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年間読書人こと田中幸一さんの過去の業績まとめ+note運営への要望


 どうも、こんにちは。吉成学人です。
 今回は年間読書人こと田中幸一さんの過去の業績を記事にしたいと思います。

 田中さんとは、昨年の11月6日に記事で紹介したあと、ご本人が紹介の仕方に不服があったことで、夜中から午前4時近くまでコメント欄でやり取りをすることになりました。具体的には、彼のアイデンティティ呼称をめぐる問題で、彼の機嫌を損ねたことが原因で、私の対応にも問題があったと認めます。

 とは云え、差別や人権問題にあまり関心のある書き方ではなかったので、過去の彼の業績を追いかけることにしました。ざっと、読んだ感じとしては彼の元々の関心はアンチミステリー関連で、文学関連の評論で評論家としてデビューしたことがわかり、社会問題や宗教関係の評論を行なうようになったのはだいぶあとだと云うことがわかりました。まぁ、元々専門の分野ではないので、付け焼き刃感が否めません。

 なお、田中さんご自身、私のコメント欄で「この世界に意味はないんだ」と云うことをおっしゃっていて、過去の発言や文章を読んでも同様の主張をされているので、「じゃあ、あなたとやり取りするのも意味ないですし、文章を読む必要もないですよね。だって、あなたも意味のない世界の一部ですから」と云うことで、ご本人の意志を尊重するかたちでブロックをすることに決めました。ブロックしたあと、なぜか田中さんは私のことを記事にしたようですが、何か問題があったのでしょうか。 

 ちなみに、私と同様の体験をされた令士葉月さんと云う方がいらっしゃり、彼の人物評を記事にされていますので、過去の彼の業績を調べた私の結論とほぼほぼ一致しているので、特に付け足すことはありません。


 

 とは云え、noteユーザーの中で、今後も田中さんの記事を読んだり、彼と交流するさいに、私が収集した資料が一定の参考になると思いますので、本記事ではまとめ的な感じで過去の業績を紹介したいと思います。ちなみに、あらかじめ断っておくと、私自身は田中さんに悪い感情は持っていません。むしろ、彼のおかげで今まで読まなかったジャンルの書籍を手に取るようになり、読書の幅が広がったことを感謝しています。


1、田中幸一さんの経歴


 まず、田中さんの経歴についてですが、彼が監修を務めた『バラの鉄索 村上芳正画集』のAmazonの頁に記載されている彼の経歴は以下のようになっています。


田中/幸一
1962年生まれ。文芸評論家。村上芳正ホームページ「薔薇の鉄索」主宰 

https://www.amazon.co.jp/%E8%96%94%E8%96%87%E3%81%AE%E9%89%84%E7%B4%A2-%E6%9D%91%E4%B8%8A%E8%8A%B3%E6%AD%A3%E7%94%BB%E9%9B%86-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E4%B8%80/dp/4336057362/ref=sr_1_12?qid=1680075345&s=books&sr=1-12&text=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E4%B8%80


 と云うわけで、具体的な業績ですが、国会図書館やサイニーで検索をかけても、『薔薇の鉄索』以外にヒットしませんでした。




 とは云え、国会図書館やサイニーに収録されていない媒体で文章を書いている可能性があるので、その線で調べることにしました。結果、単独で田中さん個人名義で書籍になるようなまとまったかたちで文章を書いていませんが、他の小説家の書籍や同人誌では文章を書いていて、ネットでいくつか論争を行なっていたことが確認できました。
 と云うことで、以下、時系列順に紹介していきたいと思います。(なお、引用資料には差別的攻撃的な文言が含まれていますが、当時の時代背景や原文を尊重する観点から原文のママ掲載します)。


2、「得体の知れぬ怪物のようなもの」の所在ー「評論家・法月綸太郎」の虚像と実像


 最初に紹介するのは、小説家の竹本健治さんが1995年に刊行した『ウロボロスの基礎論』に収録されている『「得体の知れぬ怪物のようなもの」の所在ー「評論家・法月綸太郎」の虚像と実像』です。
 同作は、小説家の竹本さんの代表シリーズである『ウロボロスシリーズ』の二作目にあたる作品で、著者本人や90年代に活躍した作家が架空の小説の世界に登場する内容で、現実の人物を素材にしつつ、架空の物語を展開するポストモダン的な世界観に基づいています。とは、現在20代の私にとって、現実と虚構の境界を曖昧にする作品自体はあまり新鮮さを感じないのですが、その後のライトノベルやアニメ、ゲームなどのサブカルチャーに影響を与えたのかなとぼんやりと思いました。

 初版本に収録されている田中さんの論考は340ー354頁に収録され、およそ14頁にかけて掲載されています。内容としては、タイトルになっている評論家兼作家の法月綸太郎さんとの論争と云うかたちになっています。とは云え、あまり小説を読まず、ましてや30年近く前のアンチミステリー業界のことはよくわからないのですが、結論で田中さんが云いたいだけはわかりました。


 いずれにしろ法月綸太郎が今後も評論活動を続けていくつもりなら、私が批判したような点について反省するか、あるいは好きな作家の作品についてしか言及しないという風にすべきである。

