アキ・カウリスマキ監督 敗者三部作を観る
カウリスマキ監督はフィンランドの映画監督であり、シンプルで無駄のない映像美と、ユーモアと哀愁が織り交ぜられた独特の作風で知られている。彼の映画は、社会の底辺に生きる人々や、敗者とされる人々を題材にすることが多い。彼らの苦悩や孤独を描きつつも、その中に潜む人間の優しさや希望を静かに描写する手法が特徴的だ。
カウリスマキ監督の映画を観ると、その人物の人生を丸ごと体験したような感覚に陥る。見終わった後、放心状態になってしまうことも少なくない。
「敗者三部作」と呼ばれる『浮き雲』『過去のない男』『街のあかり』は、彼の作品としてよく知られている。
どれも最後はハッピーエンドだけれど、前半の過酷な運命があまりに重く、「主人公は本当に立ち上がれるのか?」と疑問に感じる瞬間がある。
監督の視点には、旧約聖書の「ヨブ記」に似た感覚があるように思える。市民が本当に勝つことができるのかを映画を通して試しているかのようだ。しかし、彼らの苦しみを楽しむのではなく、「彼らは勝つに決まっている」という確信のもとで、その姿を悪魔に証明しようとしているようだ。監督は、過去に勝ったとしても未来がどうなるかは分からないが、信じ続けることの重要性を描いている。
三部作に共通しているのは、苦難に直面した主人公たちが感情を表に出さないことだ。彼らは硬い石のような顔をし、唇を固く閉ざし、与えられた運命を一旦受け入れるかのようだ。僕なら泣きわめくところだが、極限状態に置かれると、逆に冷静に「何とかしなければ」と力が湧き上がってくるのかもしれない。変えられないものは受け入れ、変えられるものに対処していく姿勢が、敗者三部作全体に流れるテーマにも思える。
例えば、「浮き雲」では、カティ・オウティネン演じるイロナが象徴的な存在だ。彼女は包丁を振り回すシェフに立ち向かい、その強さが映画全体を通じて続いている。涙を見せることもなく、ぐっと堪えて前を向く彼女の姿は、社会の荒波に負けない、市民的な強さを感じさせる。さらに、この映画ではイロナだけでなく、シェフやガードたちもそれぞれに主役のような存在感を放っている。彼らが一致団結して自分たちの居場所を守ろうとする姿勢は、観る者に応援したくなる気持ちを抱かせる。
「過去のない男」では、暴漢に襲われ過去を失った男が、周囲の助けを借りて生きる力を取り戻していく姿が描かれる。彼が過去を失ったとしても、それは必ずしも彼の全てではない。映画を観ながら、私たち自身もまた、過去を失い続けているのではないかという疑問が浮かぶ。過去は確かにあったかもしれないが、それを証明することはできない。ただ、今を生きることで、過去に囚われることなく自由に生きることができるのではないかと思わされる。
そして、「街のあかり」。コイスティネンという男が追い詰められていく物語だが、彼は決して負け犬ではない。彼が求めていたのは、ささやかな幸福だった。周囲から「負け犬」と呼ばれながらも、彼は前を向いて生き続けている。監督も、コイスティネンを救いたかったのだろう。だからこそ、彼のもとにアイラという女性を送り込んだのではないかと感じた。しかし、作品の流れを曲げることなく、コイスティネンとその周囲の人物たちを自由に動かした結果、彼は再び試練に直面することになる。
それでも、最後にコイスティネンがアイラと交わす「死なないで」「ここじゃ死なない」というセリフが、この映画全体の意味を集約しているように感じた。いや、三部作全体を示しているようにも思える。
どんなに打ちのめされても、彼らは前を向いて生きていく。コイスティネンが手を握り返す姿には、彼が決して敗者ではなく、自分の人生において勝者であることが表現されているのだ。
カウリスマキ監督の映画は、表面的には敗者を描いているように見えるが、その実、主人公たちは皆、自分の人生において確固たる勝者なのだ。
以上の文章は僕が感想として各アプリに送ったものを、
ChatGPTにまとめてもらったものだ。
何度か読み返したけれど、内容は変わっていないと思う。
それぞれの内容は下記にも記載している。
文体が大きく異なるのは、映画を見終わった後にすぐ書いたからで、その時の感情が大きくでている。
こういうのはChatGPTには難しいなぁと思う。
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