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万葉集と墨子 所染

 日本の古典と墨子の関係を眺めています。その中で、ここでは墨子の『所染』論に注目して日本の古典、特に万葉集との関係を眺めます。
 最初に、日本の古風な婚姻衣装に白無垢が有り、この白無垢の「白」の理由を「婚家のどんな色にも染まる」ことを根拠に解説します。この解説の歴史を辿ると、白無垢の衣装の歴史の最初を奈良時代に置き、婚姻の初日から三日間ほど白無垢の衣装を着て四日目に色物の衣装を着る風習があったとも解説します。一方、衣装を研究する立場からは白無垢の婚姻衣装は平安時代頃から始まり、室町時代までには白無垢が婚礼衣装となったとし、色打掛は室町時代後期以降になって記録に現れるとします。
 先の「奈良時代の三日間ほど」とは、およそ、妻問い婚時代の三日夜餅の風習に万葉集で詠う白妙の衣装を組み合わせて、誰かが想像して作り上げた都市伝説と思われます。一見、なるほどですが、飛鳥奈良時代は掛布団のような寝具がまだなく、男女が夜を共にするときはお互いの脱いだ帷子のような下着「衫」を抱き合った体に掛けます。以下に示す例①の万葉集の比喩相聞歌である集歌2828や集歌2829からしますと、当時はそれぞれが立場により好みの色に染めた下着「衫」を付けています。上着は律令制度では身分により規定色がありますから披露する場で着る婚姻衣装で白を着る可能性は薄いと考えます。また、妻問い婚の三日夜餅の風習では中世風の結婚式のような儀式は無かったと思われ、可能性で四日目の朝に行う床現しの儀礼での女家族との食事です。
 確かに万葉集では白妙の衣と歌に詠いますが、それはあくまで上古での上等で特別な布の意味ですし、繊維自体も男女が和歌を交わすような奈良貴族ですと調物からすると上進された絹製の既成品サイズの布から調度した衣装を着用し古式となる白妙の繊維製品は使用しません。一方、例②の離別歌である集歌3181や集歌3182からしますと、白妙の下着「衫」が特別の日の婚姻衣装ではないことが判ります。白妙の下着は日常着です。下級官吏や庶民の染料色は褐色や紺色ですから、これを嫌えば水晒しや日曝しの白色です。飛鳥奈良時代にあって紅色、赤色、黄色、浅茅色を染めるには高価な紅花や茜などの染料の購入が必要ですから、庶民の女性が色鮮やかに染色した布は使いたくても使えません。庶民は生活圏で入手が出来るクヌギやアイから染めた褐色や紺色の布です。
例①
集歌2828 紅之 深染乃衣乎 下著者 人之見久尓 仁寳比将出鴨
訓読 紅(くれなゐ)し濃(こ)染(そめ)の衣(きぬ)を下し着(き)ば人し見らくににほひ出でむかも
私訳 貴女の紅色に濃く染めた衣を下に着たら、人が私の姿をじっと見つめる時に、その下着の色が透けて見えるでしょうか。(=関係が人に気付かれること)

集歌2829 衣霜 多在南 取易而 著者也君之 面忘而有
訓読 衣(ころも)しも多くあらなむ取り替へに着ればや君し面(おも)忘れにあり
私訳 下着と云っても、それをたくさん持っているからでしょうか。後朝の別れに下着を取り換えて着た貴方ですが、その相手の女性の面影(=交換した下着の色;私の好みは濃染の紅ではないことの暗示)を忘れていますよ。

例②
集歌3181 白細之 君之下紐 吾佐倍尓 今日結而名 将相日之為
訓読 白栲し君し下紐(したひも)吾(われ)さへに今日結びにな逢はむ日しため
私訳 白い栲の夜着の貴方の下紐を、貴方自身だけでなく私の手も添えて今日は結びましょう。また逢える日のために。

 集歌3182 白妙之 袖之別者 雖借 思乱而 赦鶴鴨
訓読 白栲し袖し別れは借(し)くけども思ひ乱れに許しつるかも
私訳 床で交わした白い栲の夜着の袖の別れを世の定めとしてひと時は預けますが、それでも心は乱れたままにこの別れを認めてしまった。

