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万葉時代、庶民の食事に遊ぶ

 今回、万葉集の歌が詠われた時代の庶民の生活を一番に代表する食事について、改めて、妄想して見ました。つまり、いつもの与太話です。ただ、結論として、ここでのものは明確な根拠を持つ与太話ですが、他方、従来の昭和以来、平成までの「学説」は全くの壮大なフェイクニュースの類です。
 万葉時代を主に飛鳥藤原京の時代から前期平城京時代とすると、この時代の庶民の食事風景は「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」で検索を行うことにより容易に復元写真付きの解説を見ることが出来ます。ただし、この復元された食事献立に学術上の信頼できる根拠が有るかと云うと全くありません。現在では立派なフェイクニュースの類なものです。うがった推測で、単純に正倉院文書や造石山寺所関係文書に示す当時の建設時の記録の中に朝廷が定めた運脚や庸労務時の日当支給規定と同等の支給品目・分量による舂米と塩の記事があり、その記録と万葉集に載る集歌3829の歌などから副菜を加えたものから庶民が食べただろう食材を組立、さらに調理方法では甑を使った強飯を想像した上でのものとなっています。なお、その時、本来なら学説では無い、一般向けの展示物では行うべき科学的な背景確認作業として、民俗学、栄養学、歴史学、生物学、地理学などから展示内容のクロスチェックを実施するような検証・検討は行っていないようです。その分、展示内容が科学的非難に耐えられないようなものになっているようです。

詠酢醤蒜鯛水葱謌
標訓 酢、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛、水葱(なぎ)を詠める歌
集歌3829 
原文 醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃煮物
訓読 醤酢(ひしはす)に蒜(ひる)搗(つ)きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)
私訳 醤と酢に蒜を混ぜ合わせて鯛で作ったご馳走を食べたいと空想しているのだから、私の目の前に現実に引き戻すような水葱の煮物を持って来るな。

