうとする。日本にあるいくつもの「小さな世界」で繰り広げられている集団主義と個人(個性)の攻防を連想させた。そして、紙袋チャレンジが自分の手を離れて大きくなり、取り残される主人公に、生々しいリアリティを感じた。
受賞は逃したけれど
「クリームキンタは何を変えたのか」は受賞を逃したが、最終審査に残った人たちと選考委員を交えた懇親会で作者の水上春さんに会えた。NHK関係者も同席する絶好の売り込みの機会。わたしの元にも脚本家の卵たちの名刺が集まった。その人たちに宛てて、翌日メールを出した。
水上春さんの名刺だけがなかった(そもそも名刺を持って行ってなかったとのこと)。コンクール主催者にアドレスを教えてもらった。メールを送りたい他に、もう一つ、連絡を取りたい理由があった。
コンクールでデビューのきっかけをつかんだ一人として、コンクールでの健闘が次の作品につながるよう応援できたらという気持ちがあった。
水上さんと連絡を取ると、すでに何本か習作で小説を書かれていることがわかった。スクールカーストを扱ったネット小説も手がけている知り合いの編集者に「こんな人がいるんですが」と伝えてから、推薦文を添えて水上春さんの脚本を送った。
背中を押すだけが励ましじゃない
〈梅雨空に色とりどりの傘が並ぶ季節ですが、如何お過ごしでしょうか〉
翌年、水上春さんから半年ぶりにメールが届いた。わたしが紹介した編集者に小説を何本か作品を読んでもらったが、今回はご縁がなかったという報告だった。
それからさらに2年経った2018年の秋。
〈秋から冬へと季節の変わり目を感じる時期ですが、如何お過ごしでしょうか〉
水上春さんのメールの書き出しには、いつも季節が織り込まれている。
「創作テレビドラマ大賞」の最終に残ったという知らせだった。受賞ではないけれど思い切って報告することにしたのは、「この先、もし何も受賞がなければ、お礼を申し上げることもできませんから」ということだった。
その年、最終審査に進む8作品を選ぶ2次審査に、偶然にも関わっていた。作者の名前は伏せて審査されているので、水上春さんの作品が入っていたことは知らなかった。チームに分かれての審査で、わたしのチームが読んだ作品には入っていなかったが、各チームが選んだ作品をビブリオバトルさながら紹介し合う中で「理想の貧困」というタイトルを聞いていた。
あれを書いたのが、水上春さんだったのか。
ニアミスの再会だった。創作ラジオドラマと創作テレビドラマ、どちらも最終まで残るのは、実力も運も持ち合わせているということ。水上春さんが書き続けていることを知れたのが、とてもうれしかった。「少しでも背中を押せていたとしたら、うれしいです」と返事を書いた数日後、返ってきた言葉にドキッとした。
「背中を押してくださっただけでなく、背中をさすってくれたこともあります。誰にも選ばれないと思った時に」
背中をさする。
喘息の発作に苦しめられた子ども時代の記憶が蘇った。吸おうとしても空気が入って来ない。目に涙を溜め、薄い背中を折り曲げ、ゼーゼーしながら、このまま死ぬんやろかと思った。まだ幼稚園児だったけれど、息ができなくて死ぬという恐怖は、絵本やおもちゃと同じように手の届くところにあった。そんなとき、背中をさすってくれる手がどれだけ頼もしかったことか。ただ、背中に置かれる手のひらがあるだけで、呼吸が楽になった。
背中を押すだけが励ましじゃない。頑張れという言葉に追い詰められることもある。
背中をさする手に気づけるところ、その温もりを励みに変えられるところが、水上春さんなのだなと思った。流れる水を両手で受け止めて、その中に光るものを探し、あるかなきかの声に耳を澄ます。そんな繊細さを持った人なのだろう。
水上春さんのメールには「努力」という言葉がよく出てくる。
「才能ゼロの人間がどうやって『伝える技術』を身につけることができるのか」と悩み、「シナリオの技術を身につければ、それが可能ではないか」とシナリオ・センターに入り、卒業後はラジオセミナーと日脚連のスクールに通い、仙台や山形の小説講座へも夜行バスで通ったという。
水上春さんに足りなかったのは「才能」ではなく、「技術」だ。
脚本家は技術職だと言われる。わたしが脚本の書き方を教えるときは語学に喩える。言いたいこと、伝えたいことがまずあって、それをのせる言葉、表現、書式が必要になる。技術は後付けできるけれど、内側から湧いてくるものがないと、響くホンにはならない。完璧な発音で英語を話せても、話のつまらない人がいるように。