竹本健治『ウロボロスの基礎論』講談社、353頁。


 論考の末尾に関しては、同じ単語が繰り返し述べられているので、小泉進次郎構文のように読めました。


 「評論家・法月綸太郎」の欠点は、自分の力を過大評価し過ぎている、あるいは過大評価したがっている点である。彼は小説中に虚構された「名探偵・法月綸太郎」ではない。「神の如き英知を持つように創られた) 名探偵」ですら『ふたたび赤い悪夢』に描かれたように「人がなしうることの限界とそれへの態度」をめぐって苦悩したのである。まして神ならぬ身の「評論家・法月綸太郎」がどうしてどんな作品でも正しく読解し、正しく評価を下せよう。所詮、人でしかない「評論家」は人としての限界を見定め、節度と誠意をもって批評対象と対するべきである。.........「評論家・法月綸太郎」は「名探偵 ・法月綸太郎」と同一人物ではない。そのことをすべての読者以上に法月自身が深く銘記すべきであろう。「名探偵・法月綸太郎」は、いかに人間的に描かれようと所詮は「理想化された偶像」である。 一方「評論家・法月綸太郎」は「法月綸太郎」というペンネームで「もの書き」をなりわいとする一個の人間でしかない。「本名」の彼は、ペンネームを得る前も得た後も、やはり「彼」 以上でも「彼」以下でもない、単なる彼そのものでしかないのである。その事実の重みを、法月はもっと身にしみて実感すべきなのである。

同書、354頁。



 法月さんは田中さんの同論考に対して、以下のように反論しています。

 筆者(法月)に加えられた批判に関しては、これでよい。しかし、「ことのついで」に批判にさらされた野崎氏に対して「もの書き間」での筋を通すために、ここで一言しておかなければならない。筆者(法月)は、田中氏の『夕焼け探偵帳』批判には首肯しえない。田中氏の野崎評は結論先行で、前提となる分析記述が一切欠けているからだ。多くの行数が割かれているにもかかわらず、それはツレット症候群(反響言語症や汚言症を伴う運動失調症。最終的には精神荒廃をきたす)患者のように、ひたすら同じ文句を繰り返しているだけである。

同書、355頁。

 

 法月さん自身は田中さんの指摘にあまり影響を受けなかったようで、その後も作家兼評論家として現在も活動しており、一部の著作は中国語やハングル、英語に翻訳されています。


 

 ちなみに、田中さんも同作に登場しますが、物語の途中で殺害され、汚物にまみれた状態で発見されます。作中で田中さんが殺害された理由について、竹本さんは以下のように語っています。


 それはもちろん、田中君がこれまで周囲に投げつけてきた批判・攻撃への報復ですね。僕自身もいくつか作品をバッサリやられたけれど、そんなものは全く屁みたいなもので、いざとなればファンジン誌上だけではなく、直接個人あてにどんどん批判文を送りつけるのを”怪文書”とまで表現している人も何人かいたくらいだから、相当多数の人間から嫌悪や憎悪を買い集めたのは間違いないでしょう。あるいは直接攻撃を受けなくとも、自分が大好きな作家が誹謗中傷されたとなると、ファンとしては黙っていられないでしょうしね。

同書、502頁。


 なお、田中さんが死亡したと云うのはあくまで架空の小説の中での設定であって、現実の本人は存命なので安心してください。


3、地獄は地獄で洗えー笠井潔批判


 次に、紹介するのは1996年に、第三回創元社推理評論賞に応募した「地獄は地獄で洗えー笠井潔批判」です。現在は、「別冊シャレード48号 笠井潔特集」に収録されていますので、ご感心のある方は同誌を発行しています甲影会に連絡して購入してみましょう。なお、私が購入したさいは1000円ほどでした。



 同論考のタイトルになっている笠井潔さんは若き日の田中さんの推しの作家です。田中さんがミステリーファンになったきっかけとして、笠井さんの作品を上げています。正直、田中さんの過去の業績を調べるまで「笠井潔」と云う作家のことは知らなかったのですが、元全共闘運動の活動家で連合赤軍事件に衝撃を受けて運動から撤退したあとに小説家になり、マルクス主義に依拠しない左派思想の構築を提唱するなどの思想家としての側面を持った人物で、現在も現役で活動しているようです。私も参考として、何冊か読んでみました。文章は全共闘世代の雰囲気があって『テロルの現象学』のような評論は難しかったのですが、小説の矢吹駆シリーズはなるべく読者を楽しませつつも、自身の思索を作品に織り込んでいると云う感じがしました。



 田中さん自身、笠井さんの熱烈なファンだったそうで、20代のときに本人に招かれて直接インタビューをする機会に恵まれたそうです。(なお、当時のインタビュー記事「アンチミステリの巨人 笠井潔さんに聞く」も「別冊シャレード48号」に収録されています)。もっともその後は、笠井さんを批判するようになり、体系的にまとまった文章として同論考を執筆したようです。

 さて、同論考の内容としては、推しの作家である笠井さんへの愛情に溢れていますが、それゆえに現実の文壇での笠井さんの言動に不安を覚えるそうで、曰く「不徹底」だそうです。もっとも、なぜか同論考では笠井さんの作品の内容よりも、現実の人間関係のほうに頁を割いていています。

 最終的な結論として、田中さんは以下のように書きます。


 だが「笠井潔」に、次は無い。「本格」に次はあっても、「第二の笠井潔」は金輪際登場しないのである。だから、笠井潔にはその終焉まで笠井潔らしく生きてもらわねばならない。だが、このまま晩節を汚すというのなら、―― 「安楽死」も止むをえまい。
 私は笠井潔に甦ってもらいたいのだ。ただそれだけのことなのだ。だが、それも適わぬ夢だというのなら、私は「笠井潔葬送派」の汚名も、あえて受ける覚悟はあるつもりだ。ここまで書き記してきたこと、それはすべてそうした覚悟を前提としている。何もかも、すべては「ありし日の笠井潔」の思い出のために為されたものなのかも知れない。 

「地獄は地獄で洗え」:『別冊シャレード48号』、42−43頁。


 田中さんは6年後の2002年に、「歴史的記述として」と云う論考の中で、当時の選考委員の論評を取り上げています。ちなみに、笠井さん本人はノーコメントだったそうです。


