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墨子と楊朱、自己中心主義(ミーイズム)との戦い

 今回のものは私の墨子や楊朱に対する感想の備忘録のようなものです。また、正統な教育を受けていないものが、ただただ、独善で墨子や楊朱の原文を眺めていますから、解釈はトンデモですし、眉に唾をたっぷり付けたものとなっています。
 さて、ご存じのように原文の万葉集という詩歌集は、その表記が漢語と万葉仮名と云う漢字だけで表記された作品の為、外見からは漢字文学として理解し易いものがあります。それを新撰万葉集の序文では「漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。」と述べ、外見からすると、大陸の「詩」や「賦」のように感じられるが、実はそうではないとします。そうではありますが、それでも万葉集の歌の内容をじっくり鑑賞するより、表層表記の語句と漢籍の語句との比較を行い、漢文学の強い影響が有ると報告するのが無難です。
 そうした時、明治から昭和時代の万葉集研究の最も盛り上がった時代、漢籍の基盤は儒学系のものだけのような感があります。ところが、儒学が大陸側で中心となって来るのは晩唐以降ではないでしょうか。有名ところの、儒学思想家 孟子の再発見は唐代の韓愈まで待つ必要があるようです。また同様に荀子は現在では儒学者と扱われていますが、儒学思想家として扱われるのは同じように唐代の楊倞の『孫卿新書』を改めた『荀子』まで待つ必要があります。現代の認識と違い、官吏登用制度の科挙の試験科目に儒学が押す四書五経が採用されていますが、唐の思想中心は道教や仏教であって儒学ではありません。また、困ったことに『論語』の補完書として魏の王粛が再発見した『孔子家語』が世に流れ、その中での「子路覆醢」の解釈から孔丘の人間性が話題として扱われています。当然、儒学が興隆を迎えた宋代後半にはこの『孔子家語』は偽書と断定されます。
 万葉集時代、思想として薄葬令を施行し、それを人倫とした時代です。それは儒学の礼を真っ向から否定したものです。この薄葬令が仏教と結びつき、極端化すると嵯峨天皇の檀林皇后九相図の世界として現れます。また、この時代の流れから江戸期になるまで日本人は「家」として墓を持たなかったとします。大陸や半島での、僧侶が同輩により仏教で葬儀を行い、親族が儒教で葬儀して一族の墓に納める姿からすると全くに違います。このように人の最大な儀礼である葬儀の態度から眺めますと、当時の日本人の生活にも思想にも儒学は無いのです。
 ここで表題に掲げたテーマに入りますが、その最初に日本人には理解しにくいのですが、中国古典思想家の代表とされる墨子や楊朱たちの時代、周代春秋時代から戦国時代にあっても中国人(中華人)なるものの意味合いは定まっていません。戦国時代、大国と目された秦国は西方民族、趙国は北方民族、楚国は南方民族との強い関係性を指摘され、中原中央に殷・周時代から居住する人々からは、異国や蛮族の雰囲気で扱われます。
 その背景の一つとして、墨子は節葬下篇で人の生活風習の根底に横たわる葬儀の風習について、中原の土葬に対して楚国南方の炎人國では殯(もがり)を、秦国西方の儀渠國では火葬の風習を列挙します。そして、それらの例からそれぞれの地域にはそれぞれの風習・価値観や社会規範があり、中原の儒者が説く彼らの礼儀だけでは社会規定とその正邪の判定は出来ないとします。また、中国語の歴史で示すように秦帝国の始皇帝の漢字統一以前となる前秦時代、春秋戦国時代にあっては文字と文章構文や言葉、また、社会慣習に由来する社会規範も統一されていません。一方、そのような時代ですから、諸国間の交流では何らかのマナー(礼儀・式次第)が必要です。礼儀・式次第の取り扱いは、その時代の文化先進地域であった中原地域のものを尊重したようです。そこに周礼からその時代に即した礼儀を組み立てた儒者に需要があったのでしょう。だからと云って、その儒者の礼儀が正義でもありません。
