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第16回:『ファイト・クラブ』(1999)

『ファイト・クラブ』という映画がある。

監督はデイヴィッド・フィンチャーで内容は、張り合いのない日常に “生の実感” を求めようと地下格闘技団体「ファイト・クラブ」を結成するお話。主人公はエドワード・ノートン演じる自動車メーカーのリコール査定担当の男で、彼の仕事は各地の事故現場を訪れリコールが「必要かどうか」を考えること。といってもそこに人間的な感情が入り込む余地はなく、事故の発生確率と賠償額を考慮して「冷静に」「計算的に」リコールすべきかを考える。極端にいえば、どんなに車に構造上の問題があったとしても賠償額がリコール費用より安ければリコールをしない。こういうことだ。


毎日のように違う現場へ行き、違う場所で寝る。使うのは一回分のシャンプーや石けん、食べるのも一回分の食事。出会う人間すら「一回分」の関係。まるで使いすての旅行を繰り返すような生活で、彼は次第に現実感覚を失い、不眠症になっていく。

人間の死すら損得勘定に置き換わるような、自分とは違う別の “意思” によって流されるというのは、おそらく人それぞれ経験があると思う。僕にしても仕事上、数字のやり取りをするのだけれど請求書で出す金額や銀行に振り込まれる金額に実感が持てないときがある。もっと大きい数字の気もするし、逆にもっと少ない気もする。何かがおかしいと思うが、その「何か」が分からない。だから仮に「では、お前が実感が持てる金額を提示して証明してみろ。その金額をやるから」といわれてみたとて、証明できそうにないんだけれど。


リコール査定の彼は “生の実感” を満たそうとブランドを買い込む。彼の趣味は北欧家具だったからステレオやソファを買い、モダンなリビングを作る。家具ごとに保険をかけるほどのほどだから、その徹底ぶりたるや一般人の比じゃないだろう。ブランド買いは北欧家具だけじゃなく、着ている服にも。カルバン・クラインのシャツ、DKNYの靴、そしてアルマーニのネクタイ。ファッションにうとい僕ですら、聞いたことのある一流ブランドだ。

しかし、彼の顔のどこにも満足そうな様子はない。口では“今の若者はポルノ雑誌より、ブランド買い”というけれど、お目当てのブランドを買っていても彼は満足できていないのではないだろうか。


彼が求めた「生の実感」とは

あるとき彼は、移動中の飛行機で偶然隣の席に座っていたブラッド・ピット演じる石けん売りのタイラー・ダーデンに出会う。タイラーは不思議な男で、性格はまるで正反対。たまたま持っていたスーツケースが同じだったから話しかけたけれど、普段だったらあまり混じり合わないような2人だろう。


その後、ある出来事がきっかけでバーで飲むことになった2人。店を出てからタイラーは彼にいう。

I want you to do me a favor.(1つ頼みがある)
- Yeah, sure.(もちろん)
I want you to hit me as hard as you can.(力一杯おれを殴ってくれ)
-What?(え?)
I want you to hit me as hard as you can.(だから、力一杯おれを殴ってくれよ)

困惑しつつも耳を思いっきり殴るとタイラーも腹に強烈な一発を浴びせてくる。心臓の鼓動がさっきよりも大きく感じられ、血が流れる。でも、何だか心地の良い感じ。まさに「血にまみれることの爽快さ」を、彼は感じるのだ。

そのような殴り合いはその後も何度か続き、その度に参加者が増えていく。そしていつしかその集まりは「ファイト・クラブ」と呼ばれるようになった。

Sometimes, all you could hear were the flat, hard packing sounds over the yelling.(聞こえるのは叫び声とはじけるパンチの響き)
Or the wet choke when someone gasped and sprayed…(ゲーッと血を吐く声)
You weren’t alive anywhere like you were there.(生きてることを実感できた)

僕が初めて人に殴られたのは、小学校3年生の給食の時間だった。そのときのことは、今でもはっきり覚えている。なぜならそれまでの僕は人に殴られたことはおろか、怒鳴られたことすらなかったから。

直接のきっかけは、給食委員として他のクラスメイトを注意する彼に僕が、やや挑発的に「偉そうに注意しているけど君はどうなんだ」というようなことを言ったから。僕もだいぶ悪い。彼もまた図星だったのだろう。怒りに満ちた表情で、凄みをきかせて歩み寄ってくる彼。普段とは違う様子にビビる僕。だんだんと距離が近づいてくるその瞬間、フラッシュが焚かれたように視界が遠のきつつ、熱い何かが顔を伝う。そしてそのまま倒れ込んだ。


目が覚めたのはそれから少し経った後で、僕は保健室のベッドに横たわっていた。鼻にはティッシュが詰まっていて、脇のトレイには大量の真っ赤なティッシュがあった。それを見て僕は、また気絶してしまった。