 第三回創元推理評論賞・選考委員法月綸太郎の選評より、拙論言及部分。

田中幸一「地獄は地獄で洗え・・・・・・ ——笠井潔批判」これを読んだ笠井委員は怒り心頭に発して、破門を言い渡したそうである。むべなるから。例によって、私も刺身のツマのごとく、批判の俎上に載せられているので、公の選評というには微妙なところだが、作家論としてみれば、あまりにもナイーヴで、楽天的にすぎる。太刀筋は決して悪くないのだから、肉を斬らせて骨を断つような筆法を身に付けてはどうか。

 第三回創元推理評論賞選考委員巽昌章の選評より、拙論言及部分。

 やはり選考委員への挑戦といえるのが、田中幸一「地獄は地獄で洗え ......... は、最近の笠井氏の言動を取り上げて、「身内に甘い」傾向がみえると指摘するものである。最近の「論壇」の状況をよくすくい上げて一貫した文章にまとめているし、単なるゴシップではなく、笠井作品への読み込みを感じさせる点、また、馴合いではない批評という正論が根底にある点で、私は好感を持つ。
 しかし、批評家・作家としての作品の内容を離れて、いわば書き手の倫理だけを取り上げようとするか、のような傾向に、違和感をもったことも事実である。 笠井氏が島田荘司氏や法月綸太郎氏などに「甘い」というけれども、では彼らのどこが本来批判されるべきなのか、どこを撃てば核心に当るのかが、彼らの作品内容そのものから明らかにされているとは言い難い。 たとえば「評論家としての法月綸太郎」に対する笠井氏の態度を問題とするなら、この二人の評論作品に即した検討が必要ではないだろうか。「現代思想だの哲学だの純文学だのといった世界で流通している言葉 (外部の権威)で、『鬼面、人を驚かす』態の評論を書いてみても、ミステリ界の本質が、少しも変わらない」という確信から評論作品自体の検討を除外しているのなら、少なくとも私は不毛な印象を持つ。

「歴史的記述として」:「別冊シャレード48号」、45頁。


 なお、私が同論考を読んだ印象は、当時の選考委員とあまり変わりませんでした。ちなみに、当時の田中さんは別件で笠井さんに抗議を受けたそうです。その当時の様子を以下のように回顧しています。


たしかこの後、別件(つまり評論賞応募作の件ではなく、私の発言を紹介した友人の同人誌原稿の件)で、笠井潔からお手紙を頂戴したのだが、これは見るからに怒りの走りを感じさせる「原稿用紙に赤ペン」で書かれた手書きのお手紙だったのである。お叱りの件については、ひとえに私の不注意に起因することであったので、私は笠井に謝罪の手紙を書くとともに、同じ同人誌の次号に「謝罪と訂正」を載せてもらった。だが、お叱りの内容はしごくごもっともだとは言え、そのタイミングは、いかにも不自然だった。当時、私は、私の原稿が載った同人誌あるいはそのコピーを欠かさず笠井の下へ郵送していたから、問題の原稿の載った号も早々に笠井の下に届けられていた(つまり、問題となった「私の発言」が引用された友人の原稿について、当時の私は、迷惑をかけるかも知れないというような疑念は、まったく抱かなかったということである)。したがって、その頃に笠井からお叱りの手紙をいただいたのならばともかく、笠井が手紙を送ってきたのは、それからずっと後の、私が評論賞を送ってしばらくしてからのことだったのである。当時、笠井からの手紙を受け取った私は、当然のことながら、手紙の内容は評論賞応募作にかんするものだろうと思った。ところが、内容はあにはからんや「今頃になって......」というものだったので、正直呆れてしまったという記憶が今も鮮明に残っているのである。

「歴史的記述として」:「別冊シャレード48号」、47−48頁。


 同誌では、他にも90年代から00年代の田中さんによる推しの笠井さんへの愛情が溢れた論考が複数収録されていますので、若き日の田中さんの推し活にご関心のある方は甲影会に連絡しましょう。


4、空虚に巣食う魔ーー笠井潔と奈須きのこ


 次に紹介するのは、2004年に自身の掲示板「アレクセイの花園」で公開した「空虚に巣食う魔ーー笠井潔と奈須きのこ」です。同掲示板は現在、サービスの停止から閉鎖されていますが、中国系のサーバーで魚拓が残っているため、文章の閲覧は可能です。


https://archive.md/ycqUd

 

 内容は、当時の新人作家であった奈須きのこさんのデビュー作『空の境界』の批評なのですが、なぜか同書の解説を書いた笠井潔さんへの批判が全面に出ています。

 

 話題の新人作家のデビュー作『空の境界』(奈須きのこ・講談社ノベルス)を読みはじめて、いきなり「文章」に引っ掛かってしまった。一家をなしたベテラン批評家である笠井潔から、上下巻にわたる長文の解説をもらうという「破格の配慮」をうけた「(読書界では)無名の新人作家」の作品だったから、ことさら評価が厳しくなった、というわけではない。むしろ奈須きのこは、笠井潔に見込まれ(巻き込まれた)人なのだろうから「彼には、何の罪咎もない」と私は考える。だから、奈須に「破格の配慮」に値する力量があろうとなかろうと、彼に厳しくあたろうなどという気は、私には微塵もなかった。……なのに、いきなり文章に、ひっかかってしまった。
 有り体にいえば、文章が下手なのである。いかにも同人作品らしく、文章が生硬で、読んでいてひどく抵抗を覚えてしまう。はたして、上下巻を読み通 せるか、と不安になった。