 そのような未だ統一された国家・国民の概念や社会規範が無い状況にあって、製鉄技術などの革新からの鉄器農具の急速な普及を背景とした食料の増産、そこからの人口の急増、さらにそれを起爆として良好な農地を求めて人々の大規模な流動が生まれています。周代初期には主要な国々は周国を含め12か国としますが、春秋期中期には『春秋左氏伝』に従うと諸国と称される地域が約140の諸侯の名として記録に残るほどとなります。なお、ウキペディアに載る征服者が明らかな春秋期諸侯の数は約190か国が示されています。
 従来の血族を基盤とする太古からの固定された地区内での小規模集落から人々が荒野に溢れ、その荒野で新たな開拓村落・地域が急増する時代です。開拓村落の構成員は旧来の村落から溢れ出た人たちですから血縁関係はありません。生活をしていく上で必要な水路や道路などの整備、また、外敵者からの防衛を共にするような利害関係だけでの繋がりです。
 未だ統一された国家・国民の概念の無い状況での多様な生活風習を持つ多民族が入り乱れた状況で村落が発展していきますと、その村落の安定・平安を保つ為に他地域や他国から略奪・侵略されないため自主防衛や富国強兵策が必要となります。しかしながら血縁関係などで繋がらないそれぞれの人々が強い自己中心主義者ですと自主防衛や富国強兵策を実行するための基礎となる政治の方向性を一つのベクトルに向けることは不可能です。
 春秋時代中期から末期の段階では、まだ、墨翟の思想が示すように中国中原の周辺地域では人口よりも開拓可能な土地の方に余剰がありました。時代として、土地開発の労働力が絶対的に不足する状況でした。古代中国の地域間侵略戦争では相手側の物資の略奪や生産基盤の破壊だけでなく、生産の動力となる農民や工人の略取連行も重要な目的でした。耕作可能な土地が余剰で労働力が過少な時代ですから戦争に負けると人々は強制移住を求められ、故郷を失い、また血族・姻戚関係が解体されます。
 時代として、周代初め、約12か国と区分される地域が春秋時代中期には約140か国の地域に分枝・発展し、やがてそれが春秋時代末期に向かって、逆に雄国7か国へと吸収・集約していきます。春秋時代中期から末期、下克上や戦乱を通じて約140か国の地域国家が規模を持つ雄国7か国へと集約する、そのような時代に墨子(墨翟)の思想が生まれています。
 墨翟は安定した地域や国家がない状況を前提に、如何に安定した地域や国家を建設するかの方法論を説きます。墨翟は方法論の中で、具体的な自主防衛や富国強兵策を示し、それを弟子たちとともに実践します。その政策実効性を担保するために血統・姻戚関係によるものから、能力主義による人材登用への変換を唱え、それを墨子集団で実践し成果を示します。為政者が墨子集団の成果を確認し、政治に墨翟の思想を取り入れるようになると、墨学に賛同しその発展型を説く者、反発し旧来の社会を理想とする者など、いろいろな思想家が現れて来ます。その状況を「諸子百家」の言葉で表します。
 時間が前後しますが、墨翟より一世代前の思想家 孔丘は社会の安定を保つ為に殷・周時代からの中原地域で行われていた祭祀儀礼を尊重し、血統・姻戚関係を重視した伝統を保つことを提唱し、その伝統を担保する為に殷・周時代からの統治者と被統治者との関係性と区分を厳格にすることを求めます。孔丘は伝統の礼による社会秩序の維持を説きますが、問題は、孔丘が下克上や戦乱を通じて約140か国の地域が雄国7か国へと集約する激動の時代、その激動に巻き込まれた被統治者の日常の生活をどうするか、戦国七雄と成れなかったその他の地域の諸侯やその家臣団をどうするのか、などの社会矛盾には興味を持たなかったことです。孔丘は勝ち残った統治者に対して儒者六芸から理想の統治者の姿を説きますが、儒者の思想には民百姓の生活は想定されていません。孔丘の儒学は君臣・父子の上下関係での忠・孝・仁ですから、被統治民である民百姓は統治者を支えるものであって、上位の統治者が下位の民百姓の為に為政を行うものではありません。最大の可能性として、仁からの憐みの対象です。