これが僕が初めて人に殴られたときの記憶だ。その後も何度か人に殴られたことがあるんだけど、後にも先にもこのときの記憶が強烈に残っている。今から15年以上も前のことなのに、なんでこんなに鮮明に覚えているのだろうか。多分それは初めて「生きていることを実感した」からだろうと思う。生まれて初めて見る大量の自分の血と緊急事態を知らせるのように騒ぎ立てる自分の心臓。それまでの僕は、言い方は悪いが「甘やかされた存在」だった。だからこそ殴られたとき不思議と自分が自分であることを実感したのだと思う。

人間は殴られれば痛いし、血も出る。それは生きているからだと、身をもって実感したんだと。

ファイト・クラブの連中も同じく「生きている実感」を求めている。彼らはチンピラのような不良から、一般の会社に努める会社員までさまざまな階層の人間から集まっていた。決して荒くれ者だけが集まっていたわけではない。彼らは共通してこの社会に対する何らかの満たされなさを感じていた。だから生の実感が伴う「戦い」を求めて、集まるのだ。

そしてその欲望は当初の目的から大きくかけ離れていくことになっていくのだけれど……。

消費文明の世の中で「生の実感」を取り戻す

もう少し、「生の実感」を考える。

ファイト・クラブが発足するきっかけとなった夜のこと。バーにて「なぜ生きるのに必要でないブランドの名前を皆が知っているのか?」とタイラーに尋ねられ「それは消費文明の世の中だからさ」と返すシーンがある。まさに彼こそ消費文明の最先端で、積極的に消費をしている人間だ。文明に順応し、理想的な振る舞いをしているにもかかわらず、彼は生きていることを実感できていない。なぜだろうか?


思うにそれは、単純な話で彼の消費行動が求める満足に結びついていないからではないだろうか。彼は北欧家具を「ブランド」と一括りにする。これもちょっと不思議な話で、家具好きならデザイナーや商品名で呼びそうなものなのに(ポール・ヘニングセン、アルネ・ヤコブセンなど)、彼はダイニングセットやソファとか、カテゴリで話す。

映画の尺の都合上かもしれないが、その理由の一つとして、彼が購入する家具は生活を豊かにするためではなく「ブランド」という観念的な価値を消費したいがために集められているからだと思う。だから、彼の部屋の冷蔵庫には食料らしいものは何もない。それは、冷蔵庫が彼の食欲を満たすツールとしてではなく、「ブランドを購入すること」を満たすためのツールとして買われているからだ。思えば、彼がなぜ北欧家具にのめり込んだ理由も明らかではない。

彼の望んだ「ブランド」で整えられた部屋で、瓶詰めのバターか何かを舐める彼の姿は、果たして彼が「本当に」望んだ姿なのだろうか? おそらく、それは違うのだろう。


話を少し戻して僕が殴られたその日の夜。殴ってきたクラスメイトから家に電話がかかってきた。彼は涙声で僕を殴った理由を話し、謝ってくれた。その涙は多分、僕を殴った後悔よりも両親や先生に怒られた悲しみなんだろうと思ったけど、僕は別に気にしてないよといって電話を切った。何となく、彼が人を殴ったことの意味を「実感」をもって理解してくれたような気がしたから。

だからというわけではないけれど「生の実感」が持てないのは、ブランド買いのような観念的な価値の消費が「実感を伴っていないから」なのではと思うことがある。たとえば、北欧家具ならその物自体に愛着を持って接したり、出張旅行にしても単なる移動ではなく楽しみを見出したりというような。もちろん、楽しむためにはそれなりの工夫が必要だけれど、そうした内側から湧き上がってくるものと結びつく「過程」にこそ、「生の実感」が伴うのだと思う。

だからこそ彼にとってファイト・クラブは1つの「生の実感」たりえたのだろう。殴られてカッとなる気持ち。相手をぶちのめし自分が強いと皆に知らしめたいという気持ち。動物的本能を呼び覚ましてくれる何かが、そこにはあったのではないだろうか。

We are consumers. We are by-products of a lifestyle obsession.(我々は消費者だ。ライフスタイルに仕える奴隷だ)
Things you own end up owing you.(お前は物に支配されている)

タイラーは彼に話す。確かにそうかもしれない。でも、それだけじゃないはず。少なくとも物との向き合い方次第で「生の実感」を新しく得られる余地はあるんじゃないかと思う。必ずしも殴り合いが最適解ではないと。

映画のラスト。憑き物が落ちてスッキリした顔で「これからはすべて良くなる」と話す彼を見て、僕はそう思うのだ。かなり甘い物の見方かもしれないけどね。


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