無いから創ったサイキック整体。
施術を受けていただく方ほぼ全員に「言語化しにくい」「なんかわかんないけど良い」という言葉をいただきます。
初めはなんでなのかなって思っていましたが、ちょっとまとめられそうなのでやってみます。
「言語化しやすい」というのはそれが既存のものであるからだと思ってます。
すでにこの世界にあって、どんなものであるかというのを多くの人がなんとなく知っている。
人が死ぬ時は「忘れられた時」だなんて名言がありますが、人の記憶や心の中に存在しているものは言語化することができるものだと思います。
その母数が増えるほど「その物」に対する認識が強くなります。
認識が生まれるということは周波数や振動数が存在するということです。
人の数だけ思われたり言葉に出されることで「それ」は膨らみ、存在としての解像度を上げていくことになります。
やがて「市民権」などという言葉で表されるようになり「生活に身近」になります。
チェンソーマンという漫画がこれをめちゃ的確に表現しています。
「概念」や「物質」に対する恐怖のレベルで悪魔の強さが決まる。
「死の悪魔」なんてのは最強。
「死」は平等に訪れるし避けられないものだから。
じゃあ「豆腐の悪魔」が弱いかと言われるとわかんなくて、豆腐によってとんでもない事件が世界中で起これば、「豆腐」への恐怖が高まるので「豆腐の悪魔」はめちゃ強くなる可能性があります。
話が逸れたので戻しますね笑
言語化しにくいものというのはこの世界に存在していなかったものか、もしくは昔あったけど忘れられてしまったものなのかなと思ってます。
僕は以前別のところでセラピストとして勤めていました。
そこで学んだ技術が今の施術の雛形になっていますが、自分の思い描いたものとは異なるものでした。
多くの手技や技術を見たり調べたりしましたが、一向にピンとくるものが見つからず、どうしたもんかと悩みました。
あるとき「このまま運命の出会いがあるまで探し続けるのか?」と思い、絶対に嫌だと思いました。
「ないなら創るしかない」と思って、今に至ります。
サイキック整体が言語化しにくいものというのはつまり、今までこの世に存在していなかったものだからだと僕は思っています。
サイキック整体とは一言で言うと
腰痛や肩こりなどの「症状」を橋にして身体と心を繋げる整体です。
まずここの時点で意味わかんないと思います。
僕にとって「症状」とは歌を歌ったり絵を描いたりすることと同じ「表現」です。言葉を話せない「身体からの表現」です。
言語によるコミュニケーションが苦手な人は歌ったり絵を描いたりして社会とコミュニケーションとりますがそれです。
僕にとってのコミュニケーションは身体の声である「症状」を聴くことでその人と対話することです。
「心と身体は繋がっている」
今、現在抱えているあらゆる「症状」は「過去の自分の心の傷」や「癒されなかった感情」「抑圧することしかできなかった想い」などが関わっている可能性が高いです。
トラウマや絶望などの強いネガティブな感情はとてもパワーがあります。
それを感じたのが小さい頃であった場合、受け止める術も発散方法もわからないことがほとんどです。
今の自分にはこれを打破できるだけの強さも経験値もないという絶望が無意識のうちに刻み込まれることも少なくありません。
現実的に解決することが難しい場合、緊急措置として「箱の中」にしまい込み、未来の自分に希望を託してぶん投げます。
「いつの日か、今よりもっと大きくなって経験を積んだ時に、このキツさを癒してくれ、傷ついた自分を迎えにきてくれ」と。
そうして忘れることでダメージを無かったことにします。
成人して、ある程度力もついた、経験もしてきたと言うタイミングで腰痛なり肩こりなどという形であの頃の傷の清算がスタートします。
僕にとってこの感覚は「日常」です。
でも他の人にとってはそうではなかった。
ただそれだけの話でした。
物理的な、肉体的な「症状」と精神的な苦痛や傷がリンクしているという考え方は見方によっては荒唐無稽に映ることを知りませんでした。