 では、「白」の理由を「婚家のどんな色にも染まる」と説明する由来はどこからでしょうか。この「色に染まる」に注目しますと、似たような類語に「朱に交われば赤くなる」や「悪に染まる」のような言葉があります。調べものとしては「朱に交われば赤くなる」の出典検索が簡単で、これは傳玄の『太子少傳箴』に載る「近墨必緇、近朱必赤(墨に近づけば必ず黒く、朱に近づけば必ず赤くなる)」を語源とします。傳玄は中国三国時代から晋時代の人ですから、飛鳥時代以前の相当に古い由来となります。
 この「近墨必緇、近朱必赤」の言葉が傳玄の創作かと云うと違います。さらに古く、淮南子の「楊子見逵路而哭之、為其可以南可以北、墨子見練絲而泣之、為其可以黄可以黒、高誘曰、憫其本同而末異」に由来を求めます。この淮南子は前漢の武帝の頃の人ですが、その彼にあっても、その言葉は戦国時代前期の墨子の『所染』に載る「見染絲者而歎曰、染於蒼則蒼、染於黄則黄。所入者變、其色亦變。五入必而已、則為五色矣。故染不可不慎也」に由来を求めます。つまり、言葉の意味合いで「相手の色に染まる」と云うものは墨子の『所染』から出たものとなります。ここが、辿れる上限です。なお、墨子の『所染』の文中に載る「詩曰、必擇所堪。必謹所堪者、此之謂也」の文節の「堪」を「湛」に読み替えて、「ひたす」と訓じ、ここから「色に染まる」を『詩経』に語源を求める研究者もいます。ただし、そのためには墨子の『所染』の原文の校訂が必要なことや、校訂したとしても肝心の「必擇所湛」の文節は『詩経』の喪失詩のものとして本来の姿を確認できません。つまり、希望を込めた可能性の提案だけとなります。
 中国の知識階級は古典引用を巧みに行うことを第一級の教養人としますし、日本も同様に古典の教養を求めます。そのような中、墨子の『所染』で説く主張は「墨悲絲染」の言葉で端的に表され、これが古語成語として現代にまで伝わります。
 逆にこの「墨悲絲染」の成語から探りますと、それ以降の作品としては中国古典楽曲に琴曲「墨子悲絲」があり、全唐文に李鐸の「密雨如散絲賦」が載り、日本では和漢朗詠集に大江以言の「密雨散加糸序」が有ります。このように教養人の中には墨子の『所染』は知識として伝わっていたことになります。なお、中国や日本のその時代を代表する文学者が出典を知らずに単に古語成語「墨悲絲染」の言葉を使った可能性は排除しませんが、時代を代表する教養人ならここで紹介した調べもの程度のことは行ったであろうと期待しています。
 加えて、飛鳥・奈良時代に「相手の色に染まる」と云う表現と言葉の理解が日本独自のものとして古くからあったのか、それともその言葉は中国古典に由来したのでしょうか。一般的な「白無垢の婚家のどんな色にも染まる」と云う解説は古く奈良時代に遡って由来を置き、日本の古墳時代以前の上古からの神事などの伝統には置きません。つまり、その解釈では中国古典に由来することを暗黙に了解していると思います。当然、生活の中で泥や植物などで皮膚が染まる状態は経験しているでしょう。ただし、その現象を精神の世界に展開し「朱に交われば赤くなる」や「悪に染まる」のような理解と言葉を作り上げていたかです。墨子の『所染』はそのような日常的な風景から精神世界に展開し、論を述べています。解説を受ければ簡単に納得できる論法ですが、そのような論理と理解が上古の日本にあったかです。つまり、ここでの理解は飛鳥奈良時代に知識階級には「相手の色に染まる」と云う表現があれば、傳玄の「近墨必緇、近朱必赤」、淮南子の「墨子見練絲而泣之、為其可以黄可以黒」、墨子の「見染絲者而歎曰、染於蒼則蒼、染於黄則黄。所入者變、其色亦變。五入必而已、則為五色矣。故染不可不慎也」などの知識があっただろうと考えます。
 墨子は『所染』で、白い糸は黄色に染めれば黄く、青色に染めれば青くなり、それぞれに五色があればそれぞれ五色に染まる。だから、糸を染める時はやり直しが出来ないのだから事前に十分に配慮・計画をしなさい。糸を比喩に使った後に、同じように人間も良き人と交われば良き人に、悪しき人と交われば悪しき人になるから、人と付き合うときは十分に注意しなさいと説きます。でも、世の指導者であっても良臣と悪臣の区別が難しく、良き人だけと交わることがなかなか出来ない。それは持って生まれた性(さが)に由来するとします。それでため息をつき悲しむのです。それを後の人たちは「墨悲絲染」の成語で表します。
 ここまでの言葉の歴史を踏まえて、万葉集との関係を眺めていきます。その万葉集の歌の中で「染」と云う文字に注目し、音字ではなく同時に布以外のものを詠う歌を検索すると次のようなものを見つけることが出来ます。