 しかも、なぜか冒頭の数十頁を読んだだけで、「文章が下手」や「思考力が低い」と述べています。


 しかし、『空の境界』の冒頭を10ページほど読んでみて、私の意見はハッキリと「奈須きのこは、文章が下手である」という立場に落ち着いた。
 もちろん、これは「文章」にかぎった評価であり、『空の境界』という「作品の総合的な評価」でもなければ、奈須きのこという「作家の才能や将来性」まで云々するものでもなかった。文章が下手だとは言っても、先般 、『葉桜の季節に君を想うということ』で日本推理作家協会賞を受賞した歌野晶午の、デビュー作(『長い家の殺人』)当時の文章に比べれば、数段マシだとも言える。歌野がその後、目を見張るような成長的変貌を遂げたように、奈須きのこも今後、小説を書き続けていく中で、文章もこなれて、次第に上達していくのは、ほぼ間違いのないところであろう。
 だが、この時点での客観的評価としては「奈須きのこは、文章が下手である」としか言いようがなかった、というのも偽らざる事実なのである。


 『空の境界』の文章が、壊滅的に酷いものであるという事実については、すでに実例を挙げて証明しておいた。しかしそれは、『空の境界』の冒頭10ページほどを読んだだけの段階でのことである。

 「だから」と言うべきか、「それでも」と言うべきか、ともかく私は、このデビュー即ベストセラーになった新人作家の小説を、いちおうは最後まで読んで、きちんと評価してみたいと、その段階では考えていた(上下各巻の帯には、それぞれ『これぞ新伝綺ムーブメントの到来を告げる、傑作中の傑作』『これぞ新伝綺ムーブメントの起点にして到達点』という惹句が躍っている)。
 しかし、その意欲は、冒頭30ページまで読むにいたり、あっさりと挫折してしまった。あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さに、それ以上は読むに堪えなくなったのである。


 私も試しに、同書を手にとって読んでみたのですが、上下二巻の全7章で800頁以上ある長編作品を冒頭の箇所だけで評価して良いのかと疑問に思いました。元々、同作は奈須さんの同人サイト「空箒」に掲載され、その後、加筆修正された上で講談社ノベルスから出版されています。なので、冒頭の章は文章が全体的に短くて描写も荒く、世界観も登場人物のこともよくわからないまま話が進むのでいまいち頭に入ってこないのですが、後半の章に進むにしたがって描写が洗練されていき、どのような世界設定で、登場人物の背景が明かされていきます。ある意味では、素人の同人作家だった奈須さんがプロの作家に転身していく軌跡が文章から読み取れます。



 なぜ、笠井潔はこの程度の作品を持ち上げるのだろうか。たしかにこの作品は、同人小説としては異例の成功をおさめており、その意味では、ある一定の人たちに、何らかの魅力を感じさせた、というのは事実なのであろう。しかし、ある程度、小説を読んできた者(笠井潔を含む)とって、『空の境界』の文章は、あまりに酷すぎるのではないか。また、この小説を論じて、この文章の酷さに言及しないというのは、作品評価として片手落ちなのではないか。「解説」だから、作品の欠点に言及する必要はない(あるいは、言及できない)という意見もあるだろうが、それならそれで、そもそもそんな無理をしてまで書かれた「解説」に、どれほどの存在意義があるというのであろう。

 ともあれ、笠井潔の「解説」では、まったく言及されることのなかった『空の境界』の『あまりにも酷い文章と、その文章力にあらわれた作者の思考能力の低さ』について、ここでもう少し、実例に則して説明を加え、その上で、この点に口を閉ざした笠井潔による「解説」の意味を、後で問うてみたいと思う。


 なぜか同論考の後半は笠井潔さんの解説の批判となっていて、肝心の同書の批評を放棄します。笠井さんの話が延々と続いていて、正直何を云っているのかよくわかりませんでした。ただ、結論の部分はよくわかりました。田中さんは同論考の結論を以下のように述べています。


 そうした意味で、『空の境界』(の「文章」)は「ペテン」の道具にピッタリだったのである。つまり、奈須きのこや『空の境界』は、単に「明晰さを欠いた」凡庸な作家であり作品なのであって、それを利用して「ペテン」をかましたのは、あくまでも笠井潔なのである。

 つまり、奈須きのこや『空の境界』は、「からっぽな器」であり「空虚な匣」に過ぎないのだが、そこに笠井潔という「魔」が巣食ったために、奈須きのこや『空の境界』は、新たな「伝奇小説」ブームに延命を賭ける笠井潔によって、

『『空の境界』は、探偵小説やSFなどの近隣ジャンルの読者を含め、多数の伝奇小説読者に衝撃を与えるに違いない。この作品には、伝奇小説の沈滞を打ち破るパワーが秘められているからだ。伝奇小説に新地平を拓いた『空の境界』』

に祭り上げられた、というわけなのだ。


 なお、後年の2011年に、ヤフー知恵袋では同論考に関する質問が寄せられています。



アレクセイ(田中幸一)さんの「空の境界」批評 についてどう思いますか? 知っている方だけお答え下さい。 確かに、誰にでも批評する権利はありますが、たかが数P読んだだけで判断するのはいかがなものでしょうか? 読了したわけでもないのに、「文章が壊滅的だ」とは安易すぎませんか? これを“具の骨頂”と言います(誤用だったらすいません……) “既存の小説技法”に“表現の自由”は取り入れてもいいんでしょうか? 支離滅裂な文章になっていますが、回答お願いします! 怒りにかまけて、ここに投稿してしまった御無礼をお許し下さい……………。 


 それに対する回答は以下のようになります。


ググったら出てきました。これですね。 http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_nasu.html

先に書いておきますけど、彼を擁護する意図はありません。 が、「最初の数ページで文章力を判断すること」それ自体は、 たとえば文学部教授が小学生の作文を見たときのように、 決して不可能なことではありません。あくまでそれ自体は。

