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「丹後のちりめん」の誕生について

皆さん こんにちは!梅田です。

前回は、丹後地域と絹織物の歴史と関係性について書きましたが、今回は「丹後ちりめん」の誕生について書いていこうかと思います!

現在丹後地域では、約800社の織物製造企業があります。
年々企業数や生産量は減少傾向にありますが、丹後地域の地場産業として、どんな経緯で地域に根付いていったか調べていこうかと思います!

■丹後地域を支えていた絹織物の衰退と生活の貧窮

「丹後ちりめん」が生産される前から「丹後精好(たんごせいごう)」などの高品質な絹織物を中心として栄えていた丹後地域ですが、江戸時代になると、京都の西陣で「お召(おめし)ちりめん」が誕生し、丹後精好は「田舎ちりめん」と呼ばれて売り上げは減少しました。

「お召(おめし)ちりめん」とは高級とされるちりめん技法に、もう一段と手を加え細かく織り上げた絹織物で、技法は16世紀ごろ中国から京都西陣へと伝来したようです。

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(画像:1797年「日本山海名物図会」にて西陣織屋がちりめんを織っている絵)

そして丹後地域の絹織物の衰退には、藩から容赦なく厳しい租税(税金)の取り立てがあったのも大きな原因です。
もともと、農民に課せられていた租税は、お米を作る百姓自身がお米を食べることが出来ないほど重かったようです。

さらに悪化させたのが、凶作飢饉で農作物の収穫量が極端に少なく、丹後地方の人々の生活は極限まで追い込まれていきました。

特に延宝の大飢饉(1680~1681年)では被害が酷く、積雪は1~2丈(1丈=約3.33㍍)を記録し、その影響で家屋の4軒に1軒が雪の重みで倒壊したり、当時の人口の約2割にあたる14,816名が餓死したと伝えられています。


■「ちりめん」の技術を丹後に持ち帰った男

丹後地域を支えた絹織物の衰退と貧しい生活の打開策として、当時一世を風靡していた「ちりめん」の技術に目が向けられたのは、当然の結果でしたが、多くの産業技術が各々の産地で秘密にされていた時代であったので、その道はとても険しかったようです。

京丹後市峰山町には、絹織物を織って暮らしている絹屋の森田佐平治(のちに森田治郎兵衛)という人物がいました。

1719年、佐平治は、京都の西陣「お召ちりめん」独自の技法を丹後地域に持ち帰るために京丹後市の禅定寺(峰山町)で7日間の断食祈願をし、西陣の織屋に奉公人として入り込むことに成功しました。

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(画像:森田佐平治が2度にわたる7日間の断食祈願をした京丹後市の禅定寺)

一度は失敗したものの、再び西陣へ出向き織屋に奉公しながら「糸撚りの車の仕掛け」を学ぼうと独自に調査・研究を重ねましたが、やはりそう簡単にはいきません。
当時の西陣では、この技法が外部に伝わらないように決まりをつくり、「糸撚り」は、土蔵づくりの密室で立ち入り禁止で行われていたのです。

さらに佐平治は、奉公人の長である上番頭から西陣独自の技法を聞き出そうと、酒を飲みに外へ連れ出したりすることもあったみたいですが、上手くいかなかったようです。

1719年の12月の大晦日に近い頃、糸撚り車のある土蔵づくりの部屋の鍵が開いているのを見た佐平治は、部屋の中へ入り、暗がりの中、車の仕組み、糸口の仕掛けなど、かすかにもれてくる月明りを頼りに探りました。

そして1720年に丹後へ戻った佐平治は、暗がりの中で確かめた車の仕組み、糸口の仕掛けなどを一つ一つ思い出しながら、糸撚り車を組み立てて糸を撚りました。
その撚糸を持って再び上京し、実際に西陣の撚糸と同様の撚糸を生み出すことに成功したことを確認してから、地元に戻り、丹後独自のちりめん製織に取り掛かります。

そして佐平治はついにちりめんを織り出すことに成功しました。
佐平治が2度の断食祈願をした禅定寺には、最初に織りあげたちりめんとされる「縮(ちぢ)み布」と、はじめて使用した糸撚り車あるいは手機機が奉納されたと伝えられていますが、現在は「縮み布」のみが寺宝として保管されています。
このちりめんは、原形である西陣の「お召ちりめん」よりも厚手でシボ(生地の凹凸)が高い織物で、丹後独自の「丹後ちりめん」でした。

こうして丹後地域に「丹後ちりめん」を伝えた佐平治は、藩の領主から、直筆で「御召。縮緬。ちりめんや。」と書いたのれんを贈呈されるほど、功績をたたえられました。

丹後ちりめん300周年

(画像:佐平治に贈呈されたのれんの復元品)


■立ち上がったのは、佐平治だけではなかった

西陣の技術を導入しようと考えていたのは、佐平治だけではありません。
まったくの同時期、藩の政策によって絹織物が売れにくくなった与謝野町の加悦谷では、京都と丹後地域を行き来する中間問屋であった木綿屋六右衛門(もめんやろくうえもん)も機業復興を目指していました。
日頃から親しくしていた西陣の織屋に秘かにちりめん技法の伝授を依頼をして、手米屋小右衛門(てごめやこうえもん)と山本屋佐兵衛(やまもとやさへえ)を西陣に送って4年かけて技術を習得し、1722年に故郷に持ち帰ることに成功しました。

3人の生れ故郷、与謝野町の加悦谷には森林がなく、農業も充分に出来ない風土だったので、この地方の農民は古くから機業によって生計を支えていました。

小右衛門と佐兵衛が修行に出ている間、木綿屋六右衛門は彼らの家族の生活すべての面倒をみたと伝えられています。

絹屋佐平治とあわせてこの4人を丹後ちりめんの創業者として、毎年5月には京丹後市の峰山町で「始祖慰霊祭」が、秋には与謝野町の三河内で「織物始祖祭」が行われ、現在もその功績が語り継がれています。

常立寺

(画像:京丹後市の常立寺にある森田佐平治の墓碑)


■まとめ

①京都の西陣で「お召(おめし)ちりめん」が誕生し、丹後地域の絹織物は売れなくなった。

②丹後地域の絹織物の衰退の背景には、厳しい税金と凶作飢饉で生活が極限まで追い込まれていた。

③極秘とされていたに西陣のちりめん技術を絹屋佐平治が丹後地域に持ち帰ることに成功した。

佐平治の他に3人の男が西陣のちりめん技術を持ち帰るために潜入し、持ち帰ることに成功した。


丹後地域の困難な状況(絹織物の衰退・厳しい税金・凶作飢饉)の打開策として誕生した丹後ちりめん。
今まさに、新型コロナウイルの流行によって日本最大の絹織物生産地として存続の危機を迎えているのではないでしょうか。
今後、丹後ちりめんが次の50年、100年へと歩み続けるために新たな打開策を練っていくべきだと思います。



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