引用①;
太宰帥大伴卿被任大納言臨入京之時、府官人等餞卿筑前國蘆城驛家謌四首
標訓 太宰帥大伴卿の大納言に任(ま)けらえて京(みやこ)に臨入(いら)むとせし時に、府(つかさ)の官人等(つかさひとたち)の卿を筑前國の蘆城(あしき)の驛家(うまや)にして餞(うまのはなむけ)せる謌四首
集歌569 辛人之 衣染云 紫之 情尓染而所 念鴨
訓読 唐人(からひと)し衣(ころも)染(そ)むいふ紫(むらさき)し情(こころ)に染(そ)みてそ念(おも)ほゆるかも
私訳 唐人の衣を染めると云う紫の、その紫色の官衣を着る貴方を心の奥底から染(し)みて尊敬いたします。

引用②;
傷惜寧樂京荒墟作謌三首 (作者不審)
標訓 寧樂(なら)の京(みやこ)の荒れたる墟(あと)を傷(いた)み惜(お)しみて作れる謌三首 (作者審(つばひ)らかならず)
集歌1044 紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉
訓読 紅(くれなゐ)に深く染(し)みにし情(こころ)かも寧樂(なら)の京師(みやこ)に年し経(へ)ぬべき
私訳 栄華に建物が紅に彩られた、その紅に深く染まってしまった思いなのか、それならば留守の司以外住む事を許されない、この奈良の都で年を過すべきです。

引用③;
集歌2624 紅之 深染衣 色深 染西鹿齒蚊 遺不得鶴
訓読 紅(くれなゐ)し濃染(こそめ)の衣(ころも)色(いろ)深(ふか)く染(し)みにしかばか忘れかねつる
私訳 紅色に深く染めた衣の色のように、私の心に貴女が深く染み込んだからか、忘れることができません。

引用④;
豊後國白水郎謌一首
標訓 豊後國(とよのみちのしりのくに)の白水郎(あま)の謌一首
集歌3877 紅尓 染而之衣 雨零而 尓保比波雖為 移波米也毛
訓読 紅(くれなゐ)に染(そ)めてし衣(ころも)雨降りてにほひはすともうつろはめやも
私訳 紅色に染めた衣、雨が降り濡れて色が鮮やかになっても、その色が褪せることがあるでしょうか。