 紹介した「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」で示すものは、一見、学問的に根拠が有るように思えますが、一方、この研究・調査には重大な欠点があります。展示物を担当した研究者は「人間は生物・動物に分類され、摂取カロリーが不十分だと生物として生存できない」と云う栄養学での基本中の基本の摂取カロリーと基礎代謝カロリーの関係について、まったく検討をしていないのです。このモデル食事献立で得られるカロリー摂取量と人間の基礎代謝量との問題は平成初期の段階で栄養学や医学方面の研究者から肉体労働時の最低摂取カロリー量の評価を含めて、人として生存不能なレベルと指摘されています。それで栄養学から見れば立派なフェイクニュースの類の分類となるのです。
 ちなみに、厚生労働省がまとめている1日に必要な推定カロリーは、男子18〜29歳の階層の身体活動レベルが高い(Ⅲ)区分に分類された場合は、厚生労働省「日本人の食事摂取基準(2020年版)」に従うと1日3,050 kcalが必要です。一方、奈良時代の庶民の食事とされたものの摂取カロリーは1食407kcalで、当時の風習では食事は1日2食ですから、提案の食事内容での摂取カロリーは1日約1,000 kcalとなります。それで、食事内容が提案された時点から、それでは人は生存できないと指摘されています。
 参考に、朝廷からお金や物資が支給される貴族や寺社には公務員に準じた家司などの使用人がおり、それらの人々には朝廷から受領したお金や支給物資の管理義務あり、そのため調達・支給した物資や食料などについては搬入元・数量・金額や入手した事由、また、使用先などを記帳し会計簿を作成しています。そのため、古文書や木簡などを通じて貴族たちが用いた食材から食生活の復元は可能と仮説を立てています。
 一方、庶民生活の記録はほとんど存在しないために、わずかに造石山寺所関係文書などに頼ることになります。その資料からすると一般の賃労働者へは労働報酬として脱穀・荒精米した舂米と塩だけが支給されます。他方、当時の賃労働者への舂米と塩との支給量は一日で全量が消費出来ないほどの分量(現在量で、米八合、塩30g)です。周辺農民が必須的に購入品目となる塩を見てみると、大正から昭和初期の近畿圏の塩消費量が23g/日・人と云う数字がありますから、賃労働者に30g/日・人の支給があれば毎日平均で5g/日・人程度の余剰が出ることになります。郷から集団上京して傭労働に従事する賃労働者たちは集団生活と調理の中で余剰となった塩などを使い、近隣農村民との物々交換により川魚、川蜷(貝)、野菜、獣肉などを調達する可能性がありますし、それを行っていたと考えられています。また、奈良の都には東西に公設の市場があり、朝廷はそのような物々交換の場を提供しています。また別途に現金収入としては、庸役への服務として原住地出発日から数えて服務日数が満30日を越えた労働者には給食支給規定とは別に「直」という賃金支払い制度があり、日当1日銅銭1文が支払われます。この日当賃金を使い公設市場などから食料を調達することも可能です。
 ただし、庶民が日常に行う物々交換や市場購入などは文字を使った購入記録を残しません。それを承知している昭和時代の研究者は文字による購入記録が確認出来ないものは未確定で、不確かであるとの理由で調査項目の対象外として、意図して摂取目的の食料品目から外します。それが先に紹介した「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」で示すものです。その結果、庶民の食生活は、昭和時代に、研究開始の前に設定した「農民の暮らしは、いかにも貧弱で貧困であった」との紹介が可能となります。昭和時代、皇親政治は人民搾取しかしない、人民はぎりぎりの生活しか許されなかった、との根拠のない空想的な思想があり、古代史研究はこの根拠のない空想的な思想に沿うことが研究でした。現在ではちょっと信じられない研究態度ですが、それが第二次世界大戦の敗戦後に流行った古代史研究態度です。