科学的根拠はないです。論文も本もそんな読んでません。
何かを読むときは、自分にとって必要な何かがある時とか、無意識に求めている感覚に引っ掛かる時くらいで、意識してというのはないです。
ただ、僕の魂というか心が感じた通りに行動した結果、そうだったというだけでした。
信じるしかなかったし、他に道もなかった。
でも、どうしても「そう思う」という確信だけがありました。
言語化しにくいという事実が、今までにないものを創造したことの証拠なら、これから「言語化しやすい」というレベルに持っていくことが必要かもしれません。
先の「既存のもの」という領域に行くには、施術を受けていただいた方の「感想」という「想い」「周波数」を集める必要があると思ってます。
多くの感想という「想念」を集めることでサイキック整体について意識するということを日常化します。そうすれば「珍しい」という認識は徐々に薄れるのかなとは思いますが、別にそこまでこだわりはないのでいいです笑
ただ、普段意識しない領域をサイキック整体という形で体感から味わうことができるのはかなり良いことだと思います。
普段使わない脳の使い方ができるとか、体感という「強い事実」から自然に内側に意識を向けられるとか、ただ楽になるだけではない2次効果3次効果が期待できるので個人的にかなり良いと思います。
あとは、良い意味で「正解がない」施術だし「オーダーメイドにしかなり得ない」施術なので、何を感じてどう思ったのかを自由に発信していただくというのは「自分らしさ」を表現する第一歩になるのかなと思います。
施術を行う上で大切にしてることはたくさんありますが「余白を作ること」をとにかく大切にしています。
「こうあるべき」という意識が強いと自分の枠の中だけで完結することになり、目の前のお客様が見えなくなります。
僕は知識や技術を施術するのではなく、目の前のあなたと話をしたいんです。
今までの人生や良かったことそうでなかったこと全部が心身に表現されます。
そこに後悔があろうとなかろうと、うまくいこうとそうでなかろうと、今こうして「生きている」という事実に敬意を払わずして何が施術だと思うんです。
人に会う時もまずは挨拶からじゃないですか。
どうして触れる時もそうしないのか意味がわからない。
色々あったかもしれないけど今こうして生きているのはあの時頑張ったり無理したからでしょって。
でもこれから先の人生ではもうその背負ってるやつはいらないかもしれないから、ほどいてみませんか?というのを手と言葉でお伝えします。
「氣」というのがなんなのかぶっちゃけわかりません。
「チャネリング」とか「繋がってる」とか言われるけどマジでわかんないです。
ただ、触れるとどこをどうしたいのか何となく感じるし、触れていいのか嫌なのかなんとなく感じます。
それがコリや傷だからと言って、必ずしも触れていいわけじゃないんですよね。
準備が必要だとか、今はその時じゃないってことが往々にしてあります。
大切に抱えるものが傷であったとしても今のあなたがそれで楽になるならそれでいいと本気で思います。
手放すことが必ずしも善じゃないです。
傷や痛みや恐怖を抱えつつも自分なりに一歩ずつ進む美しさを僕は知っています。
そういう想いを込めて触れた時に「流れるべきところに流れる」様を感じることがあります。
「そっか、こういう道を辿るのか」
「へぇ〜こういう流れ方をするんだ」
「これは任せないとわからんわ」
「うわぁ〜、自我出さなくて良かったぁ笑」
みたいなことしかないです。
僕は歯車であり補助輪であり誘導係です。
仕組みや構造に魅入られてるだけの変態です。
必ずあなたの力で成せると本気で思ってます。
だって命は今も意思とは関係なく動き続けているのだから。
ただそのために必要な気づきとか、進む順番とか、プロセスのお手伝いを、たまに会う友達くらいの距離感でやれたらいいなって思っています笑
少しは出来たでしょうか、言語化。
脱線した感は否めませんが、まぁこれも僕らしさということでゆるしてもらえればと思います笑