 ここで、引用①は大伴旅人と云う人物を尊敬し、その貴方を見習う意味合いで「染」の言葉を使っています。この用法は典型的な墨子の『所染』のものです。この歌を詠った人物は特定されていませんが、ほぼ、大宰府の大伴旅人の役宅で行われた梅花宴の出席者の誰かでしょう。およそ、九州にあって中国人や半島人と相対する外交防衛の実務を担当する教養人ですから、傳玄の「近墨必緇、近朱必赤」だけでなく墨子の『所染』も了解していたと考えます。
 次に引用②は平城京が旧都となり主だった建物が恭仁京へと解体・移築されつつある奈良の情景を悼む歌です。紅はその盛時の建物群を色で表し、その盛時であった奈良と云う思い出の世界にどっぷり浸っている心情を「染」の言葉で表しています。引用③や引用④も引用②と同じような用法で、恋と云う世界に浸っていることを「染」の言葉で表しています。気持ちはしっかりそのような心情に浸っている、染まっているから忘れることもないし、気持ちが薄れることも無いのです。それも相手への帰依の心が有りますから、「浸」や「湛」ではなく「染」なのでしょう。漢字での意味合いを十分に理解した上での選字と考えます。
 引用①は確かに典型的な墨子の『所染』の説くところのものですが、それ以外は『所染』の冒頭の部分の援用です。しかしながら、飛鳥・奈良時代には墨子の『所染』の説くところのものが知識階級にあったと推定されます。大宰府の梅花宴で披露された前置漢文の賦は王羲之の「蘭亭序」を踏まえていると指摘されますから、逆にそのように指摘する人たちは梅花宴に集った人々は蘭亭序を知っていたし、その蘭亭序が引用する古典文学も理解していたと認識しています。ここからの類推で梅花宴の主催者は大伴旅人ですから、引用①の歌を贈られた大伴旅人は十分に歌の背景を理解していたはずです。
 ご存知のように、平成時代中期までの古典作品の解釈では日本には墨学は到来しなかったし、墨子の教えは日本になかったとします。ただ、中国においてはその宗教的側面に注目すると血族を核とする儒学と衆生を均しくとする仏教とのそれぞれの教義は対極に位置し、仏教の布教にはそれをブリッジした道教の存在があったと指摘します。そのために、仏教と道教、それも密教と道教との親和性を指摘し、飛鳥・奈良時代、特に雑密に区分される仏教と道教との区分が明確ではなかったのではないかと指摘する研究者もいます。奈良時代の役行者に代表される修験道は、さて、仏教に区分するだけで良いのでしょうか。
 その道教について、中国では「墨家學派與道教、前者為學術流派、後者為宗教、二者之性質當是南轅北轍」と評論します。このように評論される道教は飛鳥時代の日本に到来し、斉明天皇・天武天皇親子はその方面に詳しかったと日本書紀に記述します。道教道師の来日は明確ではありませんが、道教が玄宗皇帝時代に全盛を迎える唐代にあって、日本がその影響を全くに受けていなかったとする従来の学説は、さて、どうなのでしょうか。ただただ、それでも標準的な日本に墨子の影響はなかったとする学説からは、ここで紹介したものは全くの与太話であり、トンデモ論です。
 おまけとして、柿本人麻呂が次のような道教に密接にかかわるとされる山海経に載る人種/国人を絵図化したものを見て歌を詠っています。斉明天皇の多武峰の両槻宮は仏教の本堂に類似する道教の道観ではないかとの指摘があるように道教は普及しており、それに伴って、当時、何らかの道教関係書籍は到来していたと考えられています。また、古代の新技術の伝来の多くを仏教僧侶に根拠としますが、肝心の中国で最新の技術を担っていた技術者・職人階級の多くは道教信者ですし、皇帝・朝廷も道教の信者です。それを踏まえると、なぜ、日本の研究者は飛鳥・奈良時代に道教ではなく純粋の仏教僧侶が中心となって技術を持っていたと判断したのかは不明です。なお、平安時代初期の技術者として有名な空海は渡唐先で仏教だけでなく道教も研究し、それを仏教哲学の中に取り入れていることは有名です。

献忍壁皇子謌一首  詠仙人形
標訓 忍壁皇子に献れる歌一首  仙人(やまひと)の形(かた)を詠めり
集歌1682 
原文 常之陪尓 夏冬往哉 裘 扇不放 山住人
訓読 とこしへに夏冬行けや 裘(かはころも)扇放たぬ山し住む人
私訳 永遠に夏と冬がやって来るためか、皮の衣も扇も手放さない山に住む人よ。
注意 推定で山海経に示す毛民人を絵にしたものを見ての歌と思われます。