 昭和中期以前ですと、人の生活を前提とした食料品目の研究者は物々交換や自己調達の可能性を踏まえますが、奈良時代の食事を復元した研究者は文献上からすれば未確定で調査項目対象外となる物々交換や自己調達による食料品目調達の可能性の指摘を受け入れず、結果、文献による確定品目食材だけで食事を復元する為に、学術横断的な観点からすればフェイクニュースの類となります。また、それが昭和時代での研究開始前に予定した「農民は搾取され、貧困であった」という予定結論に十分に応えることになります。ある種、学問研究よりも皇親政治は人民搾取するものと決めつける特定の思想への迎合です。
 このようにフェイクニュースの類として確定しているカロリー摂取量と食料品目の問題とは別に、他の重大な疑問として指摘されている事項として、日本の庶民の食事風景で一番重要になる米の調理方法があります。
 現代の日本人の大多数は粳(うるち)米種のお米を水と一緒にお釜に入れて「炊く;炊飯調理」を行い「ご飯」として、主に箸を用いて食べます。ところが、従来からの古代の食生活研究者の主張は、奈良時代の庶民の米の調理方法は甑を用いた「蒸す;蒸飯調理」を行い、現在の赤飯のような「おこわ飯」として食べていたとします。これを反映して、「かしはら探訪ナビ」は粳米種のお米を、甑を用いて蒸飯調理した「おこわ飯(強飯)」を高坏に円錐形に盛ったスタイルを示します。
 ここで、そのような研究者が、現代での正しい学問研究からの逃亡や言い逃れを阻止する為に奈良時代のお米の品種を木簡や古文書から確認すると、当時の主力品種は中世に繋がる粳米種のお米(品種名:古僧子、地蔵子、狄帯建、畦越、稲益、白稲、女和早、白和世、須留女、小須流女など)で、蒸飯調理に適した糯(もち)米種のお米ではありません。米種と調理方法は強く関係性を持ちますから、当時の農民階層も強飯を主食としていたと主張するのなら、奈良時代の主力となる米の品種を木簡などの資料を使い示す必要があります。現時点では各種の文献や考古資料は強飯調理に不適な粳米種を示します。なお、ここでの話は日常生活の中でのお米の調理法を扱っていて、非日常の儀式や祭り、貴人歓迎などの特別な場面での糯米の調理法にすり替えての話は許さないことにします。つまり、万葉時代の稲作主力品種だったと思われる粳米種のお米の調理方法について話題としています。万葉集に「貪窮問答謌」があり、ここでは甑による調理方法がしめされていますが、その甑で調理された飯を食うのは筑前國守である山上憶良です。庶民じゃありません。九州全国と長門国を合わせた地域で官僚順列では第三位の高貴な官僚に対する食事準備です。
 補足として、「正倉院文書」から奈良時代の写経生に「粳米」を支給していますが、この粳米種のお米は蒸飯調理法には適さないと報告します。食文化研究者も日常で主に粳米を食べていたとすると調理方法に不合理性が生まれ、それで自己の主張と多くの資料が示すものが違うために困惑するのです。そのため、古代から中世での食文化研究の派生研究として「粳米種のお米の蒸飯調理法の再現」と云うものが研究テーマとして誕生しています。
 例の藻塩研究と同じです。考古学の遺物や文献では、飛鳥・奈良時代には食用塩は土師器壷、鉄釜、網代釜、石釜により海水から直接に煮詰めて製塩するか、網代釜で天日干しして製塩したことが判っていますし、薪コストからすると、それが当時としてはもっとも経済性があったとします。ところが、昭和の研究者が製法は不明だが、藻塩というものが食用塩だったと論文を書いた為に、昭和時代の観光ブームでの観光資源としての要請も相まって藻塩製法による食用塩を得ることが研究テーマになってしまいました。手間とコストからは海水を土器で煮つめるのが最適で、瀬戸内海沿岸各地の遺跡からは大量にそれを行った製塩土器が出土していますが、それは完全に無視です。さらに奈良時代に製鉄・製銅のための溶融促進剤となる工業塩のソーダ灰が大量に必要だったとの知識が考古学者に無かったこともあります。西欧ではソーダ灰の名称を持ちますが、これは海藻を焼いて製造した海藻灰塩で、日本語なら藻塩になります。工業技術からすれば、製鉄・製銅・ガラス製造にはソーダ灰(海藻灰塩)が必要なのは明らかですが、その工業塩のソーダ灰ではお土産になりません。それで、強アルカリ物質で健康に害がある藻塩を無理やりに古代の食用塩だと称して、お土産販売です。