水上春さんには解き放ちたい物語があった。それを運ぶ舟が整っていないだけだった。「次こそは受賞のお知らせをします!!」と2018年秋のメールは締めくくられていた。
デビュー作「ひかりの子たち」
そして、今年3月、冒頭のメールが届いた。「創作ラジオドラマ大賞で佳作二席を受賞」の知らせだった。
そのひと月ほど前、たまたま創作ラジオドラマ大賞のページを見る機会があった。友人に「ラジオドラマ書いてみたら?」と薦めたくて、募集要項を調べようとしたら、「水上春」の名前が目に飛び込んだ。今も書いていて、選考を勝ち上がっているのを知ってうれしくなったが、最終審査の結果は追えていなかった。
書くというのは孤独な作業で、自分の書くものが誰かに届くのか、そしてその人の心に響くのか、なんの保証もなく、ただ信じて書き進むしかない。真っ暗で手探りな中で、誰かにほめられた一言が道を照らしてくれたことは、わたしにもある。自分を一番信じてあげられるのも面白がれるのも自分自身だけど、信じ続けることに力尽きそうになったとき、よりどころになる何かを持っている人は強い。
「challengeの中にはchanceとchangeがある」とnote「キナリ杯というドア」に書いた。出会いのコンクールから4年後の同じコンクールで、水上春さんはドアを開けた。
創作ラジオドラマ大賞は大賞作品の放送が約束されているが、佳作作品もラジオドラマ化されることが多い。水上春さんの作品も放送で聴けるかもしれないと思った。
しばらくして、受賞作品の放送が決まったと報告があった。
蛍につられて足が動く。
やはり水上春さんはささやかなものをつかまえて喩えるのがうまい。自分のかけた言葉が誰かの闇を照らす蛍になっていたと知れたのは、とてもうれしかった。
自粛への圧力にエンタメ界が日に日に萎縮していくのを見ながら、気持ちが塞いでいた頃。1月末に封切られた『嘘八百 京町ロワイヤル』の上映は続いていたけれど、劇場へ観に行ってくださいと呼びかけるのが心苦しく、劇場さんには申し訳なかった。
今振り返っても、一番きつい時期だった。息苦しいのはウイルスのせいなのか、自粛圧力のせいなのか。紙袋をかぶるかわりにマスクで顔を覆い、空気の薄さと重さに喘いでいた。そこに舞い込んだ受賞と放送の知らせに背中をさすってもらった。出口の見えない張り詰めた日々に光が射したようだった。
受賞作品のタイトルは「ひかりの子たち」。NHKオーディオドラマのサイトの作品紹介には、「言葉は人を繋ぐためにある」とコピーがついている。
主人公は学校で無視され、孤立している中学生の男の子。町の図書館で小学校のクラスメイトだった聴覚障害のある女の子と再会。言葉の力に触れることで、自らの思いに気づき始める……。
水上春さんは脚本を書くにあたって資料を読むなかで、「言葉は人と関わって身につくもの。言葉をいくら暗記しても、それは意味のないこと。人と向き合い、繋がるために言葉がある」とつくづく感じたが、公募作ではうまく表現できなかった。放送に向けて改稿を重ねるなかで、これだという表現を見つけられたという。
水上春さんを編集者に紹介したとき、「どんどん書ける即戦力」と伝えたが、それは違ったかもしれない。相手の注文に合わせて器用に書き分けられる人ではない。どちらかというと、不器用に、愚直に、一行一行を手繰り寄せるように書く人だったのではないか。自分の手で誰かの背中をさする、誰かの闇を照らす、その言葉を探し続けている人。出会いからやりとりを重ねて、そう思うようになった。
2015年のコンクールで「クリームキンタは何を変えたのか」が受賞していたら、わたしから連絡を取ることもなく、この5年のやりとりも生まれなかったかもしれない。長い道のりだったと思うけれど、書く手を休めずにいたら、技術が追いついた。
水上春という脚本家の光射す船出に立ち会いたい。
※FMシアター「ひかりの子たち」は、2020年7月4日(土)22時〜22時50分に放送。
clubhouse朗読をreplayで
2023.3.10 鈴蘭さん
2023.3.17 鈴蘭さん
2023.4.6 鈴木順子さん
2023.5.23 こたろんさん
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