 ここまでは墨子の『所染』について、法螺話であり与太話をしてきます。その与太話の脱線から、もう少し脱線して昭和から平成の研究者がその当時の日本にはなかったはずと指摘する墨子/道教と聖徳太子との関係に遊びたいと思います。
 脱線の与太話の始めに、11月22日は大工さんの日という記念日で、その記念日の行事の中で大工さんの重要な道具や技術を伝えた人として聖徳太子を讃えるそうです。ただ、一般に紹介するような聖徳太子が大工道具の尺金を世に紹介したとするのは誤解釈です。ここで、聖徳太子の場合の大工とは大匠(おおたくみ)のことで、本来は古代の土木建築事業の総監督を意味します。同じ漢字ですが現代の建築職人さんに区分される大工さんを意味しません。強いて言えば、棟梁です。つまり、聖徳太子が大工の神と讃えられるのは古代の建築土木事業の総監督を養成する師匠だったからなのです。おまけの脱線では、この話題から古代日本社会と墨子の関係について与太話を行います。
 最初に寄り道します。
 中国では「墨学學派與道教、前者為學術流派、後者為宗教、二者之性質當是南轅北轍」と評論する言葉があります。墨学は学術の側面を、他方、道教は宗教の側面を持ち、それは人力車の引き棒と車輪の関係と同じと評論します。「道」と云うものの見方により墨学であり、道教です。
 話が飛びますが、日本には修験道という独自の宗教形態があり、それは日本古来の山岳信仰を基底に置き、それに真言密教と道教が習合したもので、平安時代の聖宝によって体系化されたと解説します。その修験道の先駆を代表する人として飛鳥から奈良時代の役行者がおり、その彼には百済経由の道教思想と金剛蔵菩薩に代表される華厳系の密教との関係が想定されるとも指摘されます。加えて、その時代より少し前の斉明天皇に関係する多武峰の両槻宮は道教の修行の場である道観の指摘がありますから、従来の古代史研究者には古代日本に道教や墨子の影はないとなっていますが、実際は隋・唐もそうであったように相当な影響があったと考えられています。唐では道教は国教ですから遣隋使や遣唐使の一行、また、渡来知識人が道教の概要を知らない可能性は全くにありません。
 現代において米国に文化・科学・行政を学びにそれぞれに派遣された留学生が、その全員が全くにキリスト教についてその概要を知らずに帰国する可能性はありません。少なくとも指定された研究者はその学域においてキリスト教の概要と影響を含めて研究し、その成果を持ち帰ったはずです。そのように推定するのが社会人と思いますが、昭和期までの古典研究者は、どうもそのようには考えなかったようです。なお、当然ですが、近代自由主義を研究する時にキリスト教の影響を考慮しない研究が成り立たないと同じように、飛鳥時代から平安時代中期までの研究をするときに中国の隋から唐時代の社会情勢を反映して道教とそれに影響を与えた墨学を儒学や仏学と同様に基礎知識として知る必要があります。一方、日本では一般の古代史に興味を持つ人向けの道教や墨学のテキストがほとんどありませんから、興味を持つ人が自力で資料を整備する必要がある分、大変です。
 さて、最初に紹介しましたように11月22日は大工さんの日だそうで、その大工さんの重要道具を日本へと導入した貢献者に聖徳太子に置くそうです。大工仕事の重要な製作図を行うときの最重要で基礎となる技術に規矩術(きくじゅつ)というものがあります。木材などを加工する時に直線と直角を得て、それを材木に印し、それを基準に加工するという基礎中の基礎の製作図技術です。土台も同じように直線と直角に基準高さを得て整えます。この建築土木の基礎的技術を規矩術と云います。
 この規矩術は大工の数学のようなもので、古語成語の規矩準縄(きくじゅんじょう)というものを由来とします。成語の「規」とは「円を描く」、「矩」とは「直角」、「準」とは「基準、水平」、「縄」とは「直線」ということを意味し、家造りでの最も基本となるキーワードです。更に大工道具の中でもモノを計る道具を指し、「規=コンパス」、「矩=差し金」、「準=水盛り」、「縄=墨縄」です。墨子の『法儀篇』では「百工、為方以矩、為圓以規、直衡以、水以繩、正以縣。無巧工不巧工、皆以此五者為法。(百工は矩(く)を以(もち)い方(ほう)を為(つく)り、規(き)を以(もち)い圓(えん)を為(つく)り、直(ちょく)は衡(さし)を以(もち)い、水(すい)は繩(じょう)を以(もち)い、正(せい)は縣(けん)を以(もち)う。巧工と巧工あらずと無く、皆此の五者を以って法(のり)と為す。)」と紹介し、材木などの加工・組み立て技術以前の建築の基礎知識を紹介します。
 先に聖徳太子を大工さんの始祖と紹介しましたがその理由は、この規矩準縄の技術と理論を日本の職人さんたちに教え、建築土木や木造船を行う上で最重要な測定・測量の技術を持った建築建設技術者となる大匠たちを育成したと伝わるからです。