 話を戻して、米調理についてネット上に西南学院大名誉教授の高倉洋彰氏が「炊くか蒸すか、それが問題だ」との記事を載せ、遺跡調査から「弥生時代には、炊いたご飯を食べていたと考えるのが自然だし、通説となった。」と指摘しています。別の民族学の報告では、平安時代の庶民のお米の調理法は「炊き込みご飯」や「おじや」のような調理方法で、土師器の煮炊具である鍋の中にお米などの穀類と副材を一緒に入れる調理方法:「糧飯」だったと報告します。また、「室町・安土桃山時代の食文化について(堀尾拓之・横山智子)」と言う題名を持つ調査報告では、安土桃山時代 石田三成の家臣で300石取りの中堅家臣だった山田去暦の娘のおあむが綴った『おあむ物語』の記事を引用して、普段の食事は「朝夕、雑炊」だったとし、その雑炊も少量の米に水を増やして、味噌に菜、豆、芋を混ぜるだけだったと保国します。
 この糧飯スタイルは、戦前に内務省が実施した全国食生活の調査からすると農村・漁村部では昭和初期まで続いています。つまり、従来の学説に遺跡調査の結果を重ねると、弥生時代まではお米などの穀類と副材を一緒に入れる調理方法:糧飯であり、平安時代以降もまた糧飯調理法です。加えて、奈良時代の遺跡から糧飯調理法を示唆する土鍋に吹きこぼれのオコゲが付着した調理土器が発掘されていますから、本当に従来学説のように庶民が古墳時代後期から奈良時代までの非常に限定した期間だけ、全国一斉に甑による蒸飯調理方法に変えたのか疑問があります。
 米に蒸飯調理方法を採用すると、副菜を加熱調理で調えるためには竈は甑竈と副菜調理の竈との複数必要で、非常に手間がかかるものとなります。これを全国の女性が受け入れたのでしょうか。考古学での遺跡発掘から奈良時代にあっても庶民は竪穴式住居に暮らしており、その竪穴式住居の竈の数は1つです。遺跡発掘が示す住居の竈の基数と調理土器からはお米などの穀類と副材を一緒に入れる調理方法:「糧飯」を支持します。
 もし、奈良時代が甑を用いて蒸飯調理した「おこわ飯(強飯)」によるとするならば、遺跡調査や文献が示す、平安時代になると再び全国規模で蒸飯調理方法が炊飯調理法へと戻ったことになりますが、すると「ナゼ、変えたのか」と云う大きな疑問が残ります。人類学や言語学などからすると、弥生時代、古墳時代、飛鳥・奈良時代、平安時代以降に渡って、住民の大多数は同じ大和民族であり、朝鮮半島や中国大陸のような戦乱などにより突然に大きな規模を持って民族が入れ替わるような歴史イベントは生じていません。古墳時代後期から奈良時代だけに甑を用いた蒸飯調理法を提案する時、その炊飯調理方法の変化を他の国々とは違い民族入換えと言う歴史イベントに求めるのは困難です。
 結果として、遺跡調査や民俗学研究成果からすると、奈良時代の庶民が蒸飯調理した「おこわ飯(強飯)」を食べていたというのは、これまた、フェイクニュースの類です。どうも、昭和時代中期に東南アジア方面を研究した人が、日本人と日本語の起源、さらに稲作のルーツをラオスからミャンマーの山岳部に求め、その地域に居住する山岳民族の調理方法が蒸飯調理だと思い込んだので、「日本も蒸飯調理だったはずだ」と類推し、その類推を強硬に主張した影響が大きいようです。現在では温帯ジャポニカ稲種の故郷は長江(揚子江)にほぼ確定していますし、東南アジア方面の人種や言語は縄文人とも弥生人とも直接の関係が無いことが明らかになっています。お米の調理方法でも、日本の炊飯方法は「炊干し法」に分類され、この調理方法は長江(揚子江)流域のものと同じです。この炊飯調理法の一種に、多めの水を入れた鍋に米を入れて煮立ったら粘り成分を持ったお湯を棄てざるにあげて蒸籠などで蒸す、又は、粘り成分を持ったお湯を棄てた鍋で蒸らす、「湯取り法」と言う調理方法があり、この調理方法は歴史的には黄河地方や朝鮮半島に見られるものです。ただし、これは最初に鍋で米を炊く工程がありますから甑を用いて最初から蒸すだけの蒸飯調理法とは別物です。
 また、2000年以降に改めて実施された正式の学術調査では東南アジアから南西アジアでのコメの調理法は、甑のような蒸し器を使用した蒸飯調理ではなく、最初に鍋で米を炊く工程を持つ「湯取り法」による粘りを取り除いたパサパサの飯にする調理法と判明しています。東南アジアでも日本と同様に粳米種のお米と糯米種のお米があり、その東南アジアでも日本と同様に糯米種のお米は甑のような蒸し器による蒸飯調理法で調理します。問題は調査員が現地調査をする前に一定の予断を持ってから実施と、粳米種ともち米種とで調理方法が違っていても、もち米種の蒸飯調理法だけを報告する可能性もありますし、粳米種の「湯取り法」による調理は近世になって生まれた調理法と自分に都合の良い判定をする可能性もあります。また、1980年代以前での日本人調査員は現地では現地の役人に引率された賓客ですので、現地でも特別食となる糯米の料理を提供された可能性もあります。高倉洋彰氏が指摘するように、山上憶良の貧窮問答に出て来る場面は国司巡視と云う賓客に対する特別食の料理の場面を詠ったものと同様な可能性です。