 伝承では墨翟は孔丘の孫弟子に儒学を学んだと思われますが、民百姓を為政の対象としない儒学に見切りをつけて、民百姓を基盤として安定した社会や国家を建設することを目指して墨学を起こします。このような背景があるために、墨翟は儒学者側から下層民出身、刑罰で身分を失った人、痩せで日焼けした人などと悪評判をたてられます。
 次に墨翟より少し遅れ、地域勝ち抜き戦も終わり戦国七雄に集約した時代、楊朱が現れます。楊朱と孟子は同じぐらいの時代の人で、戦国七雄の首都を含む中心地域では一端の社会的安定が保たれ、そのような状態が約150年程度、続きます。墨翟の次の世代の思想家は戦国七雄の国境地帯は別として、中心地域では一端の社会的安定が保たれている状態を前提とした思想を展開します。楊朱は時に儒学者側から私欲を追求する快楽主義者と批判されますが、私欲を追求するには安定した社会と警備が必要です。戦乱や動乱状態では私欲を追求するにも、その欲を実現するための物資などの手当て時代が出来ません。財産があっても、日々、強盗や戦乱で取り上げられたのでは話になりません。血で血を洗う戦乱・下克上の時代、性善説から理想の君主論を唱えても、「性善説って、食べると美味しいの」のように誰にも相手にされません。そのような状況では富国強兵や軍事技術を実践する方法論が求まられます。つまり、墨学です。
 戦国七雄で社会が一端の安定を保った時代、楊朱は孔丘たち儒学者の思想の根底にある「公利」や「天下の利」の定義について疑問を投げかけます。為政が民百姓の為でなく、統治者の為なら、儒者が唱える「公利」や「天下の利」とは統治者のための「利」なのかと云う疑問です。極端な話、「天下の利」とは戦国七雄へと集約された、その限定された統治者のためだけの「利」なのかです。そのような統治者が行う盛大な葬儀や音楽の演奏だけでも20~30人の奏者を必要とする音楽を伴う宴会が、社会に必要な礼なのかと儒者に確認します。そして、そのような王が行う厚葬や音楽での浪費と個人が刹那に楽しむ歓楽との差は何かを問います。楊朱は「相捐之道、非不相哀也。不含珠玉、不服文錦、不陳犧牲、不設明器也。」と、死者を悼む行いは共に悲しみを分かち合うべきですが、儒者が求める死者の身に財宝を添え、華美な服で包み、また、葬儀では多くの犠牲を並び立て、儀式の用具を設置するようなことではないと否定します。
 楊朱は「公利」や「天下の利」が統治者の為だけのものなら、その公利のために奉仕は出来ない。己の人生はたかだか40年、それならしたいことをして人生を楽しみたいと主張します。この主張が単純な快楽主義かというと、それは違うと思います。ただ、これでは儒学者は困ります。それで儒学者は単純に楊朱を快楽主義として批難します。
  さて、墨翟の思想では、人間の本質は自己中心主義(ミーイズム)と考えます。その前提で、安定した社会秩序の構築と維持のため、如何に自己中心主義をコントロールするかを思索します。墨翟は公平な利と規定・罰則により安定した社会秩序へと誘導することを唱えます。つまり、明示された法治による政治です。またそれは原則として例外規定のない法治による政治です。楊朱はたかだか40年の人生、己がしたいことをして、人生を楽しみたいとしますから、これは自己中心主義です。周代戦国時代前期、世の知識人は楊朱と墨翟とを二大思想と扱います。これからしますと、楊朱も墨翟も、また、その時代の知識人も同様に人間の本質は自己中心主義と考えています。
戦国時代の思想家 孟子は古代聖王のように為政者となるものには生来の性善があり、徳を持つ利他的仁者だと考えます。また、父子や夫婦の間には極端な自己中心主義はないと考えます。他方、荀子は生来の性善を求めることは立木の中にそのままに車輪と成る真円のものを探すようなものだから、人の本性は性悪として自己中心主義を教育により利他の心を持つ仁者へ誘導する必要があるとします。
