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【言志四録6】実際に役立ってこその学問(言志録6)
週次の習慣にしていきたい言志四録の感想。
今回は、言志録の6回目である。今回も自分の中で特に気になった項目を5つ取り上げた。その上で、その中で印象に残ったことを踏まえて、タイトルをつけてみた。今回は、「学ぶ」ということについてが印象的であった。一斎は、「事理融会して、学問は日用を離れざる意志を見得する」という。実例と理屈とがよく融け合って、学問は決して日用を離れないものであると言っている。実践に役立ってこその学問。クルト・レビィンの「アクションリサーチ」にも通ずる。というか、当時、学問とは人間形成のものであったので事理融会は当然と言えば当然であろうか。
なお、引用は特段注記がない限り、川上正光訳注「言志四録(一)~(四)」講談社学術文庫からのものである。
122 真己と仮己
本然の真己有り。軀殻の仮己有り。須べからく自ら認め得んことを要すべし。
宇宙の本質と一致して自己善悪を判別できる真の自己があり、身体を備えた外見上の仮の自己がある。このように自己に二つあることを自ら認めて仮の自己のために真の自己を駄目にしてはならない。
これを読んでふと浮かんだのが、「お天道さまが見ている」ということである。誰が見ていようとどんな状況だろうと何が正しいかという観点で考え行動していかないと道を踏み外す。
123 惜陰
人は少壮の時に方りては惜陰を知らず。知ると雖も太だ惜しむには至らず。四十を過ぎて已後、始めて惜陰を知る。既に知るの時は、精力漸く耗せり。故に人の学を為むるには須べからく時に及びて立志勉励するを要すべし。しからざれば則ち百たび悔くゆとも亦竟に益無からむ。
人は、若くて元気壮んな時は、時間を惜しむことを知らない。
よし知っていても、そう大して惜しむには至らない。四十歳を過ぎて始めて、時間を惜しむことを知る。すでにその頃になると、精力がだんだん衰えて来る。
故に人は学問するには、須らく若い時に志を立てて大いに勉め励まなければならない。そうでないと、後になってどんなに悔やんでも無益である。
これは、本当そう思う。
時間が惜しい。やりたいことはたくさんあるけど、体力続かない。時間が足りない。
ただ、若い時にやっておけばと思うようにはしないようにしている。今からでも間に合うと考え、今できることを精一杯やるしかないと思っている。
130 急げば失敗する
急迫は事を敗り、寧耐は事を成す。
何事も急いでは失敗する。落ち着いて忍耐強く好機の至るを待っていれば、目的を達することができる。
その時の感情に任せずに、落ち着いて目的に向かってやるべきことを考えて我慢強く行動する。こういう自分でありたい。
140 活きた学問
経を読む時に方りては、須らく我が遭う所の人情事変を把りて注脚と做すべし。事を処する時に臨みては則ち須らく倒に聖賢の言語を把りて注脚と做すべし。事理融会して、学問は日用を離れざる意志を見得するに庶からん。
経書を読む時は、須らく自分が出会った人事や事変をとりあげて、経書の注釈とするがよい。実際に起こった事件などを処理する場合には、前と反対に聖人や賢人の言葉を持ってきて、活用し、これを注釈とするがよい。以上のようにすれば、実例と理屈とがよく融け合って、学問は決して日用を離れないものであるという意義を納得することができるであろう。
理論と実践の融合。学びを深めるのにとても重要な要素である。
何のために自分は学ぶのか?
学ぶ目的を考えてそれをしっかりと中心に据えながらやっていきたい。
142 読書の感想
吾れ書を読むに方り一たび古昔聖賢・豪傑の体魄皆死せるを想えば、則ち首を俯して感愴し
一たび聖賢・豪傑の精神尚お存するを想えば則ち眼を開きて憤興す。
自分は書物を読むに際して、一たび昔の聖賢や豪傑達の体も魄も皆死んでしまったのだなと思うと、首をうなだれて悲しい思いをするが、しかしながら、一たびそれらの人々の精神はなお活き活きと存在しているのだと思えば眼を開いて発憤興起するのである。
この言志四録もそうである。
150年以上も前に書かれた本であるがその精神は活き活きと伝わってくる。そして、その精神は今でもとても参考になる。私にとって、この言志録は、同じ年代のときに書かれているということもあり、共感できる項目が多くまた発憤興起させられる書である。