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心さえ歪んでいなければ、最後には必ず正しい道に到達する(インドネシアに来て、すぐの日記②)

中途半端に夕方に寝て、夜の11時ごろに起きる。

月曜だと言うのに周りの家はうるさい。
何か友達と外のテラスでフランス人が話し合っている。
友達がいる事はとても良いことだ。
このインドネシアでは、僕には友達があまりいない。やる気もなくなってきて、使命みたいなものも雲散霧消しかかっていた。

僕の人生ではどこまで何かを積み上げても、この病はそれらを奪い取る。
だから僕はこうやってものを書くことによって、その思考や過程を残す。

例えその病の再発によって、僕の社会的に積み上げてきた事柄をまた奪われようとも、僕が僕でなくなってしまっても、それらの足跡は決して奪う事はできないからだ。だから全てをこうやって書く。
そうやって僕はこの病気と暮らし、日々生きていく中で、その病の意義を再度見出したい。

僕は発病して四年になるが、どうしても僕はその病が、純粋に僕の人生から全てを奪い去り、僕の人生に存在していた大切なものをめちゃめちゃにするだけのものだと考えたくない。
僕は自分を病気だとは認めるが、それがまるで何かの呪いのように、僕にとって害しか巻き散らかさないという事、それだけはどうしても認めることができない。

ーまるで、その調子だ!とそれに同意するように、ゲコゲコとインドネシア特有のどでかいヤモリが、僕の部屋の中で鳴く。彼は僕の数少ない友達だ。
その病気は何らかの、僕たちの想像を超えた何か恵みがあるはずなのだ。
薬は毒になり得て、毒もまた薬なるはずだ。
それを分つものは正しい心と、ほんのちょっぴりの勇気だと思う。

どんなでたらめをやっても、心さえ歪んでいなければ、最後には必ず正しい道に到達すると思っている。

「罪と罰」より ドストエフスキー 著


単純に、社会的金銭的に恵まれている人生が良いとは限らない。
そういった良い悪いのこの二元論の先の先に、この病の意義のようなものが存在していると思う。

そう、それを探し続けるのも、僕の使命の一つである。
そうでなければ、僕は本当にやり切れないからだ。

だからもしかしたら、その病は僕に、ある種の諦めや宿命に生きることの素晴らしさみたいなことを、僕に教え続けようとしているのかもしれない。

今のこの自由な世界では目立たない、自己の宿命に生きる昔の農夫のような生き方。
彼らは何の職につこうだの、そういったことを考える必要は全くなかった。 
携帯もパソコンもなかったし、人の人生を比較する暇も、そのための隙間もそこには全くなかったはずだ。それは僕から見れば1つの幸せな状態であると思う。
知らないと言う事は、一つの幸福な精神の状態を表す。
また、また部屋のヤモリがゲコゲコとうなずく。

僕は元から何も知らなかったらよかったのにと、井の中の蛙でいればよかったのにと、最近つくづく思う。
知りたがりなくせに、いざ自分の位置を知ると、げこげこと泣き出す。

ところで、部屋のヤモリはとても大きい。
ここインドネシアにいるヤモリは、薄緑色の体で、そこには小さなオレンジ色の斑点がある。
気味の悪い1つの宇宙を示すかのような姿をしている。そして基本的に彼らは動かない。
じっと同じ場所にいて、天井の隙間で獲物をとって暮らしている。
そんな彼らでも体はとても大きくて、僕の右手を横にしたものよりも、さらに大きい。ここインドネシアにはゴキブリを始めとしたたくさんの、彼らの恵みがあるからだろう。
だから僕にとってもヤモリは恵みであり、孤独感を埋めてくれる仲間のように感じていて、そこにいてくれていることに感謝をする。

ところで生き物には、彼らと同じように、1つのところでじっとしていて、獲物を捕食するタイプと活発に世界を動き回って、食べ物を探していくタイプとの二通りがいるように思われる。
人間もそうだ。僕のように活発に動かず、世界に順応していくタイプと、僕の兄のように活発に世界を動き回り自己の生きる場所を広げていくタイプ。
世の中には大きくその2つの生き方に分けられていると思う。

そういった自分の幅を忘れて、他の人生を羨ましく思った結果が、何かの歪みを生み出すのかもしれない。

ー1AM。外に出て、今日1回目の飯を食べる

ナシチャンプルーというご飯にチキンや豆などをのせた混ぜご飯を道端で偶然あった、ウジャンと言うタトゥー職人と食べに行った。
彼の事は前からよく知っていて、顔まで含めた全身にタトゥーがある、真っ黒に日に焼けた40歳だ。
この島に来た初めから彼とは仲良くしていたが、今回彼の事についてはっきりと気づいたがある。彼には家がなくて、いつも外で寝ているということだ。でも、とても気さくで良い男だ。
彼は明るくて、僕にいつも分け隔てなく接してくれている。それがとても有難い。
素朴な人温もりはやっぱり大切だ。
そしてもう一つ今回ここに来て良かったと思うと言うのも、こうやって物事を書き出して、自己を省みる習慣がついた事だ。今では僕にとってそれはとても必要なことだったとつくづく思う。頭や心の掃除になる。
これがなければ僕はとてもこの孤島の村での生活には、耐えることが出来なかっただろう。

それが本当の僕のやるべきことから逃避した足跡だったのかもしれない。
そしてその逃避の足跡が、どこか偉大なる運命の一歩に繋がってているかもしれない。

「人間」の運命は、この世のものとは限らないということを決して忘れてはならない。

ピエール・ルコント・デュ・ヌイ『人間の運命』より

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