ただ、奈須きのことアレクセイ(田中幸一)氏との間には、 文章力において桁外れの差が存在するとは思えないので、 冒頭だけ読んで判断したのは単に面倒だったからでしょう。 上記リンク先も、後半まで読み進めれば分かりますが、 結局は笠井潔を批判したいだけです。『空の境界』抜きで。 ま、タイトルが「笠井潔と『空の境界』」だから当然ですけど。

それに、批判のやり方もいろいろおかしな点があります。 いちいち取り上げることはしませんけど、
・アレクセイ(田中幸一)氏の日本語力にも問題がある
・設定やストーリーに依存する文章だと理解していない
・文章のみならず作者やキャラクターまで批判している

徹頭徹尾こんな感じですから、「批判」というよりも、 もはや「いちゃもん」としか僕には感じられません。 BBSを見ても、いろいろ問題がある人物のようですし、 無視するのがベストです。触らぬ神に祟りなし。 なお、「表現の自由」というのは「表現する自由」であって、 文章技術ではなく発表に関わる権利のことを指します。 この場合は「自由な表現」とでもすべきではないかと。 いかん、アレクセイ(田中幸一)氏の批判っぽくなってしまった(笑)。


 ヤフー知恵袋の評価だけでは物足りなかったので、私は同論考を株式会社ユーザーローカルが提供するAIによるテキストマイニングで分析することにしました。分析結果をみると、単語の出現頻度では、「空の境界」や「奈須きのこ」よりも「笠井潔」のほうが多いことがわかりました。


ワードクラウド


単語出現頻度


 さらに、文章内での単語の出現パターンを表した「共起キーワード」では「笠井潔」のほうが「奈須きのこ」よりも複数の単語と紐付いていることがわかります。なお、出現頻度の多い単語ほど丸が大きくなり、関連が強いほど線が太くなるようで、「奈須きのこ」があまり重要な単語でないことがわかります。


共起キーワード


 次に、文章の中での出現傾向が似ている単語ほど近く、似ていない単語ほど遠くに配置される「二次元マップ」では「奈須きのこ」には「解説」「思う」「書く」「公開」「空の境界」と云った当たり障りのない単語が配置されているのに対して、「笠井潔」では「意味」「小説」「事実」「作品」「事実」「年代」「文章」と云った小説作品を語る上では重要な単語が配置されているのがわかります。また「奈須きのこ」よりも「笠井潔」のほうが「伝記小説」や「本格ミステリ」に近い位置に存在しています。と云うよりも「作家」や「伝記小説」と云った重要な単語がかなり脇に追いやられているのがわかります。


二次元マップ


 文章全体の感情を分析する「サマリー」では「ポジティブ」よりも「ネガティブ」のほうが目立ち、「怒り」に強い力点が置かれていることがわかります。


ポジネガ


感情


 さらに、文章を分割して、ポジティブな感情とネガティブな感情の比率の推移を時系列順に分析した「ポジネガ推移」では前半の奈須さんの文章を批判する箇所でネガティブな感情が高く、後半の笠井さんの批判になるとネガティブな感情が下がり、ポジティブな感情が若干目立ちます。しかし、結論部分になると、再びネガティブな感情が盛り上がっていくことがわかります。奈須さんに強いネガティブな感情を持ち、笠井さんにはネガティブな感情とポジティブな感情が入り混じっていることがわかります。


ポジネガ推移


 最後に、文章を分割して感情の起伏の推移を時系列順に分析した「感情の推移」では前半の奈須さんの文章を批判する箇所では「怒り」「悲しみ」が大きく膨らんでいることがわかります。しかし、後半の笠井さんの文章を批判する箇所になると「怒り」「悲しみ」は一気に後退して代わりに、「好き」「喜び」が目立ちます。ところが、結論部分に入っていくと、「怒り」が一気に盛り上がり、最後に「悲しみ」が膨れ上がることで「喜び」「好き」が萎んでいくのがわかります。奈須さんに対しては「怒り」「悲しみ」の感情を向け、笠井さんには「喜び」「好き」と云う感情を抱いているのがわかります。逆に云うと、笠井さんが奈須さんを評価していることで「怒り」「悲しみ」が笠井さんにも向かっていることがわかります。


感情推移


 以上のようなAIによるテキストマイニングによる分析結果からも、ヤフー知恵袋での「笠井潔を批判したいだけ」と云う評価は妥当と云うことになります。もっとも、当の笠井さんに対しては複雑な感情を抱いているのようで、「怒り」「悲しみ」のような「ネガティブな感情」だけではなく「喜び」「好き」のような「ポジティブな感情」を抱いていることがわかります。20代のときからの推しで個人的な面識もあったのですから当然かも知れません。
 一方で、当時デビューしたての新人作家であった奈須さんは31歳の若さで、商業出版デビューを果たし、すでにベテランの作家だった笠井さんから「解説」を書いてもらっています。片や、田中さんが商業出版デビューを果たしたのは、1994年の竹本健治さんの『トランプ殺人事件』角川文庫版の「解説」からです。94年当時の田中さんは32歳で、奈須さんがデビューしたさいの年齢と1歳しか違いません。その若者がいきなり大作を出してデビューし、自分の推しだった作家から「解説」を書いてもらったのですから、上記のような分析結果になるのは、ある意味では仕方がないのかも知れません。

 ちなみに、奈須さんはその後も作家として、小説のみならず、ゲームシナリオやアニメの脚本などを手掛け、世界的な作家となります。私は同論考を読むまでは「奈須きのこ」と云う人物のことは知りませんでしたが、奈須さんがシナリオを執筆していたFateシリーズは知っていました。学生時代、友人たちが夢中になっていたパズドラやポケモンGOと云ったスマホゲームの他に、Fateシリーズが話題に上がっていました。私自身、ゲームはやらず、漫画も読まなかったのですが、テレビのCMでは同作のコマーシャルが流れているので、Fateシリーズの存在は知っていました。その原作者の作品をこんなところで読むとは、人生何がつながるのかわかりません。



