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第12回:『ライ麦畑で出会ったら』(2015)

旅行にいくときは、必ず本を持っていく。1泊2日なら1冊、2泊3日なら2冊。そしてもっと長い滞在なら、文庫本じゃなくて単行本、それもとびきり分厚い本を。

いつからこの習慣を始めたのかはちょっと思い出せないけれど、本を手に取るたびに「あぁ、この本はどこそこで読んだ本だったけ。そういえば、あのとき……」と、思い出を蘇らせてくれるから個人的におすすめです。どんな本を持っていくかについては、家から出るときに一番近くにあった本を持っていくこともあるし、行き先に関連する本を持っていくこともある。ただ、1つだけ条件がある。それは、「小説」を選ぶということ。


『ライ麦畑で出会ったら』(2015)

どうして小説なのかというと、小説にはきちんと「始まり」と「終わり」があるから。シリーズもので1冊じゃ終わらない小説もあるけれど、多くは1冊で物語が完結する。旅行も同じく、カバンに服やらなにやらを詰めて電車やバス、飛行機に乗って目的地へ向かい、観光地をいくつも回って、土産物屋でその土地のものをお土産に買って帰路につく。そしてまた新しい旅へ向かう。まるで本を片っ端から読んでいくように。僕は本好きだけど、実際に読んできた本の冊数はそこまで多くないから、そのイメージは当てはまらないけれど。ただ、こういった旅の様子は小説そのものなんじゃないかと思っている。何かが記憶に残る出来事が起こることとかも。



映画『ライ麦畑で出会ったら』は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』に「魂を揺さぶられた」とする主人公ジェイミーが、長年世間から身を隠しているサリンジャー本人に、同作を舞台化する許可を取りに行こうとする話。ところどころ無計画さや純粋さが垣間見えて、気恥ずかしくなる瞬間もあるが、目的へまっすぐ進もうとする姿が爽やかな、そんな作品です。思えば、この『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は僕にとっても大切な小説で、高校生のころに初めて読んで以来、何ヶ月かおきに読んでいたりする。最初はホールデン・コールフィールドに心を寄せながら、次は意外にもルームメイトのストラドレイターに。そして最近は、教師のミスタ・アンドリーニに対して。実は、つい先週、熱海に一人で旅行に行ったときも、この本を持っていった。なんとなく、熱海にはこの本が似合う気がして。熱海はニューヨークのような都会じゃないけれど。


清々しいまでのロード・ムービー

今回の映画の瞬間は、1場面を取り上げようと思ったけれど、今作のようなロード・ムービーには、その手法は似合わない。まさに「旅」そのものが重要な意味を持つからだ。なぜ旅に出るのか、そこで何を語るのか、何を見て、何に触れるのか。とてもじゃないけれど、1場面だけを取り出して説明できるものじゃない。もちろん、僕の説明能力が欠けていることも理由に含まれるが。ただ、それじゃ文章が終わらないので、この旅がジェイミーにとってどんな意味があったのか、それともなかったのかを考えてみよう。


うむ、難しいけれど強いて挙げるとしたら、ジェイミーにとってこの旅は「他者への共感能力」を獲得するもんのだったのではないかと思う。まず、彼は良くも悪くも自分勝手で、見えているのは自分だけだった。ホールデンを演じるのは「自分しかいない」と思っているし、自分の信じる正義から危ないヤツラとつるむ友だちを先生に密告しようともする。一緒に旅をするディーディーに静かに暮らしたいサリンジャーを尋ねることの罪悪感はないのか?と聞かれても、どこか上の空。彼の頭には、「サリンジャーに会えば自分のスクリプトを受け入れてくれ、しかも舞台化の約束もつけてくれるはず」という思い上がった自意識しかないから。全部自分の考えだけ。だからディーディーはあきれたように「男の子ってみんなウブなんだから」と苛立ちを込めて言う。

思えば、ジェイミーの口から学校を休んで旅に付き合い、車も出してくれるディーディーへの感謝の言葉は出てこない。それでいてまるで「正しいことであれば、みんな賛同して、自分の背中を押してくれるはず」と言わんばかりに振る舞う。こんなのってたまったもんじゃないですよね、一緒に旅をする人間からしたら。


しかし旅の途中でジェイミーは、いかに自分が「独りよがり」で「自分勝手」だったことに気づく。傍らで自分に好意を寄せてくれるディーディーの存在、ホールデンを自分の子どもとして大切にしていたいサリンジャー、そしてベトナム戦争で亡くなった兄。こうした存在がどれだけ自分に「何か」を与え続けていたのか、そして自分はそれをただ、受け取るだけだったのかと。サリンジャーはジェイミーに言う。「Why don't you write a original play?(オリジナルの作品を書けよ)」と。受け取る側でなく、与える側になれ。そんなニュアンスを僕は感じ取った。

人は誰しも何かを憧れを持ち、その人になりたいと強く願うものかもしれない。それは実在する誰かの場合もあるし、ジェイミーのように物語の登場人物かもしれない。確かに、彼らに触発されることは大切だ。けれど、どれだけ似せようとしてもその本人にはなれない。自分は、自分という存在を受け入れ高めていくしかないのだ。どれだけホールデン・コーンフィールドに想いを寄せていても、ホールデンはホールデンであって、ジェイミーにはなれない。そのことに気がついたからこそ、旅から帰ってきた彼は、ホールデンの役をテッドに譲り渡し、自分は観客席で見守る。自分が受け取る側から与える側になり始めたことの証として。そして彼は新しい場所へ旅立っていく。


小説は終わるが、物語はずっと続く

やっぱり、旅は良い。ある面において旅は終わりがあるように見えるけど、その旅から派生してまた別の行き先が現れる。若干25歳の僕が人生のことを語るなんておこがましいけれど、そのようにして人は旅から旅をするように、生きていくのかもしれない。小説は必ず終わる。けれど、その物語は決して「終わらない」。ジェイミーが自分自身の物語を歩みだしたように、その人自身の物語」があるはずだろうから。

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