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【言志四録8】何事も行き過ぎは良くない。学ぶことで中庸を保つ(言志録8)
週次の習慣にしていきたい言志四録の感想。今回は、言志録の8回目である。今回も自分の中で特に気になった項目を5つ取り上げた。その上で、その中で印象に残ったことを踏まえて、タイトルをつけてみた。
今回は、行き過ぎない中庸の精神や宇宙の法則など、俯瞰してものを見ることの大切さを唱える文章が多かった。言志録も終盤で、一斎が50歳前後での文言だろうか?自分の来し方を振り返っての言葉のようにも思う。
なお、引用は特段注記がない限り、川上正光訳注「言志四録(一)~(四)」講談社学術文庫からのものである。
224 似て非なるものを悪む
匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛愎は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む。
感情を抑えて外にあらわさないことを意味する匿情は、つつしみ深いことを意味する慎密によく似ている。柔和で媚びへつらうことを意味する柔媚は、うやうやしく従うことを意味する恭順に似ている。剛情で道理に悖ることを意味する剛腹は、自分の力、値打、正しさなどを信ずることを意味する自信に似ている。
こういうわけで、孟子、尽心章に「孔子もまた、似て非なる者を悪む」とあることがよくわかる。
確かに「似て非なる」状態というのはよくある。例えば、「謙譲」と「主体性がない」など。そのような状況を捉えたときに、どう解釈するか?
場面場面によって、またその時の自分の感情によっても捉え方を変えてしまうことがあるが、その時の感情にゆさぶられてはいけない。
また孔子や孟子が言っているのは、一見よさそうな精神、考え方を持っているように見えるが、実は似て非なる状態な人をにくむと言うことだろう。
これも注意しないといけない。どの人の動機は純粋なものか?はしっかり見極めないといけない。
225 復性の学
惻隠の心も偏すれば、民或いは愛に溺れて身を殞す者有り。
羞悪の心も偏すれば、民或いは自ら溝瀆に経るる者有り。
辞譲の心も偏すれば、民或いは奔亡して風狂する者有り。
是非の心も偏すれば、民或いは兄弟牆に鬩ぎ、父子相訟うる者有り。
凡そ情の偏するは、四端と雖も、遂に不善に陥る。
故に学んで以て中和を致し、過不及無きに帰す。
之を復性の学と謂う。
憐み痛む惻隠の心も、度が過ぎると民衆の中には、愛に溺れて身を亡すものがあろう。
自分の不善を恥じたり、人の不善をにくむ羞悪の心も、度が過ぎると民衆の中には、ドブの中で首をくくる者も出るであろう。
辞退すべきは辞退すべきは辞退し、ゆずるべきは人にゆずる辞譲の心も、度が過ぎると民衆の中には、逃げ隠れて気がおかしくなる者がでるであろう。善悪正邪を識別する是非の心も、度が過ぎると民衆の中には、兄弟喧嘩をしたり、親子訴訟を起こすような者が出るであろう。
このように感情が一方に片寄り過ぎると、孟子のいう四つの端本までが、よくないことになってしまう。
故に学問をして性情を中正にし、過不足なきようにせしめる。これが復性の学というものである。
孟子のいう四つの端本とは、仁義礼智(「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり」)のこと。
人が学ぶというのは、自分の心を中庸に保ち、行き過ぎないようにするためであるとする。このバランス感覚を身につけるのは、なかなか難しいがとても大切である。一歩一歩、経験を踏まえて、そこから自分なりに考えて導き出していくしかないと思う。
230 人を責める分量
堯、舜の上、善尽くる無し、備うるを責むるの言、畢竟難きなり。
必ず先ず其の人の分量の至る所を知り、然る後備うるを責む。
然らずんば寧ぞ窮極有らん。
堯と舜の上には善が限りなく備わって、尽くるところがない。
しかし、人に完全を求める事は難しい。
だから、相手の器量に相応する到達度を知って、それ以下しか備わっていなければ責めたらよい。
そうでなく、ただ人を責めるのでは際限がないことだ(そういうことはしてはいけない)。
すべて完璧な人などいない。無いもの、無理なものを求めて人を責めてしまうことはないだろうか?そこに自分の感情が絡むとさらに難しくなる。一旦、一呼吸置き、本文で言うように相手の器量を見ながらどう指摘するかを考えねばなるまい。
239 読書の法
読書の法は、当に孟子の三言を師とすべし。曰く意を以て志を逆う。
曰く尽くは書を信ぜず。曰く人を知り世を論ずと。
読書の方法としては、まさに次の孟子の三言を師とすべきである。
その一、「自分の心をもって、作者の精神のあるところを迎えとるべきである」
その二、「書物に対しては批判的であってその一部は信用しても、全部は信用しない」
(孟子の言う書は、書経の意であった)
その三、「作者の人柄や業績を知り、またその当時の社会的背景を論じ、進修の資とする」
本の文面を読んでなるほどと思って、終わりというのだけではもったいない。
時代背景や著者がどうしてそう考えるのかなどをしっかりと考えることはとても大事。また私が苦手なのは、批判的な読み方である。(本になっていると特に)すべて信用してしまいがちである。ここは自分の中で改めていきたい。
241 万物は不定にして定まる
不定にして定まる、之を无妄と謂う。宇宙間唯だ此の活道理有りて充塞し、万物此れを得て以て其の性を成す。謂わゆる物ごとに无妄を与うるなり。
世の中のすべての物は、時と所と位とに従って千変万化するが、妄動はせず、一定不変の理が貫通している。これが天理または至誠であり、易ではこれを「无妄」という。
宇宙間にはこの活きた道理が充ち塞がっており、万物はこの活動理を得て、各々その本性を成している。このことを物ごとに「无妄を与う」というのである。
すべてのものは不変ではなく、移ろいゆく。このことが一定不変の理、宇宙の法則である、著者は、「天理」「至誠」という。この文の後に、「242 すべて活き物」と続くが、人間の生死もすべて天理である。そのような天理、法則の中で自分が何を為すべきか、自分の生きる道をしっかりと考えていきたい。