 その話題とします測定・測量の技術は本質的に数学の分野であり、そこには数学として点、線、面、立体等の概念と定義が必要となります。師匠弟子間の徒弟制度による技能伝承ではなく、広い範囲での技術の普及や大規模な構造物の建築には統一された技術・理論が必要となり、それには科学としての理論形成が必要です。例えば、飛鳥時代を代表する超巨大建築物となる大官大寺の中心伽藍の敷地の大きさは144m x 197m、建物では金堂の規模は45m x 21mであり、九重塔は塔の初層一辺長15mで高さ100mと、発掘された基礎構造から推定されています。そこには正確にモノを計測し、計画通りに整える必要があります。それを実行させるのが規矩準縄で示す測定の理論と技術なのです。聖徳太子の大工の神様とは尺金の道具のようなレベルの話ではないのです。当時の最先端の科学技術の話なのです。
 この分野での科学としての理論形成を東アジア文化圏で最初に行ったのが墨学集団で、その墨子の経篇で概念の定義や理論の展開を行っています。経篇では基礎となる幾何学の基本概念について厳格に定義を行います。例として、空間を“同じではない全ての場所”と定義し、また、東、西、南、北、中という方向概念を提案します。さらに、低い所を基準として高い所の高さを量として測定することを提案します。相対的なものではなく量を計る為に計測の概念を定め、計測での基準を定義します。経篇からすると墨学は既に、東西(縦)、南北(経)、高低という空間の三つの概念を持っていたことが推定出来ます。つまり、墨学は点、線、面、立体など一連の幾何学概念を考え出しており、墨子の経篇においてはそれらを、“端”、“尺”、“区”、“穴”と定義としての名称を与えます。
 墨子の経篇では、その空間概念を基準にその他のいくつかの重要な概念を示します。例えば、“平”は二つの高さが同じものを意味し(“同高也”)、“直”は三点が同一線上にあることを意味し(“参也”)、“円”は一つの中心から等距離にある線で構成されるもの(“一中同長也”)、“方”は辺と角が四つそれぞれ等しいもの(“方柱隅四讙也”)。これらの定義は、作図を行うときの操作を説明することでも表現できます。例えば、正方形は“矩(=直角定規)”で描いて線が交わる(“方、矩之交也”)、円は“規(コンパス)”で描いて線が交わる(“圓、規写交也”)などです。なお、墨子で使う漢字は隋から前漢初期での言葉ですので、近現代での漢字の意味と相違する場面があります。例として、「参」とは“参、承也、覲也。三相参爲参”ですから、経上篇で「直、参也」と示す定義は「直線とは三点が同一線上にある」と解釈することになります。
 ここで幾何学からの重要なことは、コンパスで円を描くことが出来、同時に直線と直角の概念を持つと、コンパスと直線を用いて直角を得ることが出来ます。また、円と直線の組み合わせから相似形を描くことも可能となり、基準の図形に対して縮尺・拡大を得ることもできます。大官大寺の超巨大な建築物も最初にスケールダウンした模型を作り、その模型部材を計測し均等にすべての部材を拡大すると、予定する超巨大建築物が得られます。ただ、古代では構造力学や材料工学はまだありませんから、構造体や部材の強度、また、そこから定まる部材断面や継ぎ手方法などは経験工学の扱いです。そこは経験と経験の延長線に立つ大工職人の技能感性の世界です。世に云う巧工と不巧工との差はここにあります。
 墨子の経篇では規矩準縄の技術の基盤となる幾何学の基本概念と定義付けを行い、用法も示します。さらに墨学の集団は経篇で示す理論を用い防護陣地や城郭の構築で実践・実用を示します。それを応用すると古代にあっても超巨大な建築物が建設できるのです。つまり、墨子の経篇は建築土木の定義書であり、理論書ですが、同時に実学書でもあるのです。古代において、このような建築技術に係る理論・実学書は墨子以外にはありませんから、聖徳太子が規矩準縄の理論知識を持っていたとしますと墨学に学んでいた可能性が非常に高くなります。確認しますが、聖徳太子は現場監督ではありませんから、規矩準縄の技術に加えて経験工学が必要な「巧工不巧工」の世界とは違う立場の人です。そこを誤解しないようにお願いします。
 ここで、聖徳太子の話題に戻りますと、有名な憲法十七条の内、次に示す第八条は墨子の非楽上編に載る言葉に由来すると考えられていますから、時代と社会状況からすると聖徳太子は秦朝始皇帝の末裔を自称する秦一族などから墨子を学んでいた可能性があります。ただ、従来の学説では「日本には墨学は到来していない」を前提に議論をしますから、専門家になるほどこれに拘束され、荘子や孟子などに根拠を求めるようになります。その分、若い真面目な研究者には日本の学会は辛い慣習や古風の社会です。