5、その他 


 最後に、田中さんがネット上で行なった議論をまとめたいと思いますが、前述の論考群と比べると文章が短くて内容が薄いので「その他」にくくることにしました。

 まず、2007年に、評論家の原田忠男さんと行なった論争です。論争のきっかけは、同年に新刊だった竹本健治さんの『キララ、探偵す。』のレビュー内容が被っていてどちらが先に書いたか、だったそうです。その後、なぜか批評そのものに関する論争になったそうで、原田さんは浅田彰さんの『構造と力』の解釈を求めたそうですが、田中さんは返答しなかったそうです。原田さん曰く、浅田さんの『構造と力』は笠井潔さんの主著である『テロルの現象学』と同時期に刊行されており、笠井さんは浅田さんの著作を意識しながら、『テロルの現象学』を執筆したそうです。


笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。

  https://dzogchen.hatenablog.com/entry/20070227


 私も試しに、『構造と力』を読んでみたのですが、あんまりよくわかりませんでした。なるほど、浅田さんが80年代の日本の論壇を代表する言論人で、『逃走論』を読んだことがあったのですが、『構造と力』は難解でした。ある意味では、70年代の学生運動やマルクス主義を理解していないと内容を掴めないのかもしれないと思いました。『テロルの現象学』も直接、浅田さんの名前は出てきていませんが、ほぼほぼ同時代に評論家として著作を出しているわけですから、意識していなかったたとは考えにくいです。とは云え、現在からすると、あれもこれも読まないといけない、と云う教養主義的な雰囲気が気になるのですが。


アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみに、このような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』に言及しないという不可思議な行動を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。


 最終的に、原田さんは田中さんに現代思想の用語が田中さんには理解ができないことに無配慮で傷つけてしまったと云うことで謝罪しました。ちなみに、原田さんのブログ記事のコメント欄には以下のようなコメントが貼り付けられていました。


アレクセイ
これら「一連の日記」に書かれたこと、そしてここ「はてなダイアリー」では伏せられた、すべての事実を明らかにして、はらぴょんさんの本質に迫る論文です。ご笑読いただければ、幸いです。

☆ 「はらぴょん論」

・「アレクセイの花園」版
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1448

・「アレクセイのmixiページ」版
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=427452423&owner_id=856746


 なお、現在はリンク先の文章が読めないのですが、原田さんご自身は以下のような所感を抱いたそうです。


 ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。
 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。
 アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。
 アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。
 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。

https://dzogchen.hatenablog.com/entry/20070224


 結局、原田さんはミクシイで田中さんをブロックすることにしたそうで、後日、メールをいただいたそうです。


アレクセイ氏の狙いは、私を動揺させて、『キララ、探偵す。』のレビューに加筆・訂正をさせて、2007年02月01日 00:16という数字を、自分の発見より遅い時間帯にさせることだったと考えています。
今回のメールで、もはや友情関係などないことなどわかりきっているにも関わらず、マイミク関係の再開を迫るのは、私の監視をやりやすくするためであると考えられます。
ただ、アレクセイ氏自身、自身のやっていることの意味がわかっていないようで(私が盗作者に説教を受けている心境になっていることに、想像力が及んでいない)、それが私の不徳ゆえなのかも知れません。私に問題が多すぎるがゆえに、いくら憎んでも憎み足りない気持ちになるのでしょう。私もまた、一層自身に厳しくあらねばならないと思います。 

https://dzogchen.hatenablog.com/entry/20070428


 ちなみに、田中さんからのメールは以下のような文章からはじまります。


☆はらぴょんさん
貴方にはまったく失望させられます。
こないだの論争で、私のことを「もっと信じれば良かった」みたいなことを書いて「反省」を示していたはずなのに、いまさら閲覧拒否の逃げ隠れですか? こういうやり方が貴方自身のためにならないというのが、どうしてわからないのでしょうか?
私は、こないだの論争を始める前に「警告」を発しておきましたよね。それに対して貴方は「おとぼけ」で誤魔化そうとした。その結果が、アレでした。
だから、貴方に学習能力があるのであれば、私のこの2度目の「警告」には、真剣に耳を傾けて、今の安易な「逃避」的態度を即刻、改めるべきです。
貴方もご承知のように、愚か者の採る態度というのは、だいたいパターンが決まっています。
まず、批判されると、
・ とぼける(誤魔化そうとする)
・ わめく
・ 逃げる
・ 証拠湮滅する
というパターンです。――今回の貴方の行動も、これそのままです。


 内容としては、自分をミクシィコミュニティに誘ったのは原田さんなのだから、ブロックするのは筋違いである。だから、ブロックを解除して欲しいそうです。


大の大人が、逃げたり誤魔化したりすることを、恥じて下さい。貴方が尊敬する人たち、例えばドゥルーズに恥じて下さい。ドゥルーズは、決して貴方の態度を支持したりはしないはずですよ。そして、ご自分がこれまで、他人に対して下した評価を思い出して下さい。そのあたりのことを、しっかり考えて思い出して、現実を直視し、反省し、今回の愚行を早急に改めて下さい。
なんども言いますが、これは「警告」です。その覚悟で、責任ある対応を願います。                                  アレクセイ