 墨子集団の「墨家の法」の流れを汲む、商鞅、李斯、韓非子たち法家は、自己中心主義か、利他主義かなどの主義主張や態度を問わず、明文・公平な法と刑罰による人の本性に依存しない社会秩序維持を主張します。なお、墨翟は社会を構成する大多数の人々に利があることを示すことで大きな意味での利益誘導から規定・罰則を施行することで、より安定した社会秩序を目指します。一方、秦朝の行政に係る商鞅、李斯、韓非子たち法家の態度は為政の要請から定めた法と刑罰の強制施行です。安定した社会秩序は「公利」や「天下の利」ですが、ここでも、誰のための「公利」かの問題があります。民百姓ですか、それとも始皇帝ですか、です。そこに墨子集団の「墨家の法」と法家の法刑体制との違いがあります。
 参考として、楊朱は自己中心主義の快楽主義者と区分されますが「乃復為刑賞之所禁勧、名法之所進退」の考えを示しますから、安定した社会秩序を目的とした法治体制には異議を持たなかったと思われます。楊朱は法治による安定した社会秩序がなければ気ままには人生を謳歌できないことを理解しています。
 こうしてみますと、孔丘から現代まで約二千八百年に渡って、人間の本質は自己中心主義と云うことを認めながら、自己と他人との関係で、より安定した社会秩序を保つ為に、如何に折り合いを付けるかについて思索してきたのかもしれません。
 ただ、現時点では墨翟が説いた、社会を構成する大多数の人々に利があることを確認し、その社会を構成する人たちにより合意された法と罰則規定で社会秩序を保つ方策が最も優勢なのでしょう。なお、墨翟は法と罰則規定の導入には社会を構成する人々の相互信頼(他を愛する心:兼愛)の必要性を指摘します。相互不信では常時の警察による監視と管理が必要となります。なお、「社会を構成する人たちにより合意された法と罰則規定」を墨翟は「天意」と呼びます。現代風な言葉なら「声なき民の声」の意味合いです。
話を転じて、日本にあって万葉集の時代を眺めますと、日本国土を統一的に支配した大和朝廷の成立時期です。精神論や思想論から卑弥呼の時代、または倭五王の時代に倭朝廷が既に存在していたとしますが、それは日本国土を統一的に支配した大和朝廷ではありません。日本中世の戦国大名による地域支配のようなものであって、号令一下、地方の郡司や祝が中央に参集する組織を持った統一朝廷ではありません。それが初めて史書に現れるのは飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代です。つまり、天武天皇から持統天皇・高市太政大臣の時代に北部九州から北部関東/北陸までを支配地とする体制が整っています。それまでは合議制の地域連合と共通の祭祀主催者とを組み合わせた結合体です。
 日本最初の王都となる飛鳥藤原京の建設では中国から三輔黄図などの王都建設に係る書籍・資料や技術/技能者が採用・動員されています。また、斉明天皇や天武天皇は道教関係知識が豊富だったと推定されますから、日本国土を統一的に支配した大和朝廷の創成期となる天武天皇前後の時代には大量の中国書籍や知識はあったと推定されています。
 大和朝廷創成期の指導者はその大量の中国書籍や知識などを下に大和朝廷の性格と骨格を構築しますが、不思議に儒教を採用していません。これは唐王朝に習ったのでしょうか。唐王朝の初期から中期では精神基盤に道教と仏教を採用し、儀式・礼儀の仕様は儒教を採用します。また、行政実務は律令体制と称するように建前として例外規定を持たない成文法により施行します。
 古代史を扱う時に日本の御都合主義歴史学の良い点は、日本国土を統一的に支配した大和朝廷の創成期にどのようにしてそれが実行されたかを学問の対象にしないことです。伝統では神話の神々が生まれる以前である天地開闢の太古から、天皇家とその皇祖が日本国を統治していたことを前提にしますから、大和朝廷の真の創成期は理論的に存在しません。最大の可能性で神武天皇の東征を取り上げて終了です。特異的に王朝交代論を取り上げても、それぞれの王朝成立の具体的な誕生と成長への方法論と統治の体制論は学問の対象外です。