 先ほどの「炊干し法」の調理法の一種、糧飯調理法は非常に手軽な調理法ですし、貧乏人の調理法です。同じ鍋の中にお米などの穀類と副材を入れ、調理しますから、煮炊具の鍋は一つで良いので、薪などの節約になります。また、沿岸部以外の人たちは「購入」しなければいけない、貴重な調味料である「塩」も、一つの鍋だけの味付けだけですから大変な節約になります。つまり、鍋一つで手間が省け、薪や塩の節約になります。その超節約なため糧飯調理法は昭和時代初期まで伝わって来たのです。
 ここまでの確認作業で、万葉時代の庶民は生活環境の周囲で採取できる食材を使い、糧飯調理法で土師器の煮炊具を使って調理を行い、食事を取っていたと推測されることになります。
 奈良時代の食文化を紹介するものとして、『食の万葉集 古代の食生活を科学する』(廣瀬卓、中公新書)と云う有名な書籍があります。この本の特徴は万葉集の歌に出て来る食材を中心に置き、さらに奈良時代から平安時代初期の多くの書籍を使い、具体的に書籍類から引用しながら奈良時代に食されていた食材を紹介します。非常に信頼性のある、奈良時代の食文化の紹介本です。
 この「食の万葉集」から、奈良の京の庶民の食事風景を考えてみたいと思います。ただ実際は、庶民の食事の調理方法は土師器の煮炊具を使った糧飯が主体で、おなかが膨れれば良い的なもので、経験的に栄養失調からの疾病にならないように副材を調達していたと思われます。つまり、庶民の食事風景の再現とは、ほぼ、副材を探すことと同じようなものです。ちなみに、考古学などの成果で万葉時代人の体格は男子が平均身長163cm程度もあり、これは昭和中期ごろの体格と同等で、上古代から昭和期に渡る日本の歴史の中では、一番、体格が大きい時代です。体重計で有名なタニタは、万葉時代人の体格が大きかった理由として、十分な食料と魚介類・獣肉などのタンパク質などの摂取のバランスが良かったためではないかと推測します。
 万葉時代人の庶民の食事を類推する上で、現代の禅僧の食事を研究した人の報告を参考としますと、禅僧の通常の生活時期では約2070kcalを摂取し、栄養素区分での摂取の状況は一般男性の摂取に比べ蛋白質は65%、脂質は36%、炭水化物は123%だそうです。カルシウム等のミネラルは野菜、海藻、大豆などから摂取していると報告しています。禅僧の生活活動レベルが軽に区分されると、厚生労働省「日本人の食事摂取基準(2020年版)」からすると2,300kcalですが、身長などのファクターやがんもどきや厚揚げなどの油物の扱いを確認するとぎりぎりクリア―なのかもしれません。
 さらに報告者は禅僧の通常食で蛋白質や脂質の摂取量が少なくてもカルシウムが十分に摂取出来る理由として、食品100gに含まれるカルシウムの量は牛乳が110mgなのに対して、大豆と食用油が中心となる油あげ310mg、がんもどき270mg、厚揚げ240mg、木綿豆腐93mg、小松菜150mg、春菊120mgの数値を上げ、禅僧の精進料理でも十分に健康的な食生活が可能とします。なお、日本で豆腐が文献に現れるのはほぼ鎌倉時代の寿永2年(1183)の奈良春日大社の神主の日記だそうですので、奈良時代の庶民の食生活に豆腐タンパク質を取り込むのは難しいと思います。
 他方、「食の万葉集」では、万葉時代の農村・山村部での日常的な蛋白質・脂質の供給源として川魚や貝類を指摘しています。河川に生息する魚で古くから食用とされてきたのは、鮎、イワナ、ヤマメ、カジカ、ウグイ、サワガニなどで、また、平地の田んぼや堰、沼に生息する魚では、ウナギ、ドジョウ、コイ、フナ、ナマズ、モクズガニなどです。この他にシジミ、タニシ、カラスカイなどの貝類があります。
 万葉集に鮒を詠った歌を探しますと、集歌625の歌や集歌3828の歌があります。集歌625の歌は平安時代には根こそぎ漁獲するとして禁止された藻場を巻網で囲って魚を取る藻巻漁で鮒を取ったことに絡めて詠ったものですし、集歌3828の歌は生活圏の水路で小鮒を取って食べていた風景からのものです。