 ちなみに、同記事のコメント欄でも田中さんは書き込みをしていますが、内容は煩雑なので取り上げません。ご感心のある方は原田さんのブログを直接閲覧してください。



 次に、2012年にTwitterで笠井潔さんとその周囲の作家たちとの論争をまとめた「マルクス葬送派」笠井潔と「笠井潔葬送派」の私」です。田中さんのTwitterアカウントは現在停止されているので元のツイートは閲覧できませんが、トゥギャザーでは現在でも閲覧可能です。



 トゥギャザーの冒頭で、田中さんは笠井さんへの思い出を語っています。


私は、笠井潔のとても古いファンだ。笠井に誘われて信州まで会いに行ったのは、まだ『哲学者の密室』が書かれる以前で、笠井が「伝奇SF作家」から「本格ミステリ作家」に復帰する以前だった。「矢吹駆シリーズ」初期3部作で笠井の熱心なファンになった私は、その頃から、笠井の発言に少しずつ不信感を深め、やがて笠井が選考委員をつとめた「創元文庫推理評論賞」に、最後の諫言として笠井潔批判論文を投じ、以降は「笠井潔葬送派」を名のることになった。私の笠井潔批判は、すでに四半世紀に及んでいる。 私が笠井潔批判に傾きはじめた頃の様子は、竹本健治の『ウロボロスの基礎論』にも描かれている。


 2012年当時、田中さんは50歳なのですが、90年代のころの笠井さんとの思い出をツイートしています。


アレクセイ @alekseytanaka
なお、私がまだ単純に笠井潔のファンで、同人誌を送っていた頃、その同人誌のエッセイに、笠井さんのご子息が「カケル」だと言及して「笠井さんも親バカだな」と好意的に書いたら、笠井さんが激怒して、原稿用紙に赤ペンでお叱りの手紙を下さった。この時はプライバシーの問題でもあり、謝罪しました。
2012-08-08 20:28:53

https://togetter.com/li/362605?page=2


 なお、田中さんは笠井さんのツイートをフォローしていたみたいですが、肝心の笠井さんは一向に反応してくれなかったみたいです。笠井さんのツイートにリツイートしても肝心の本人からは何もなかったみたいです。


アレクセイ @alekseytanaka
そうそう。肝心要の笠井潔をフォローし忘れていたので、今フォローした。これから、私の愛のメッセージが笠井さんに届くのだと思うと、とても闘志が、否、笠井潔ラブが沸き上がってきた。 それにしても、笠井さんを今日までフォローし忘れていたとは、我ながら私である(笑)。
2012-08-08 17:48:24

https://togetter.com/li/362605

アレクセイ@alekseytanaka2012年8月29日
私は、てっきりひさしぶりに、笠井潔が私に激怒したのかと期待したのだが、やはりそうではなく、私への「完全黙殺」は解かれていなかったようである(笑)。


 時折、田中さんは笠井さんへの思いを吐露しています。50歳の中堅になっても、推しへの思いは捨てられなかったようです。


アレクセイ @alekseytanaka
@kiyoshikasai 私も、熱心な笠井潔ファンとして、笠井潔の権力志向丸出しの言動は見たくなかった。よっぽど好きじゃなかったら、四半世紀もつきまとって批判しつづけることなんか出来ない。まことに切ないファン心理であることよ。2012-08-26 12:42:32

https://togetter.com/li/362605?page=6

アレクセイ @alekseytanaka
@from41tohomania 私とってはミステリ界なんて、どうでもいいんですよ。事実、『容疑者Xの献身』論争に敗北して、笠井潔が退場した後、私はミステリに興味を失ってましたからね。つまり、私は(大好きだった)笠井潔に興味があるのであって、ミステリ自体は「刺身のツマ」なんです。
2012-08-27 18:09:06

https://togetter.com/li/362605?page=6

アレクセイ @alekseytanaka
しかしまた、言論では直接的に命は奪えない。だから笠井潔みたいに、自覚のないゾンビも歩き回るし、歩いているのは人間だと思う、無知な読者もいる。だから、ゾンビは完全には殺せない。だけど、手足の指を1本ずつ切り落として、動けなくすることなら出来るんですね。@17noobies
2012-08-31 13:45:03

https://togetter.com/li/362605?page=12

アレクセイ @alekseytanaka
私も昔、竹本さんに「僕の父親は笠井潔で、母親は竹本健治。僕がやってるのは、父親殺しです」って言ったら「僕が母親なの? トホホホ…」と言われました。竹本さんには、私のやりすぎをヤンワリたしなめられるんだけど、父親似で、言うことを聞きゃあしない(笑)。@harapion
2012-09-02 11:45:59

https://togetter.com/li/362605?page=13


 ちなみに、この時期には原田忠男さんとは仲直りをしたみたいで、詩人の藤森槐さんと議論をすることになったようです。なぜか、笠井さんのことよりも三島由紀夫や太宰治の自殺に議論がスライドしたようです。どうやら、田中さんには現代思想の議論は難しかったようです。


藤盛槐 enju F. noteにて第4詩集『蛟』販売中。 @enju1948@alekseytanaka @harapion フーコー流に言うなら「〈人間〉の死」を、太宰も三島も旧来の価値観を反復することで乗り越えようとしてるように見えるんですよね。そこが彼らの限界かなとも思います。
2012-09-09 21:34:13

https://togetter.com/li/362605?page=17

アレクセイ @alekseytanaka
フーコーは読んでませんが、三島や太宰は自分という存在が消えてなくなることが怖くて、歴史の流れの中に自身を位置づけようとした、というようなことでしょうか。だとすれば、国家と一体化して自我を肥大化させるネトウヨと、ある意味で同型ですよね。@enju1948 @harapion
2012-09-09 21:47:21