日本書紀;推古天皇十二年の夏四月丙寅朔戊辰の条より抜粋。
原文 八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監、終日難盡。是以、遲朝不逮于急、早退必事不盡。
解釈 八に曰く、群卿(ぐんけい)百寮(ひゃくりょう)、早く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(さが)れ。公事(くじ)は監(うしお)に靡(なび)きて、終日(ひねもす)にても尽(つく)しがたし。是を以って、遅く朝(ちょう)すれば急に逮(およ)ばず、早く退(さが)れば必ず事(こと)尽さず。

 引用されたと推定される墨子の文章
巻八 非楽上編より抜粋
1. 王公大人蚤朝晏退、聴獄治政。此其分事也。
王公(おうこう)大人(たいじん)は蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(しりぞ)き、獄(ごく)を聴き政を治む。此れ其の分事なり。
2. 今唯母在乎王公大人説楽而聴之、則必不能蚤早朝晏退聴獄治政。
今唯母(ただ)王公(おうこう)大人(たいじん)に在りて楽を説(よろこ)びて之を聴かば、則ち必ずや蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(しりぞ)き獄を聴き政を治めること能(あた)わざらむ。

 ここで少し墨子に対し車の轅と轍の関係に等しいとされる道教について飛鳥・奈良時代に遊びますと、「神道」と云う言葉が重要な問題を提起します。もし、この「神道」と云う漢字文字を中国語となる漢語の言葉としますと、三世紀以後の中国の典籍では、道家の思想や神仙の術ならびにそれに依拠する種々の呪術、すなわち、道教ないし道教的なものを総括して「神道」の名で呼ぶのが一般的であったと評論しますから、つまり、「漢語」の「神道」とは現代での道教を指します。この問題を受けて、日本書紀が編纂された時代、そこで使われる「神道」なる言葉は「和語」の言葉か、「漢語」の言葉かを問題にする研究者がいます。

日本書紀に「神道」の言葉が使われる箇所
1.用明天皇即位前紀;天皇信仏法尊神道
2.孝徳天皇即位前紀;尊仏法、軽神道。
3.大化三年四月壬午;惟神者、謂随神道。亦謂自有神道也。