 集歌625
原文 奥弊徃 邊去伊麻夜 為妹 吾漁有 藻臥束鮒
訓読 沖辺(おくへ)往(い)き辺(へ)を去(い)き今や妹しため吾が漁(すなど)れる藻(も)臥(ふ)し束鮒(つかふな)
私訳 沖に出たり岸辺を行ったりして、たった今、愛しい貴女のために私が捕まえた藻の間に隠れていた沢山の鮒です。

集歌3828
原文 香塗流 塔尓莫依 川隈乃 屎鮒喫有 痛女奴
訓読 香(こり)塗(ぬ)れる塔(たふ)にな寄りそ川隈(かはくま)の屎鮒(くそふな)食(は)めるいたき女(め)奴(やつこ)
私訳 好い匂いのする香を塗った貴い仏塔には近寄るな。川の曲がりにある厠から流れる屎を餌に育った鮒を食べたような臭いがきつい女の召使よ。

 次に集歌3649の歌は巻貝を茹でて貝の内臓が黒く変化した色変から髪毛の色の比喩として詠うものですから、日常的にタニシのような巻貝を食べていたことが判ります。

集歌3649
原文 可母自毛能 宇伎祢乎須礼婆 美奈能和多 可具呂伎可美尓 都由曽於伎尓家類
訓読 鴨じもの浮寝(うきね)をすれば蜷(みな)の腸(わた)か黒(かぐろ)き髪に露ぞ置きにける
私訳 鴨のように浮寝をすると、蜷の腸のような真黒な髪に波飛沫で露が降りたようです。

 また、集歌3853の歌のように万葉時代からの土用の鰻を詠う歌があります。

集歌3853 
原文 石麿尓 吾物申 夏痩尓 告跡云物曽 武奈伎取食 (賣世反也)
訓読 石麿(いしまろ)に吾(われ)物申す夏(なつ)痩(やせ)に告(つ)くといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ (「めせ」の反なり)
私訳 石麿様に私は申し上げます。夏痩せにお勧めしますと云います。鰻を捕ってお召し上がりなさい。

 さらに集歌387の歌や集歌1717の歌から、日常的に川漁で簗漁や網漁を行っていたことが判ります。現代のアユ釣りやヘラブナ釣りのような趣味での川漁ではありませんから、獲物は食べることが目的です。およそ、河川や湖沼の状況に合わせて、多様な漁法が行われ魚、カニ、貝などが収穫されていたと考えます。

集歌387
原文 古尓 楔打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳
訓読 古(いにしへ)に梁(やな)打つ人の無かりせば此処(ここ)もあらまし柘(つみ)し枝(えだ)はも
私訳 昔に川に梁を作る人も居なかったら、今でもここにあるでしょう、柘の枝は。

集歌1717
原文 三川之 淵瀬物不落 左提刺尓 衣手湖 干兒波無尓
訓読 三川(みつかは)し淵(ふち)瀬(せ)もおちず小網(さで)さすに衣手(ころもて)湖(ひづ)き干(ほ)す兒はなみに
私訳 三川で淵や瀬も残さずに小さな網を刺すと、袖は水が溜まるほどに濡れても、それを乾かす子供達は居ない。

 万葉集の歌と近世の川魚の図鑑とを合わせれば、庶民は種類豊かに川魚を食べていたと推定ができるはずですが、不思議に「かしはら探訪ナビ・貴族・役人と庶民の食卓」にはそのようなシーンはありません。日本書紀の持統六年(692)の閏五月に、洪水災害に遭遇した地域に対し朝廷は次のような指示をしています、「大水。遣使、循行郡国、禀貸災害不能自存者。令、得漁採山林池沢。」この指示では、洪水で種籾を失った者には種籾の貸出、また、朝廷の禁漁区を開放して山野の植物と池沢の魚を獲って急場をしのげとしています。逆に考えますと、山野の植物や池沢の魚を獲って食べるのが、当時の庶民の生活です。
 ちなみに日本原産の野菜として、フキ・セリ・ウド・ハマボウフウ・タデ・ジュンサイ・アサツキ・ラッキョウ・ニラ・ダイコン(ナズナ)・ミョウガ・サンショウ・ワサビ・ジネンジョ・ヒシ・マコモ・クロクワイ・ヒユ・ヤブカンゾウ・オニユリ・コオニユリ・ヤマユリ・アシタバ・ミツバ・ツルナ・ゴボウアザミ・シュンランが紹介されており、これとは別に食べられる野草としてヨモギ・タンポポ・ハハコクサ・クズ・ノイバラ・ノビル・スイバ・マタケ・ヒメタケなどが紹介されています。また、各種の春の木芽も立派な食材です。   
 先の川魚の内、大量に獲れる小鮒やオイカワなどの小魚は干物に加工しておけば、糧飯の出汁とたんぱく源に持ってこいですし、マタケやヒメタケのタケノコは塩漬けや乾燥させれば保存食になります。西日本圏ならヨモギ、タンポポ、ノビルなどは年中、生活圏で採取が容易です。これらをお米などの穀類、魚、野菜を一緒に土鍋に煮れば、糧飯となります。
 近世の庶民の日常の食事については、「農村の『食』の変容からみた近代史―農村調査資料に聴く」(野本京子;2019年9月)と云う、研究論文があります。そこから近世の農村部の食事状況を説明する部分を抜粋し、紹介します。