 他方、素人の歴史観の立場は、舒明天皇以降に最新の大量生産が可能な製鉄技術を手に入れた大和朝廷創成期の指導者は「国家神道」と云う装置を創り、その国家神道の神事に参集する地域代表者に鉄製農具や品種優良な稲種を配布する、また、大陸からの織布や製陶関係の技術指導/技能者の貸与・派遣を行うことなど、具体的な経済的便益を全国の地域指導者や住民に示すことで全国の郡司・祝を支配下に置いたと考えます。
 考古上では飛鳥時代後期に地域偏在性を持たない全国的なU字型鉄製刃先を持つ鍬や同一品種と比定される早生稲種が広域に現れます。加えて律令の調税等に関係して全国各地に朝廷が定めた流通規格に従った布製品や陶器製品が特産物として現れます。ここからすると、飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代に商業品となる製品規格と経済的な日本全国を結ぶネットワークが出来上がったと考えられます。つまり、大和朝廷による全国統一です。経済方法論から推定するとこのようになります。
 また、飛鳥浄御原宮から飛鳥藤原京の時代、大和朝廷は郡司・祝の立場と相続に関して、本人の血統と相続する子の母親の血統・所属を基準にそれを保証します。従来の歴史解説とは相違しますが、郡司任命を実務能力主義に変更するのは奈良時代の大宝律令の施行に伴う実務処理からの必要性以降です。逆に考えますと、それまでには全国に渡る大和朝廷の基盤は整っています。例として、奈良時代中期には参集命令に漏れた郡司が入間郡正倉神火事件を引き起こし、歴史記録に残るほどに参集命令の権威は高まっています。
 地方の地域指導者にとって大和朝廷の傘下に入ることにより最新の鉄製農機具や優良稲品種の無償配布の機会が得られ、さらに先進技術による布製品や陶器製品などの技術支援が得られます。さらに支配地域での国家/上位支配者から身分保障も得られるとなると、傘下に入ることの方に高い合理性があります。その代償となる庸役や調税の課税割り当ては地域の住民が負担するものであって、地方の地域指導者の負担ではありません。管理責任だけです。このように、日本では大和朝廷により、戦闘行動ではなく経済合理性からの実利による国家統一がなされたと思います。逆に集団拘束はこの実利だけに依存しますから、その実利が無くなると集団拘束は霧散することになります。それが平安時代初頭の時代性を示すのでしょう。
 ここで、中国古典哲学が示すように人間の本性は自己中心主義と考えます。大和朝廷創成期、民衆レベルでは日本と云う国家概念も日本国民と云う概念や感覚はありません。ところが万葉集を眺めますと、神亀年間までには天皇・大王の下に集結し対新羅戦争に備える防人の歌が生まれ詠われています。防人たちの歌は国司レベルの人たちからの模倣歌かもしれませんが、歌の世界を眺めますと村落組長レベルまでにも日本と云う国家概念と天皇と云う指導者に従う民(国民)と云う概念が浸透して来ています。
 また、調税の運脚や庸役で上京する男たちに対し、地方の女たちは都女や都会の生活に溺れて、田舎女である私を忘れてくれるなと歌を詠い贈ります。万葉集の歌からしますと上京は決死の旅立ちではなく、楽しみを期待するような旅立ちです。このように防人、運脚や庸役が奴隷的なものではなかったとしますと、天皇と云う指導者に従う民と云う概念の浸透により自己中心主義よりも公益を尊ぶ姿があったことになります。
 今回での話題としています時期では全国規模の仏教の布教はまだありません。国分寺・国分尼寺は万葉集の晩期に当たります。この話題とする時代、全国規模のものは飛鳥浄御原宮時代に産まれた国家神道だけです。それも墨子が明鬼篇で説くような心の救済や死後の世界感を扱うものではありません。


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