藤盛槐 enju F. noteにて第4詩集『蛟』販売中。 @enju1948@alekseytanaka @harapion 三島は『文化防衛論』、太宰は『斜陽』で、その辺りのことは語ってるような気はしますが、彼らの伝統に対する姿勢はあくまで反復であって、回帰ではなかったと思います。ここでの「反復」の定義はドゥルーズに従ってるんですが(^_^;)
2012-09-09 22:32:04

アレクセイ @alekseytanaka
ドゥルーズも読んでいませんが、「反復」とは、新しい今に「古い型」を適用してみせるみたいなことかな? 一方、「回帰」は、そのままの逆行でしょうか? だとすれば、そのあたりで、三島や太宰と、今の頭の悪いネトウヨとは違う。@enju1948 @harapion
2012-09-09 22:48:26

原田 忠男 @harapion
@alekseytanaka @enju1948 反復というと、普通同じことの繰り返しなのですが、ドゥルーズの「反復」は、キルケゴールの『反復』に由来し、キルケゴールは追憶と反復は同じ運動だが、追憶は過去に向かってなされるが、反復は前方に向かってなされるとして、対になっています。
2012-09-09 23:35:40

原田 忠男 @harapion
@alekseytanaka @enju1948 ここから、転じてドゥルーズは「反復」を 差異を生み出す運動としています。「反復」と「差異」はセットで、反復することによって、あるものとあるものの差異がわかるという具合になっています。
2012-09-09 23:47:38

アレクセイ @alekseytanaka
この「まとめ」は、専門的な議論よりも、笠井潔の世界(の雰囲気)を全体的に把握してもらえるものになればなと。この「まとめ」をざっと眺めただけで、笠井の評論書もかじってみましたっていうミステリファンは、笠井について何も知らなかったって痛感するでしょう。@harapion
2012-09-07 17:53:41

アレクセイ @alekseytanaka
つまり三島は、ハートは弱いのに、目が良すぎた(見えすぎた)。そのギャップの悲劇だった、ということですよね。三島は賢すぎて、フィクションに酔うことが出来なかった。@harapion @enju1948
2012-09-09 23:11:36

アレクセイ @alekseytanaka
でも、徹底が好きなはずの笠井潔は、そういう点では「不徹底な嘘つき」で、うやむや、なし崩しに逃げて、後で辻褄合わせをする。そんなだから、死にきれないで「ゾンビ」化するんですね。@harapion @enju1948
2012-09-09 23:17:51

アレクセイ @alekseytanaka
だから、三島の場合は痛ましいし、同情の余地がある。姑息に不徹底な笠井潔と並べたら、三島が気の毒だと思うんですよ。@harapion @enju1948
2012-09-09 23:22:40

アレクセイ @alekseytanaka
私の我流解釈も、大筋では間違っていなかった、と理解します(笑)。哲学思想の素人なので、大目に見てやって下さい。それにしても、はらぴょんさんたちと議論すると、解説もしてくださるし、とても勉強になります。(* ̄∇ ̄*) @harapion @enju1948
2012-09-09 23:43:20


 その後も田中さんはいろいろ文章を書いていますので、気になる方は彼のnoteをみましょう。まぁ、私が収集した範囲で目立った業績は以上になります。


6、まとめとnote運営への要望


 さて、私が田中さんの過去の実績を調べるにあたって参考資料として、笠井潔さんや竹本健治さん、奈須きのこさんなどの作品を読んでみました。そこで得た結論は、 

いやー、プロの作家の書いたものって素晴らしいな

でした。

 いやー、やっぱり素人が作った料理とプロのシェフが作った料理ではレベルが違うように、アマチュアの書いた文章とプロの書いた文章は違うなー、と云うことです。ネットサーフィンをするのも良いのですが、たまにはプロの書いたものにお金と時間をかけることも必要と云うことです。

 と云うわけで、田中さんありがとうございました。さようなら。


 なお、note関係者でここまで読んでくださった方がいましたら、noteのコメント欄の機能に関して若干の要望があります。
 noteでは基本的に、自由に好きなことを書けるので多くのユーザーがいるのですが、あんまり自由放任にするのは問題ではないでしょうか。特に、コメント欄に関しては、ユーザーの自己管理にまかせているせいで、対応能力の弱い人から退会してしまっています。




 私みたいにフォロワーが二桁しかおらず、別に作品を投稿しなくても生活に支障がなく、「うーん、そうか。元気で生きてね」と云える人間ならともかく、フリーランスで生活がかかっている人やメンタルの強くない人にはあまり優しくない設計になっています。



 実際、田中さんみたいな論理的に「無敵な人」が問題を起こしているわけですし、ユーザーに心理的な負担を強いるプラットフォームはトラブルの温床になるのではないでしょうか。

 なお、noteの運営の方は私よりも年上で、00年代のインターネット黎明期を経験された方が多いと思います。そのころに味わった自由や開放感のようなものが大変新鮮だったことは理解できますし、本記事で紹介した奈須きのこさんは00年代の同人サイトから出てきて会社を設立し、商業的な成功を収めています。実際、ネットのブログから言論人やライターデビューした人は数え切れないほどいますし、「好きなことを自由に云える文化」が一定の功績を上げてきたことはわかります。 

 ただ、現在の社会では初期のインターネットのような「好きなことを自由に云える文化」の害悪を指摘する声が強くなっていることは理解していただきたいです。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2023年5月3日追記

本記事の注釈として下記の記事を公開しました。まぁ、本記事が事実を並べて、下記の記事では私なりの評価を述べた感じです。それにしても、皆さんはあんまり人が過去に何を書いていたのかに関心がないんですね。それよりも、「今ここ」の差異化が気になるみたいです。私も「今ここ」は大切だと思うのですが、もう少し長い視点でみようと云う気にはならないのは不思議に感じました。



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吉成学人(よしなりがくじん)
最近、熱いですね。