 明治期に行われた食にかかわる調査として、資料①②③の調査がある。②と③が「常食」という語を用いているのに対し、1918(大正 7)年と1919年段階の調査(④⑤)では、「主食物」ないし「主要食料」へと調査の名称が変わっている。⑥(調査時点は1918年)も該当項目を見ると、「主食物調査と副食物調査」を用いている。資料①の調査は、明治11(1868)年3月から翌年10月にかけて吏員1~2名が一組になり、地方に赴いて各地の食料について調査したものである。食物の構成比を示しているのだが、一例として静岡県についてみてみよう。
1.駿河 米百分の二十九、麦百分の三十七、稗百分の十二、粟百分の十二、雑類(甘藷・南瓜等)百分の十
2.遠江 上等(全住民の三割)皆米、中等(同三割)米五・麦五、下等(同二割)米三・麦七、最下等(同二割)米二・麦その他八
3.伊豆 米七、麦・稗・粟三
 数字自体はおよその目安だと思われるが、食べ方としては、糧飯(米に麦や稗・粟・甘藷などをまぜて炊いたもの)や、大根や大根葉などの野菜を炊き込んだ雑炊のように、かさを増やす工夫がなされた。当時は主食の占める比重が非常に高く、また雑炊のように、農村地域では主食に対し副食(おかず)が明確に区分されにくい食事情があった。
参照資料:
①       1879(明治 12)年 地租改正事務局『各地方歴観記』(大蔵省「震災焼残文書」)中の「農民食料」に関する記述。各地の調査資料中「農民食料」の部分を抜粋したものが、小野武夫(1944)に収録されている。
②       1881(明治14)年 農商務省農務局『第二次農務統計表』中の「人民常食種類比例」
③       1888(明治21)年 大日本農会『農事統計表』中の「常食物種別及ヒ米麦供需」
④       1918(大正7)年 内務省衛生局保健衛生調査会『全国主食物調査
⑤       1939(昭和14)年 大正八年臨時産業調査局調『道府県に於ける主要食料の消費状況の変遷』農林省米穀局。『長期経済統計』第 13 巻 梅村又次ほか『地域経済統計』(東洋経済新報社、1983 年)に概要が採録されている。
⑥       1929(昭和4)年 内務省衛生局『農村保健衛生実地調査成績』

 紹介しました野本京子氏が研究に使用した基礎資料は国の調査記録ですから、食の歴史を扱う専門家には十分に知られた資料と思います。ところが、「糧飯」文化と云うものを歴史では扱われないのが実に不思議です。
 最後の補足として、江戸時代の江戸市中や大阪市中では野菜はありましたが、農村部とは違い、現金購入品目ですし、燃料の薪や炭も現金購入品目です。調理済の二八そばが一杯24文の時代に生の状態の大根一本10文程度だったとします。そのため、農村・漁村では生活圏の周辺の自然から獲れる無料の食材で糧飯を調理するのが安価で簡便なのに対し、江戸市中や大阪市中では一日一回、炊いたご飯に漬物とわずかな干物が安価で簡便です。また、江戸市中の大工職人などの間に職場へお弁当持参の風習が生まれた為、必然、お弁当のために硬く炊いて弁当箱で運搬できるご飯に漬物と云う食文化が特殊に生まれています。明治以前の日本全国からすれば、江戸町人の硬く炊いたご飯に漬物と云う姿は、非常に特殊な食事文化です。それが「江戸患い」という言葉が示すように、ご飯に漬物と云う食文化が生んだビタミン不足による脚気という江戸特有の疾病として現れて来ます。
 フェイクニュースは意図した作為のものですから、その作為に都合の悪いことは採用しませんし、取り上げません。確かにそのようなものでしょうが、それを教育の現場に持ち込むのは、さて。

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