 その研究者は次の延喜式 祝詞「東文忌寸部献横刀時呪の祝詞(東文祝詞)」を紹介し、そこで朝廷からの祝詞奏上を受ける皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、東王父、西王母、五方五帝、四時四気は道教の神々であることを指摘します。なぜ、朝廷が国家を挙げて行う六月と十二月の年二回の祓い神事で道教の神々に国土からの邪気退散をお願いするのかです。「神道」が和語であれば、日本古来の神々にお願いするのが本来ではないかの主張です。ここから日本書紀の原型が創られつつあった飛鳥時代の「神道」は「漢語」のものではないかと確認します。つまり、日本書紀の「神道」とは中国語であり、道教ではなかったとの指摘です。

延喜式 東文忌寸部献横刀時呪の祝詞(東文祝詞)
謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左は東王父、右は西王母、五方の五帝、四時の四気、捧ぐるに緑人をもちてし、禍災を除かむことを請ふ。捧ぐるに金刀をもちてし、帝柞を延べむことを請ふ。呪に曰く、東は扶桑に至り、西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る、千の城百の闘、精治万歳、万歳万歳。

 道教についてその歴史的なあり方からいえば、成立道教(又は教団道教)と民間道教の二つに分れます。成立道教は教団や組織の体裁を備えているもので、寺院に相当する道観と云う建物を布教や修道の中心にして、そこを拠点とする僧尼に当る道士や女道士によって維持されているものです。いわゆる教団道教です。一方、民間道教は在野の個々人の信心に従い教団や組織の体裁を持ちません。その分、民間道教は歴史の表舞台には現れません。逆に教団道教は斉明天皇の多武峰の両槻宮は道観と指摘があるように、斉明天皇は道教の信者ではないかなどと物的証拠での議論が容易になります。
 現在の神道を確認すると、延喜式 祝詞「東文祝詞」などが示すものが神道の古風の姿とするならば、飛鳥時代から奈良時代にかけて土着原始宗教が道教と習合したのではないかと指摘できます。その時、歴代の朝廷指導者がそれを公式に容認するかです。もし、平安時代以降の神道なるものが道教を理論基盤に置き、飛鳥時代から奈良時代に古来の土着原始宗教を取り込んで、儒学や仏学に相当する古代宗教たる様式・形式が整ったものして成り立っているとすると、日本神話の根底が崩れます。古事記や日本書紀が示す国家神道は飛鳥時代以降の非常に若い宗教となり、日本神話に示す久遠の過去の物語にはなり得ません。延喜式から見れば、ほんの200年程度の話になります。為政者の立場からすれば、国家神道の基盤となるような道教は日本に存在しなかった。和語の神道は久遠の過去から存在した。だから、天皇とそれを補佐する人々の祖は天に命じられ天降りしてこの日本を統治すると扱うはずです。それを証明するように、国学を研究する人たちが信心するように聖徳太子の憲法十七条に道教と表裏一体と指摘される墨子があってはいけないのです。
 墨子があるとすれば「以和為貴。無忤為宗」は「和」を「同」に置き換えれば、唱える本質は尚同篇の理論そのままですし、「承詔必謹。君則天之。臣則地之」もまた尚賢篇の理論そのままです。ちなみに聖徳太子の時代の漢字解釈は、「和;順也、諧也。同;共也、又和也。」となっています。つまり、和と同は同義語です。このように墨子があると認めると憲法十七条の条文は非常に判り易いものになりますし、それ以降の朝廷が取る儒学と相反する薄葬政策との整合性も取れます。しかしながら、墨子は無かったとする古代史専門家の立場からすれば、和語の神道は久遠の過去から存在しますし、聖徳太子に墨子はありません。
 一方、聖徳太子の憲法十七条に道教と表裏一体と指摘される墨子があるなら、聖徳太子(又はブレーン)が墨子の書籍を読み、それを構成する経篇の内容を理解した上で建築技術の部分を抜き出し、規矩準縄の技術として人々に教えた可能性があります。そこから伝説が生まれますと、聖徳太子は大工さんの祖となり、毎年11月22日にお祭りをする必要とその根拠が明白になります。
 このような風景から柿本人麻呂の草壁皇子の挽歌を眺めれば、逆、当然じゃないかになります。早く推古天皇・聖徳太子の時代に墨子や道教が朝廷や社会にあれば、その伝統に従い草壁皇子の道教的観点から挽歌を詠うべきものとなります。

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